【002】珈琲の味







「雨宮!」

 思わず草壁が声を上げると、雨宮が顔を向けた。

「子ども……? その服は……それに顔立ちも……」
「そうだ!」
「草壁さんの隠し子だと!?」
「違う!」

 吹き出しそうになった草壁は、思わず叫んでからドアに鍵を向ける。

「中で話す! とりあえず入れ」
「……草壁さんは不在のようだが?」
「だから俺が草壁だ!」
「苗字が同じと言うことは、認知はして――」
「そうじゃない! 俺が本人なんだ!」

 中へと入ると、雨宮も素直についてきた。

「どういうことだ?」
「俺も混乱しているんだよ。雨宮、気付いたら子供姿になってたんだ」

 振り返って唇を尖らせた草壁を、しげしげと見てから雨宮が――不意に抱き上げた。
 そして顔をじっと見る。

「確かに顔立ちはそっくりだが、にわかには信じがたい」
「また不可思議な現象が起きたんだよ……」

 不服だという顔で、草壁が頬を膨らませる。その子どもらしい仕草に、雨宮は純粋にかわいいと思った。変な意味ではない。子どもを愛でる心境だ。

「信じてくれ、雨宮」
「……なにかきっかけはあったのか?」
「分からない。なにがなんだか分からないんだよ!」

 床に草壁を下ろした雨宮が、勝手知ったる様子でダイニングキッチンへと向かうのを、草壁は見ていた。雨宮は珈琲を二つ淹れると、リビングに運ぶ。

「飲めるか?」
「当たり前だ……っ、苦ッ!」
「草壁さんは珈琲が好きなはずだが?」

 どうやら味覚まで子どもに戻ってしまったらしい。草壁は涙ぐんだ。
 そのうるうるとした瞳がまた、愛らしい。

「母親の名前は?」
「俺の母親の名前なんか関係ないだろ」
「だが……草壁さんの配偶者なのだから――」
「いい加減信じろよ!」

 涙ぐみながら草壁が言うと、雨宮が自分の分のカップを傾けながら、緩慢に瞬きをした。

「それでは、俺たちが入った部屋は? 不可思議な」
「【神隠しの部屋】だ」
「そこで行ったことは?」
「片付けだろ!」
「――確かに、これは草壁さんが口外するとは思えないな。それもこんな子どもに」

 雨宮はチラリと草壁を見ると、カップを置いてから草壁に向き直った。
 草壁は頷いてから、なんとはなしに時計を見る。
 もう十時近くだった。すると――これまでまったく訪れなかった眠気がきた。

「っく、眠い……」
「子どもは眠る時間だ。とりあえずベッドへ行くか」

 そう言って雨宮が立ち上がったので、草壁も立ち上がる。

「ほら」

 雨宮が何気ない調子で手を差し出したから、草壁はなんとなく手を繋いでしまった。するとその手は温かくて、妙に安心感を与えてくれた。

 向かった寝室は暗い。
 雨宮が電気を点ける。
 そしてベッドの布団をめくると、草壁を見て、珍しいことに微笑した。

「ゆっくりと休むといい」
「あ、ああ……」

 つい笑顔に見惚れそうになった草壁だったが、睡魔に勝てずにベッドに上がる。

「では、俺は戻る」

 そう言って雨宮が照明を消した。
 すると暗闇の中で、草壁は無性に心細くなった。それこそ、子どものように。
 次第に、意識が退行していく感覚だ。

「あ、雨宮」
「なんだ?」
「そ、その……こ、怖い」
「ん?」
「明かり、点けてくれ」

 草壁が怯えたような声で頼んだ。驚いて雨宮が明かりを点ける。
 それに草壁がほっと息を吐く。

「一緒に、眠ってやろうか?」

 雨宮は、冗談でそう言った。だが、それが草壁には救いに思えて、思わずはにかむような笑みを浮かべた。その表情に、雨宮は虚を突かれる。

「うん。雨宮が一緒なら、怖くない」
「……そ、そうか」
「早くっ」

 子どもに返ったような草壁を見ながら、雨宮は嘆息してからベッドに上がる。
 そして腕を伸ばした。

「眠るといい」

 腕枕を素直にされた草壁が、にこにこ笑ってから、瞼を伏せる。するとすぐに、すやすやと寝息が聞こえてきた。

 子どもの体温とは無性に優しいもので、雨宮もつい、うとうとしてしまった。