【001】探し人
十一月の上旬も終わろうとしている。
ここ最近、色々な騒動があった。記憶に新しいのは【通称・はぴはろマンホール】の一件だろうか。と、草壁広親は考える。
公安を離職してから、もう早いもので四年になる。
今年で三十二歳。
少し痩せた。
鏡を見ながらヒゲを剃り、くたびれた黒い背広の上にくすんだ緑色の外套を羽織る。長身の草壁は、切れ長の目をした端整な顔立ちをしているが、その瞳は虚ろだ。厭世観が滲んだ黒い瞳の下には、赤いクマが薄らと出来ている。昨夜も、眠れなかった。
それもこれも、自分にはやるべき事があるというのに、嘗ての後輩である雨宮颯人がなにかと接触してくるせいだ。ギュッと双眸を伏せた草壁は、暗い瞼の裏側の闇に浸る。自分には、やるべき事がある。それを成さないのに、他の何かをするべきではない。
その時、インターフォンが鳴った。
離職後一人で暮らしているマンションのエントランスの方へと、目を開けた草壁は視線を向ける。寝不足――睡眠障害により気怠く重い体を引きずってモニターを確認すると、そこには先ほど思い浮かべていた雨宮の姿があった。
映る雨宮は、氷のような冷たい印象を与えるかんばせをしている。
草壁と同じくらい、いいや、草壁より少し高い長身で、黒いコートを羽織っている。
「また何か面倒ごとを持ってきたのか……?」
呟いてから、モニター越しに返事をする。
「なんの用だ?」
『ちょっとした人捜しをしているんだ。開けてくれ』
その言葉に、やはり厄介な用件だろうと判断しつつも、草壁は玄関のドアのロックを解除した。そして向かった先でドアを開けると、黒い手袋をしている雨宮が、右手を持ち上げた。――違和感を抱く。一拍の間考えて、雨宮は左利きであるから、差し出された手の向きを不思議に思ったのだと気がついた。
「草壁さん」
「誰を探してるんだ?」
「――入れて頂いてもいいか?」
雨宮が、にっこりと笑った。思わず草壁は眉間に皺を寄せる。いよいよおかしい。雨宮は、いつも仏頂面で、草壁を睨むようにしているし、基本的には不機嫌だ。だというのに、今日の雨宮のこの笑顔はなんだ?
「……誰もいないぞ?」
「念のため確認させてくれ」
別段入れて困るわけではないので、素直に草壁はドアを大きく開いて、視線では射るようにと促す。床を見て靴がないのを確認した様子の雨宮が、その後中へと入ってきた。そしてリビングを見渡すと、腕を組んだ。
「ここにも来ていないか」
「誰が?」
「ん? ああ」
今度はニヤリと雨宮が笑った。実に楽しげで、愉悦たっぷりに見えるが、その笑みはどこか歪だった。
「『雨宮颯人』だ」
「? 何を言っているんだ。それはお前自身だろう?」
草壁の言葉に、ふっと笑ってから、雨宮は踵を返した。
「追いかけなければ」
「?」
いよいよ訳が分からないと思っているうちに、雨宮は出て行った。その時、いつも右手に嵌めている時計が、何故なのか左側にあることに気がついた。首を捻りつつも、怪訝に思った草壁は、テーブルの上のスマホを見る。
「……」
不可思議すぎた。一体どういった趣旨の訪問だったのか、改めて問おうと雨宮の連絡先を呼び出す。そしてメッセージを送った。
《今は結局なんの用で来たんだ?》
するとすぐに既読がついた。
《なんの話ですか?》
《今人を探してるって言って俺の家に来ただろ》
そのメッセージを送ると、既読がついて少しして、通話がかかってきた。
『草壁さん』
「雨宮? おい、一体――」
『何もされなかったか?』
「は?」
『それは……俺じゃないんだ。チッ、やっぱり幻覚なんかじゃなかったか』
雨宮はそう言うと、語り出した。