【002】朝と鏡






 ――遡ること数時間。午前五時のことだった。
 早くから捜査があるからとアラームで目を覚ました雨宮は、ビシリとした黒いスーツに着替え、同色のネクタイを締めた。

 考えるのは、草壁のことだ。
 ふとした時にも思い出す。

 ある事件のあと、責任を取るとして、草壁は公安を、警察官を辞めた。
 それが雨宮には納得できない。納得できないことなどいくらでもある職場だが、詳細を何も知らせずに去った草壁に、F機関から接触があって以後、定期的に雨宮は会いに行っている。それは――『戻れ』と告げるためだ。公安は秘密裏の部分が多い組織なので、辞めたところで本当の“一般人”になどなれない。寧ろ復職する方が易い。

「……」

 それに草壁の暗い瞳を見ていると、一人にしてはいけないような心地になる。なにか、胸騒ぎのようなものがするのだ。

『そんなに大切なら、好きだと言えばいい』

 不意に、そんな声が響いた。驚いて顔を上げ、鏡を見ると、そこに映る自分の顔が、笑っていた。唇の両端を持ち上げている。今、己は笑っていないというのに。

「な」
『俺が代わりに言ってやろうか?』
「……お前、は」
『【鏡のドッペル】』

 そう言うと、映っている“自分”が、右手――自分から見ると左側の手を持ち上げた。それが――鏡の表面の触れたところから、にゅっと出てくる。指先が、手首が。時計部分までが出てきた時、自分とは逆の手だと気がついた。鏡に映っていたからだろうか。

 その時スマホが鳴り、着信を告げた。現場からのもので、大至急着て欲しいという部下からの懇願に、腕まで出てきた【鏡のドッペル】を見つつ、電話を切って雨宮は呟く。

「今は不可思議な現象に関わっている場合じゃないんだ」

 既に数件の不可思議な現象に、多くの場合草壁と巻きこまれている雨宮だが、今回は草壁は関係ない。つまり、草壁に危険は無いだろう。そう判断して、【鏡のドッペル】を無視し、雨宮は家を出た。


 ――そうして、現時刻。午前九時三十五分。
 現場が落ち着きを見せ、本部に帰ろうとしたところで、草壁からメッセージが届いた。
 ハッとした。

「【鏡のドッペル】が、俺の姿をして草壁さんの家に行ったということか……?」

 焦燥感を覚えながら、草壁への通話ボタンを押す。
 そして、短くやりとりをした。