【003】鏡のドッペル
「――つまり、お前のドッペルゲンガーのようなものが、俺の家に来たということか?」
『おそらくはそうだ』
「お前を探しているようだったぞ」
『とにかく今から草壁さんの家に行く』
雨宮はそう言うと通話を切った。スマホの画面を見つつ、草壁は困惑する。
ただ、確かに雨宮が自分に笑いかける姿というのは想像があまりできないので、【鏡のドッペル】という名には信憑性があると思った。
インターフォンの音がしたのは、十時頃のことだった。
随分早かったなと思いながら玄関へと向かうと、そこには雨宮――……とは逆の手に腕時計をした存在が立っていた。表情も、柔和な微笑だ。
「……なんの用だ?」
「やはりここにいれば見つかるかもしれないと思ってな。入れてくれ」
雨宮だって【鏡のドッペル】を探しているのだから、捕獲しておくほうがいいだろうと、素直に草壁は雨宮の姿をした【鏡のドッペル】を家にあげた。
リビングの横長の白いソファに草壁が座ると、そのすぐ隣に【鏡のドッペル】もまた座った。距離が随分と近い。そう考えていたら、不意に肩を抱かれ、草壁は目を見開いた。
「俺は、草壁さんに優しくしたいんだ」
「……へぇ。雨宮の偽物は、性格がいいんだな」
「キスしてもいいか?」
「本物からは絶対に出てこないセリフだな」
「そうか。それで? 草壁さんは、嫌か?」
「当然だろ。お前の顔は雨宮だ。雨宮とキスをするなんて……――その」
草壁は口ごもる。
過去に、キスをした時のことを思い出してしまった。あの時のキスは、一体どういう意味合いを含んでいたのだろうかと、今でもたまに考える。
「草壁さん」
偽物の雨宮が、草壁の頬に触れた。本物とそっくりの体温な気がした。
至近距離で覗き込まれた草壁は、瞠目しながら仰け反る。
どんどん【鏡のドッペル】の顔が近づいてくる。
――インターフォンの音が再び響いたのはその時のことだった。ハッとして草壁は【鏡のドッペル】を押しのけて、玄関へと向かう。そしてドアを開けると、険しい表情の雨宮の姿があった。ちらりと床の靴を確認したのが分かる。そこには雨宮のものと同じ靴がある。
「来てるぞ」
「そのようだな」
不機嫌そうな平坦な声で、雨宮が答えた。その直後、草壁は後ろから抱きすくめられた。ビクリとすると、後ろから肩に【鏡のドッペル】の顎が乗った。
「草壁さん。キスはどうする?」
耳元で囁くように言われた草壁が焦ると、聞こえていた雨宮が舌打ちした。
「草壁さんから離れろ」
「嫌だ」
「【鏡のドッペル】、お前はさっさと鏡に戻れ」
「それは、元々出てきた鏡に俺を触れさせなければ不可能だ。できるのか?」
「なんだと? とにかく、離れろ」
雨宮が草壁の手を取り、ぐいと引き寄せた。そして片腕で抱く。今度はその行為に、草壁は狼狽えた。
「雨宮……俺は大丈夫だ。お前と同じ姿のモノを一人撃退するくらいどうということはない。離せ」
「では嫌でなかったから、そこの【鏡のドッペル】を撃退しなかったということか?」
「……そ、そういうことではなく」
「何故こんな不審者を家にあげるんだ?」
「お前が探していると思って俺は――」
「言い訳はいい」
とりつくしまもない雨宮に、草壁はわずかに苛立ったが、ため息を押し殺す。
その姿を、雨宮ならば浮かべないようなニヤニヤした笑みで、【鏡のドッペル】が見ている。
「草壁さん。こんな不審者がいるところには置いておけない。行くぞ」
「行くって何処に?」
「とりあえず、鏡もあることだし、俺の家に行く」
そう言うと草壁の手首をきつく握り、雨宮が歩き出した。財布とスマホと鍵は外套のポケットに入っているので、仕方なく草壁は従う。すると当然のように【鏡のドッペル】がついてきた。だが、駐車場に停めてある車の助手席に草壁が乗りこむと、雨宮は【鏡のドッペル】が乗る前に車を発進させた。
「お前の家に連れていかなくていいのか?」
「それはそうだ。が、今は非常に気分が悪くてな」
「どうして?」
「さぁな」
雨宮が無意識に嫉妬していたということに、草壁は気付かない。
「だったらファストフードにでも寄ってくれ。腹が減った」
「相変わらず不健康そうな食生活だな、草壁さんは」
雨宮はそう言ったが、近くのファストフードに寄ってくれた。チーズバーガーとポテト、烏龍茶を頼むかと考えながら、草壁がレジに向かう。
残った雨宮が席に座っていた、その時。
「俺も食べたいな」
雨宮の真正面の席に、【鏡のドッペル】が座った。人のついてこられる速度ではない。息を呑んだ雨宮のところに、草壁がトレーを持って戻ってきた。
「草壁さん、俺にも一口」
「は? ついてきたのか、早いな」
「ポテト、食べさせてくれ」
「断る。自分でつまむ分にはわけてやる」
「お願いだ」
「雨宮の顔で甘えるな……」
辟易した声を草壁が出すと、本物の雨宮が咳払いをした。
「その通りだ。俺の顔でいちゃつくのは止めてくれ」
「本当はそうしたいくせに」
「そんなはずがないだろう!」
図星を指されたからだったが、反射的に雨宮が声を荒げた。本人は無意識に草壁を気にしているだけなので、図星だという自覚は無いのだが。
それを後目に、パクパクと草壁はチーズバーガーを食べていく。
草壁がポテトを食べている間中、普段は冷静沈着な雨宮が、【鏡のドッペル】に対して激昂していた。【鏡のドッペル】はといえば、楽しそうににやつきながら、それを楽しんでいた。
「食べ終わったようだな」
「ああ。行くか」
雨宮と草壁がそうやりとりをすると、【鏡のドッペル】が真っ先に立ち上がった。
「今度は助手席に乗りたいものだな」
明るい声音も雨宮そっくりなのに、違和感が拭えなかった。