裏庭の記憶から
これは懐かしい記憶だ。
中高一貫教育の香篤(こうとく)学園の入学式から、一ヶ月が経過した。昨年の今頃は、俺も新入生に混じって、入学式を終えて寮に向かった事を思い出す。中等部二年の今年は、昨年に比べたらずっと気が楽だったが、生徒会補佐に任命されたおかげで必ずしも多忙で無かったとは言い難い。
それでも一段落した五月の放課後、俺は校舎裏にいた。
中等部の生徒会室と風紀委員会室しか存在しない特別棟の裏庭だ。滅多にひと気が無い上、誰も来ない。ここは俺のテリトリーだと言える。
「ニャア」
「ん?」
しかしこの日、そこには部外者がいた。視線を向ければ、真っ白いフワフワの毛をした仔猫の姿があった。このセキュリティの厳しい香篤の敷地に、猫? 一体どうやって入り込んだのだろうかと、最初は驚いて目を丸くした。
「ニャア、ニャ!」
「お、おい……」
猫は実に人懐っこくて、俺の足にまとわりついてきた。右足に絡みついた猫を見下ろしてから、俺はしゃがむ。そしてそっと手を差し伸べてみた。思ったよりも固かった。猫を至近距離でまじまじと見た事自体が初めてで、正直物珍しく思う。
猫は続いて、俺が足元に置いていた鞄を、熱心に前足で弄り始めた。なんだろうかと見ながら、何気なくジッパーを開けた俺は、猫がおにぎりの包装に噛み付いたのを見た。
「お前、お腹が空いてるのか?」
「ニャア」
「……チッ」
俺は思わず舌打ちしてから、多忙で昼食時に口に入れるのを忘れたおにぎりの包装を取り去った。水は近くに側溝があるからどうにかなるかもしれないが、確かに食べ物は無さそうだ。深く考えずそう判断し、俺はこの日、おにぎりを猫に食べさせた。
これが俺とその猫――霙(ミゾレ)との出会いだ。
以降、俺は放課後の空き時間に、今まで通りに裏庭に出向きつつ、霙に餌をあげるようになった。俺が顔を出すと、待ち構えていたように愛らしい猫が顔を出すようになった。
……全寮制のこの香篤において、ペットの飼育は禁止だ。
だから連れ帰る事は出来ないのだが、つい足を運んでしまう。俺の実家は旧財閥系の宇隆(うりゅう)家というのだが、内密に実家に連絡を取り、俺はキャットフードを家令に手配してもらった。家令の萩(はぎ)は、口が堅い。
家の仕事の関連だという体裁を整えれば、中身を隠してのキャットフードの入手はそこまで困難では無かった。この日も俺は、屈んで手を伸ばし、霙の白い毛並みを撫でていた。
「何をしている?」
「!」
その時声がかかり、俺は硬直した。今まで、ここには誰も来なかった。だから誰かに露見する心配もほとんどした事は無かったというのが正直なところだ。咄嗟に体勢を正して顔を向ければ、そこには風紀委員の腕章をした同級生が立っていた。成瀬籘真(なるせとうま)だ。同じクラスでもあるし、敵対関係にある風紀の中で同学年の人間という事もあって、俺はその顔を知っていた。
「宇隆、その猫は?」
「……さぁ? ここにいた」
「手に持っているのは、キャットフードだろう?」
「それが?」
俺は知らんぷりを決め込もうとした。だがその間も、霙は俺の足に絡みついていた。
「教職員寮を除き、学内でのペットの飼育は禁止だ」
「別に飼ってるわけじゃねぇよ」
「その猫缶の言い訳は?」
「……」
厳しい立場に立たされてたのは、紛れもない。俺は言葉を探しつつ、じっと成瀬を見た。成瀬は呆れたように俺を見ている。俺の頭に、保健所という存在が過ぎった。なんとか家に連絡をして里親を探すまで待ってもらえないかと、交渉する余地はあるのだろうか。
「ニャア」
「おいで」
その時、成瀬がしゃがんで手を伸ばした。俺は目を見開く。霙はテトテトと成瀬に歩み寄る。すると成瀬の変化に乏しい表情に、不意に笑顔が浮かんだ。霙を抱き上げた成瀬は、慣れた手つきで、猫の頭を撫でている。
「宇隆、名前はなんて言うんだ?」
「知るか」
「ここまできて言い逃れは厳しいと分からないのか?」
「……霙と呼んでる」
「ミーちゃんか」
「霙だって言ってるだろうが」
俺が半眼になると、成瀬が短く吹き出した。その柔和な表情を見て、成瀬にもこんなに優しい顔が出来るのかと、正直俺は驚いた。考えてみると、話をしたのも初めてだ。
「成瀬」
「ん?」
「お前、猫が好きなのか?」
「ああ。実家で飼っていてな。猫がいない生活が、学園生活で一番の苦痛だよ」
微苦笑した成瀬を見て、俺は虚を突かれた。てっきり糾弾され、霙を保健所送りにされるとばかり思っていたから、一気に気が抜けた。
「見回りから戻ってきたら、宇隆がこちらに歩いていくのが見えたから、気になって来てみたら、まさか猫がいるとはな」
俺はこの時、笑ってみせたのだったと思う。ニヤリと口角を持ち上げてから、成瀬の横にしゃがんで、猫缶の蓋を開けたはずだ。成瀬はずっと手を伸ばしていた。
「ミーちゃんは、オスだな」
「へぇ」
「宇隆はいつから飼ってるんだ?」
「だから飼ってるわけじゃ……ちょっとな。ひと月前くらいから、俺がいると顔を出すようになったんだよ、コイツは」
そんな雑談をしながら、俺達は霙を見ていた。餌を食べ終えたのを確認し、俺は缶を回収する。
「おい、成瀬」
「なんだ?」
「その……黙っとけよ」
念のため口止めした俺を見ると、成瀬は少しだけ迷うように瞳を揺らしてから、吹き出して顔を背けた。そして立ち上がると、空を見上げた。よく晴れた日だった事を覚えている。
「見回りの報告に戻る。俺は、真面目な風紀委員だからな。見回りの帰りに、裏庭に寄り道なんてしなかった」
そう言って成瀬は踵を返した。霙と共に残された俺は、暫くの間その背中を見送っていた。思っていたよりも、悪い奴では無さそうだ。
さて、翌日。裏庭という俺のテリトリーに、俺は餌を持って向かった。すると先客がいた。
「成瀬、お前……」
「今日は見回り当番じゃないんだ」
「……」
この日から、俺の聖域には、霙の他に成瀬も加わる事が増えていった。授業免除があるから教室ではほとんど顔を合わせないし、生徒会と風紀であるから、それ以外の時間に言葉を交わす事もほとんどない。
成瀬は思いのほか、面白い奴だった。腕は強いが基本的に真面目な優等生が多い風紀にも、こういう機微に飛んだ人間がいるのかと驚いた。並んで霙を愛でる度に、俺は様々な成瀬の表情を知っていく。遠くから見ている時とは、全然違う。素顔の成瀬に触れる度に、俺は自分だけが知っているようで嬉しくなった。
その内に、夏休みが近づいてきた。
全寮制のこの香篤において、帰省出来る数少ない機会だ。俺は迷っていた。本当はずっと、裏庭で霙と成瀬と共に過ごしたい。けれど、例えば病気や怪我をした時、学園内に獣医はいない。餌だって水だってトイレだって、きちんとしたものがあった方が良いはずだ。
「――って事で、俺は連れ帰ろうかと思ってるんだ」
素直に俺は、成瀬に自分の考えを告げた。すると成瀬は霙を抱きしめ、その頭に顎をのせると目を伏せた。端正な切れ長の瞳をしていると思う。この頃になると、俺は成瀬の顔を見ているだけで、そばにいるだけで、胸が高鳴るようになっていた。
「そうか。俺も、宇隆の考えには賛成だ。逆に、俺も家に連れ帰ると言おうかと思っていたんだよ」
「成瀬も?」
「ああ。俺の家なら、猫に慣れているしな。ただ宇隆が決めたんなら、宇隆が連れ帰るのでも良いと思ってる。ただ一つ、頼みがある。たまに、夏休みや冬休み、ミーちゃんに会いに行っても良いか?」
「勿論だ。いつでも来てくれ。あ、そうだ連絡先――」
「そういえば交換していなかったな」
俺達はその場でトークアプリの連絡先を交換した。
こうして夏休みを迎えた。
「おかえりなさいませ、雪斗(ゆきと)様」
家令の萩をはじめとした使用人達に出迎えられて、俺は車から降りた。手には、猫のケージを持っている。結局家族任せにしてしまうのだから、俺は無責任なのかもしれない。だが、霙の最善を願った結果だ。家族達も、霙の事を温かく迎えてくれた事に安堵した。
そのようにして帰省後、俺は携帯端末で終始成瀬とやりとりをしていた。もう明確に、俺は成瀬の事が好きだった。友情を超えていた。あちらは俺を友達だと考えているのだろう事は理解しているが、思春期でもあり恋の嵐が吹き荒れている香篤学園にあって、俺は初恋をしたのだ。男子ばかりの学舎にあって、恋愛対象は同性の生徒が大半を占めている。
「成瀬の奴、本当に見に来るんだろうなぁ?」
久方ぶりに入った自室で、寝台に寝転がりながら、俺は携帯端末を見ていた。既読がつかない画面を見ていた。まだ慣れない様子で、霙はベッドの下に隠れている。
友達には、なれたと思っていた。それもかなり親しくなれたと思っていた。
本当は、その先に行きたい。けれど今は、二人でいられるだけでも良い。
『来週行きたい。空いている日はあるか?』
成瀬から返ってきたメッセージを見て、俺は両頬を持ち上げた。
これが中等部の二年生の時の記憶だ。
夏休みが終わってからは、学園祭の準備で多忙になり、裏庭にも中々行けなくなった。それでも成瀬とメッセージのやりとりは続けていたし、俺は相変わらず成瀬が好きだった。いいや、どんどん好きになっていった。校内で時折成瀬を見かける時、凛としたその表情を見る時、目を惹きつけられてばかりだった。
だが気持ちとは裏腹に、成瀬との距離はその後も開いていった。俺が中等部の生徒会長、あちらが風紀委員長になる頃には、裏庭に行く余裕もなくなり、顔を合わせるのは、連絡会議ばかりとなった。メッセージをやりとりする量も減っていく。それでも最初は、長期休暇になれば、また成瀬が来てくれると考えていた。しかし中等部三年の年の夏休みと冬休みは、内部進学ではあるが受験勉強とお互いの多忙が理由で、顔を合わせる事は叶わなかった。
そんな俺達の間に、決定的に溝が出来たのは、高等部一年の時だった。この学園には、親衛隊制度なるものが存在する。所謂ファンクラブのような存在だが、部活動や委員会活動同様に、香篤学園では公的に活動を認められている。俺にも親衛隊がいるのだが、外部入学で規則を知らなかった生徒に、俺の親衛隊のメンバーが大規模な制裁を加えた事件があった。親衛隊は崇拝対象には抜けがけ禁止というルールを掲げている。
「自分の親衛隊の管理くらいきちんとしろ」
これが、成瀬と交わした最後の言葉だ。
このようにして出会って三年が経過し、高等部二年となった今年、俺は生徒会長になった。成瀬は二年ながらに、風紀委員長だ。全校中が、俺達の仲は険悪だと噂している。俺の気持ちは何ら変わっていないが、メッセージのやりとりも既に無い。
確かに友達になった過去もあったはずなのだが、現在の俺達は、その関係から退化している。二次性徴を終えた頃には、学力や運動能力の他、身長さえも競い合うような立ち位置に落ち着いてしまっていた。
もう成瀬が俺を見て笑う事は無い。
尤もそれは俺も同様で、成瀬に対しては険しい顔ばかりしている自信がある。学園行事の度に激論を交わす事が多いせいだ。せめて、友達に戻れたならばと思うのに、距離は今でも開き続けている。
「とにかく、新入生歓迎会の企画はこれで決まりだ」
会議の場で俺が断言すると、両手を組んでいた成瀬が、眉を顰めた。
「旧校舎まで範囲に含めての鬼ごっこというのは、見回りの人員的に風紀としては推奨し難い」
「見回りすら出来ない無能だというアピールは、それで終わりか?」
俺が意地悪く笑って述べれば、成瀬の顔はますます険しくなった。現在、四月の終わりだ。新入生歓迎会は、五月の半ばに行われる。中等部の頃よりも、香篤学園では、高等部の方が更に生徒の采配による行事が多くなっている。圧倒的な権力を持つ生徒会の長である俺と、風紀委員長の成瀬は、互いに互を牽制しあう仲でもある。
「生徒会が、俺が、やれと言ったら、お前らは従えば良いんだ」
「……」
成瀬の顔が極限まで不機嫌そうに変わった。だが、今更俺は、俺を変えられない。現在は、これが俺だ。生徒会長として、ある種の敵である風紀委員長に隙を見せるべきでもない。俺自身の態度がこういうものである事も、尚更距離を開ける結果に繋がっているのかもしれない。
初恋は実らないと聞いた事があるから、仕方がないのだろうと、俺は内心をいつも落ち着けている。
こうして本日の会議も終了した。
生徒会のメンバーと共に、俺は会議室を出て、生徒会室へと戻る。
「さすがですね、あの成瀬委員長を押し切るなんて」
扉を閉めた直後、薄らと笑って副会長の鷹凪(たかなぎ)が言った。若干腹黒い所のある副会長だが、実力は信頼できる。真っ直ぐに給湯室の方へとそのまま進んでいく鷹凪の趣味は、紅茶を淹れる事だ。双子の庶務はソファに並んで腰を下ろしている。書記の朝岡(あさおか)は席に着き、黙々と議事録の整理を始めた。それを見ていると、ポンと肩を叩かれた。
「本当、さすがぁ」
振り返れば、最後に入ってきた会計の志野(しの)が、へらりと笑っていた。
「俺なんて成瀬委員長が怖くて震えてたもん」
冗談めかした志野の言葉に、高津(たかつ)兄弟が揃って吹き出した。双子の兄が黒(こく)、弟が白(はく)だ。そこへ人数分の紅茶を用意して、副会長が戻ってきた。
「日数も残り少ないですしね。頑張りましょうね」
カップを俺達一人一人の前に置きながら、副会長が微笑する。そうしてから、思い出したように俺を見た。
「そういえば、明日、編入生が来るそうですよ」
「編入生? まだ入学式から一ヶ月も経ってないぞ?」
俺が首を傾げると、鷹凪が小さく頷いた。
「会議の直前に、理事長から電話があったんです。会長がここを出てから。特例みたいですね。生徒会からも迎えに出て欲しいと言われていて」
「急だな。誰が行く?」
「僕が行きますよ」
率先して動いてくれるのも、鷹凪の長所だと俺は思う。その後は、皆でお茶を飲みながら、雑談交じりに打ち合わせをした。俺はいつまでもこの空間が続くと疑っていなかった。
――しかし平穏な日々は、いつだって脆く崩れるものなのかもしれない。
俺と成瀬の時間だって、呆気なく消失したのだから、俺は学んでおくべきだった。
季節はずれの編入生である御倉祭理(みくらまつり)は、初日から香篤学園高等部に大混乱をもたらしたのである。理事長の甥であるそうで、個性的な髪型をしている一年生は、何故なのか非常にモテた。同じクラスの親衛隊持ち連中を陥落させた事を契機に、多くの人気者の心を開いていく。
まず阿鼻叫喚したのは、親衛隊だった。当然制裁も行われたようだったが、それを御倉は華麗に躱した。腕力で。やられたらやり返す精神なのか、校内における器物損壊の被害も大変な事になり、風紀委員会も多忙を極めているらしい。
俺には御倉のマリモみたいな髪型や性格の良さは分からない。だが生徒会役員も、なんと迎えに出たその日に一目惚れして副会長はキスしたらしく、その話に興味を持って見に行った双子は自分達の個性を理解してくれたとして御倉にベタ惚れ、寡黙だった書記はそのままで良いと肯定された事をきっかけに胸を打たれたらしく常に御倉に寄り添うようになった。結果、生徒会役員で仕事をしているのは、俺と会計の志野だけになった。
正直俺は、志野をただのチャラ男だと思っていた。しかし栄養ドリンクを片手に、二人で生徒会を回している現在、志野は紛れもない盟友である。
「いよいよ明日は、新入生歓迎会……前日までみんな帰ってこないとか……泣けるよね」
「言うな、志野。初めからいなかったと思う事にしておけ」
タブレットに学園の地図を表示させて、俺は風紀委員会から送られてきた警備案の最終確認をしている。並行して、起動中のパソコンには、進行スケジュールを表示し、時折明日の流れを確認している。俺は現在、自分の仕事の他に、副会長と庶務二名の分の仕事も行っている。なお志野は会計の仕事の他に、書記の仕事もしている。もう午後の七時だ。とっくに下校時間なんて過ぎている。
結局その後、八時過ぎまで志野と仕事をしてから、俺達は寮へと戻った。
中等部と高等部の、生徒会役員及び風紀委員は、特別階に入寮する事が決まっている。エレベーターを降りてすぐ、俺は志野とわかれて、自分の部屋へと戻った。カードキーを用いて暗い部屋の扉を開け、灯りをつける。
制服を脱いで、浴室へと向かった。そして頭からシャワーの温水をかぶりつつ、俺は俯いた。俺の黒い髪が、肌に張り付いていく。くもっていく鏡には、長身の俺の姿が映っている。我ながらガタイが良い方だという自覚がある。
この学園には、俗にチワワと呼ばれるような可愛い系の男子や、美人と表するしかないような綺麗な男子も多い。俺の親衛隊のメンバーも八割は、そういうタイプだ。皆、俺に抱かれたがる。だが成瀬一筋の俺は、俺と同等の体格をしている奴に――多分だが、抱かれたいと思っているように思う。
猫を優しく撫でていた成瀬の長い指を思い出す時、俺も優しくされたいと感じてしまう。尤も、そんな日は来ないので、悲しい妄想であるが。成瀬に恋人がいるという話は聞かないが、成瀬だって俺のように男らしすぎる男は好みではないのではないかと思う。
なお今回の御倉の件に関しては、俺は事前にきちんと、自分の親衛隊の現隊長に釘を刺した。昨年は既に卒業した上級生が親衛隊長で俺も強く出られない所もあったのだが、今年は同級生というのもあり――というより、もうそのような学年的な配慮などしている場合ではないと判断して、厳命した。
ひとえに、これ以上学園に混乱を招きたくなかったからであり、別段成瀬に今より嫌われたくないからではない。そのため、生徒会役員の各親衛隊の中で、俺の所と、あとは親衛隊とうまく付き合っている志野の所は、制裁などを行っていないと聞いている。
明日の見回りも、特に制裁などを警戒して、御倉を中心に風紀は行動するらしい。たったの二週間で学園の秩序を壊しかけている御倉には慄きそうになるが、俺には俺の仕事があるのだから、会長として責任を果たすのが俺のなすべき事だろう。
入浴を終えた俺は、冷凍庫から冷凍食品のボロネーゼを取り出して、レンジで温めてから食べて寝た。
こうして訪れた新入生歓迎会当日。
中高合同の行事となるため、俺はあくびを噛み殺してから、顔を洗い、気合いを入れた。司会進行は、普段であれば副会長の仕事であるが、今回は志野が行う。俺の担当は、生徒会代表として歓迎の言葉を述べた後、生徒達を鼓舞する事だ。
新入生と外部入学生、及び今回は編入生の御倉が鬼役で、在校生が逃げる。在校生は、捕まった場合、所持している名札を鬼に渡す。一番沢山捕まえた生徒には、景品が出る。親睦を深める事を目的とした行事だ。
「全員、楽しめ!」
時間通りに壇上に向かい、俺は中等部と高等部の生徒の前でそう宣言した。それからすぐに在校生は逃げ始めた。新入生達は五分が経過したら追いかけ始める事になっている。俺と志野は進行役なので、加わらない。表面上は、加わっているフリをするが、それは中等部の生徒会役員には楽しんでほしいので、参加を促した時、気を遣わせないようにという配慮で素振りだけすると決めた結果だ。だから最初から名札はもう取られてしまったのだという形で行動すると事前に打ち合わせをしてあった。
開会式は、例年通り中等部の校庭で行った。それから俺は、さも逃げているという顔で――懐かしい場所へと向かって歩く事に決めた。中等部の特別棟の裏庭だ。成瀬と過ごした場所だ。そもそも生徒会役員と風紀委員しか立ち入り出来ないため、誰も来ない事は分かりきっている。ここで三十分ほど過ごしたら、本部に戻る予定でいた。
裏庭の風景は、何一つ変わっていなかった。太い幹の木々も、草花も。いないのは霙と成瀬だけで、まるで時が止まっていたような錯覚に陥る。実家からは定期的に、霙の画像を送ってもらっている。沢山食べ、沢山遊ぶらしい。
「何をしている?」
声がかかったのは、その時の事だった。いつか、全く同じ台詞を聞いた覚えがある。ただ当時よりも変声期が終わっているため低い声音だった。会議で頻繁に耳にしている事もあり、俺にはすぐにそれが成瀬の声だと分かったし、強い既視感もあったから、思わず動きを止めた。ゆっくりと瞬きをする事に決める。
「お前こそ。風紀は今日が一番忙しいんじゃねぇのか?」
「まぁな。だから安心して連絡作業に徹底できるひと気の無い場所を考えて、俺はここに来たんだ」
冷静な声を聴いていたら、振り返る勇気が出たので、俺は成瀬に顔を向けた。成瀬は風紀委員に支給されている携帯端末を片手に、俺を見ていた。もう一方の手には鞄を持っている。俺の隣まで歩み寄った成瀬は、地面にブルーシートを広げると、その上にタブレットやパソコンなどを設置した。モニターには、各地の監視カメラの映像が映っている。タブレットには、定期連絡らしいメッセージや取り押さえた報告などが次々と流れていく。
忙しそうだ。
だが、偶発的にとはいえ、久方ぶりに二人きりになってしまった。その事実に、俺は気づけば、がらでもなく緊張していた。
「生徒会は、最近はどうなんだ?」
「なんだ、急に」
しかも話しかけられた。動揺している事を悟られたくなくて、俺は必死に平静を装う。
「副会長親衛隊、書記親衛隊、庶務親衛隊、それぞれの制裁行為が目に余る。御倉にも問題があるとは言え」
「取り締まるのは、お前の仕事だろうが」
「それはそうだ、が……別の噂も気にかかるものがある」
「別の噂?」
「どこかの会長と会計は、二人で生徒会室にて不純交遊三昧のため、ほかの役員が入れない。よって、生徒会室から追い出されている形なので、仕事が出来ない。どこかの副会長の主張らしいな」
「な」
それを聞いて俺は目を見開いた。嫌な汗が浮かんでくる。二つの意味からだった。
一つは、あれほど一緒に活動してきた副会長に、そんな嘘偽りの噂を広げられるような、言い訳に使われるような、利用されるような、ある種の裏切りを受けたという事実への衝撃という意味だ。
もう一つは、万が一それが事実だと、よりにもよって成瀬に誤解されたらという恐怖。
「確かに会計は、元々がチャラかった。しかし、ここの所、その奔放さも無くなっているようだな」
「それは単純に仕事が忙しいからであって――確かに、志野はチャラかった。でもな、あいつは真面目に仕事をしてる。それだけだ」
「庇ってるわけじゃないんだろうな?」
「嘘なんかつかねぇよ。俺と志野がそもそも生徒会室でヤってるなんてありえねぇだろ」
モニターを見たままで、成瀬が小さく二度頷いた。成瀬の側からすれば、ただの世間話というような形に見える。酷い焦燥感に襲われているのは、俺ばかりらしい。
「宇隆――ありえないって、どうして?」
「ど、どうして? どうしてって……」
「男同士が普通のこの学園では、同性であっても親しい二人が長時間密室にいて、何も起きないという保証はないと俺は思ってる」
「とにかく無ぇよ! 志野は良い奴だ。でも俺にとって、そういう対象じゃねぇ」
「仮に宇隆にその気が無いのだとしても、志野は分からないだろう?」
「あいつの好みは、俺とは対角に位置する可憐なチワワだ」
「ほう」
俺の言葉に、成瀬が顔を上げた。それからじっと俺を見た。不意に目が合ったものだから、ドキリとしてしまう。
「もし自分の外見が違っていたら、志野に抱かれたという意味か?」
「なんでそうなる?」
「俺は今のままの宇隆も綺麗だと思うから不思議でな」
「っ」
「とにかく問題は起こすなよ。何も無いようで何よりだけどな」
そう言うと笑うでもなく、成瀬がモニターに視線を戻した。そこへ通知の音が響く。成瀬はトークアプリで通話を始め、音声で指示を出し始めた。暫くそれを見守っていた俺は、綺麗なんて言われたものだから、赤面しそうになっていて、顔を隠すべく必死に俯いていた。男前と言われる事はあっても、綺麗だなんて言われた記憶はない。
そしてなんとか頬の火照りが収まってから、その場を後にした。
この日、優勝したのは、御倉で、景品は学食一ヶ月無料券となった。
次の行事は、体育祭の企画立案だ。並行して、夏休みの林間学校の準備もある。今年は帰省出来るか怪しい。夏休み明けには学園祭だってある。中間テストも近いため、参考書を机に広げつつ、俺はパソコンに向かっていた。傍らでは、志野が疲れた顔でやはりパソコンに向かっている。
「あー、眠っ」
志野がぼやいた。あくびをしているのを見てから、俺はパソコンで時刻を確認した。現在、午後六時である。中間テストが終わるまでは、少しは緩やかに進行可能であると、俺は改めて考えた。
「今日は先に帰っていいぞ」
「本当? 有難う。まだ鬼ごっこの疲労が……眠い。本当眠い」
「おう。あとは俺が片付けておく」
頷いた俺を見ると、志野が笑顔になった。パソコンの電源を落とした志野は、それから鞄を片手に立ち上がった。
「じゃあねぇ、また明日。会長もあんまり遅くまで頑張りすぎないようにねぇ」
「俺を誰だと思ってる」
ひらひらと手を振って、俺は帰っていく志野を見送った。その後俺は、先に片付けられる林間学校の件の方を進めた。ほぼ昨年と同じ内容であるから、細部の企画を考えるだけで良い。集中していたら――気づけば周囲が暗くなっていた。我に返ったのは、ノックの音がした時の事だ。生徒会室は部外者立ち入り禁止なので、オートロックだ。開閉時には外側だけでなく内側からも鍵が必要となる。時計を見れば、既に午後の九時を過ぎていた。
「誰だ?」
『風紀だ』
「成瀬?」
驚いてカードキーを片手に扉を開けると、成瀬が呆れたような顔で立っていた。
「何か急な連絡でもあるのか?」
「見回りの最中に明かりが見えたから、まさかと思って確認に来たんだ」
「……」
「下校時刻はとっくに過ぎているし、テスト前に限っては生徒会と風紀の特権でも、午後八時には帰宅するようにと規定されているだろう」
「お前だって残ってんじゃねぇかよ」
「絶対必須の見回りがある場合は、その限りではないという規定が、風紀には別にある」
「何かあったのか?」
「大規模な制裁があるという情報提供があって、残っていたんだ。既に摘発は終えているから、明日には公になる。俺はその帰りだ。宇隆は?」
後ろめたい所が無いのだと、真っ直ぐに成瀬は主張してくる。俺は頬が引き攣りそうになった。思わず室内に振り返り、パソコンを見る。すると俺の隣をひょいと通り抜けて、そちらを成瀬が見た。
「おい。部外者は立ち入り禁止だ」
「部外者? 校則違反中のバ会長から聴取をする必要が出来てしまった関係者だぞ、俺は」
返す言葉が見つからない。そんな俺達のわきで、扉が閉まり、自動で鍵がかかった。
「働き過ぎもどうかと思うぞ」
「成瀬には言われたくねぇな」
お互いに仕事中毒気味の自信がある。嘆息した俺は、最近では紅茶の香りがしなくなった給湯室側を見た。他にはトイレやシャワー室、仮眠室や資料室に通じる扉がある。
「なにか飲むか?」
「俺様と評判の宇隆にも気遣いが出来るんだな」
「どういう意味だ?」
「ただの冗談だ。お前は、実際には気遣いが上手いと思う」
成瀬の言葉に空笑いをしてから、俺はティサーバーから、プラスティックのカップに珈琲を二つ注いだ。副会長がいなければ、専らインスタントである。俺も志野も、豆から挽いたり、茶葉を蒸らして紅茶を淹れたりはしない。
「ほら」
「頂く、が、当初の趣旨は『早く帰れ』というものだった事を、正確に理解しているのか?」
「ああ。ちょっと集中しすぎていたんだ。すぐに帰る」
「じゃ、飲みながら帰るのを見届けつつ、事情聴取をさせてもらう」
「見逃せよ、ちょっとくらい……」
「規則は規則だ。理由は、集中のしすぎで時間を忘れた、で、良いのか?」
「まぁな」
「何に集中していたんだ?」
「林間学校の栞だ」
「基本的には生徒会役員全員で内容を詰めていく仕事じゃないのか? それをどうして一人で?」
分かっているだろうに、聞かないで欲しい限りだ。御倉の所に、今も志野以外は入り浸りである。
――ブツン、と、音がしたのはそう考えていた瞬間だった。
一気に視界が暗くなり、光源がパソコンのモニターのみになる。俺は慌てて作成中のファイルを保存し、バックアップをとった。
「停電?」
カップを置いた成瀬は、呟くと扉の前に向かった。そして、扉に手で触れ息を呑んだ。
「宇隆。ここの扉は、電気が通っていないと開かないのか?」
「ん? ああ。開かない。セキュリティの関係で、内側からもカードキーをかざして……あ」
そこで俺は気がついた。慌てて俺も扉に歩み寄る。鍵をかざしても反応はなく、ドアノブを押しても扉はびくともしない。
「閉じ込められたな」
成瀬が眉間にシワを刻みながらそう言った。それから携帯端末を取り出した成瀬は、通話を始めた。それを確認しながら、俺は窓の外を見る。遠目に見える学生寮の明かりは点いているから、敷地全域が停電しているわけではなさそうだ。
「何? ブレイカーを破壊した? 御倉が?」
漏れ聴こえてくる声に、俺は視線を戻す。すると呆気にとられた顔をしている成瀬が目に入った。珍しい顔を見てしまった。その後通話を終えた成瀬は、俺の方を向くと溜息をついた。
「制裁騒動で呼び出された御倉が、逃げ込んだ先の送電室でブレイカー等を偶発的に破壊して、この高等部特別棟の電気が一時的に停まっているらしい」
「な」
「修理業者は朝には来るそうだ。風紀委員会室で聴取していた委員や生徒も閉じ込められているらしい。風紀の顧問の話だと、今夜は大人しくここで寝泊まりしているようにとの事だった。水道は無事だし、ひと晩くらいなら、確かに問題はないだろうな」
淡々と冷静な声で成瀬が状況を説明してくれた。
――一晩、二人きり?
その事実に気がつき、俺は思わず息を詰めた。心拍数が上がっていく。
「俺はソファを借りるから、宇隆は仮眠室に行ってくれ」
「ここは俺の、生徒会の部屋だ。命令するな」
「それもそうだな。世話になる」
「この状況で寝てるような気分じゃねぇし、お前こそ仮眠室を使え」
俺は仮眠室の扉へと視線を向けてから、そちらへ向かった。そしてこちらは内鍵しかないので開いている扉を押す。俺の後ろに成瀬が立った。中に先に入った俺は、シーツの状態なども大丈夫である事を見て確認する。その時、ガチャリと音がした。振り返ると、成瀬が内鍵を施錠していた。
「この大きさのベッドなら二人で眠れるな」
「……は?」
「明日だって何があるか分からないんだから、寝ておくべきだ。皺になるし、とりあえずブレザーを脱ぐか」
「え」
「なんだ?」
不思議そうに成瀬が俺を見ている。ここに来て、俺ははっきりと理解した。俺一人だけが、意識している状況なのだと。おかしな言動をしたら、それが露見してしまう。成瀬に俺の気持ちが万が一バレて振られた時の事を考えると、胸が痛すぎる。
「そ、そうだな」
俺は余裕であるフリをして、ブレザーを脱いで、ネクタイを緩めた。傍らの椅子にそれをかける。二脚ある椅子のもう片側に、同じように成瀬がブレザーをかけた。成瀬はネクタイを引き抜いてから、シャツのボタンも緩めている。目の毒だ。俺は顔を背けてベッドに座る。そして壁側に陣取った。するとすぐに、成瀬がベッドに上がってきた。
「なぁ、宇隆」
「なんだ?」
「ミーちゃんは元気か?」
「お前、覚えてたのか」
「記憶力は良い方だぞ? お前が猫画像を送ってこなくなったから、とても寂しかった」
「……そ、そうか。俺は家令と、甥っ子が定期的に画像を送ってくれるから和んでる」
「甥っ子がいるのか?」
「ああ。一番上の兄の子だ。今年で七歳。俺達兄弟は、歳が離れてるんだよ」
「俺様バ会長を和ませる猫と子供のパワーは凄いな」
「その言い方止めろ、アホ風紀」
俺は壁をじっと見たままで、軽口を叩いた。すぐ隣に、成瀬が寝転がっていると思うと、緊張で全身が固くなる。
「!」
背中をツンと指先でつつかれたのは、その時だった。驚愕して、俺は目を丸くし、息を呑む。
「な、な……な、なんだよ?」
「焦りすぎだろ」
顔は見えなかったが、俺はすぐ近くで吹き出す気配を感じた。
「宇隆、俺は前に言ったよな」
「何を?」
「――『男同士が普通のこの学園では、同性であっても親しい二人が長時間密室にいて、何も起きないという保証はないと俺は思ってる』」
確かに、以前にも同じ言葉を聞いた。だが、この状況下で繰り返されると、頬がカッと熱くなってしまう。なにせこの場には、俺と成瀬の二人しかいない。何かが起きるとしたら、それは俺と成瀬という事になるではないか。だが、その部分以上に、舞い上がってしまいそうになった事がある。
親しい、二人。俺達は、親しいのだろうか?
確かに親しい友人だった過去があると、俺は思っている。成瀬もそう感じてくれていたのだろうか。あるいは今も、俺を親しい相手だと考えてくれているのだろうか?
「!」
その時、不意に後ろから首に腕を回された。成瀬が俺を抱きしめている。
「嫌か?」
「風紀委員長自ら、風紀を乱してたら世話ないな」
「答えになってない」
「……」
嫌かどうかなんて、決まっている。嬉しくて心臓が破裂しそうだ。だがそう答えたら、俺の気持ちは完全にバレてしまうだろう。成瀬はこういう事で人をからかう人間には思えないが、質の悪い冗談の可能性だってある。なにを言えば良い? なんて答えるのが正しい? ぐるぐると考えてみるが、全く分からない。
「どうして最近、猫画像を送ってくれないんだ?」
「お前だって特に、俺にメッセージを寄越したりしないだろ」
「猫を引き取ったのは宇隆だろう? 俺の家で引き取っていたら、しっかりと画像を送った自信があるぞ」
「――お前こそ、見に来るとか言って、結局二度しか来なかっただろうが」
「見に行ったら押し倒す自信しか無くなったせいでな」
「は?」
「学外なら、押し倒しても風紀委員はそこにはいない、俺自身しか。お前と二人きりの部屋というのは、理性が持たない。今と同じ状況だ」
実に自然にするりと成瀬がそんな事を言った。最初、俺は何を言われたのか上手く理解できず、何度か瞬きをしながら理解に努めた。
「理性って……成瀬? お前、それは一体どう言う……?」
「宇隆を抱きたい」
「っ、本気か?」
「本気だ。ずっと好きだった。勿論今も好きだ。このままだと言う機会を逃しそうだからはっきり伝えておく」
成瀬の腕に力がこもった。その体温に俺は引き寄せられてしまう。
「いつからだ?」
「裏庭だな。中二。当時は、付き合ってた相手がいたから気付かなかったが、会えなくなるにつれて、お前の事ばっかり気になると気づいて、別れた」
「本当に本気なのか?」
「しつこいな。そして知ってはいたが、やっぱり鈍いな」
苦笑交じりの言葉に驚きつつも、俺は振り返る事が出来ない。それだけ強く抱きしめられているからというのもあるが、なにより顔が真っ赤だから、気づかれたらと思うと恥ずかしい。停電していて暗いから大丈夫だと信じたいが、嬉しくて目が潤みそうになっているから、顔を見られたくない。
「キスしても良いか?」
「ダメだ」
「どうして?」
「まだ言ってねぇだろ、俺は何も。だ、だからその、俺も……」
一生言わないつもりだった。というより、言えないと思っていた。だが、最初で最後のチャンスなのかもしれない。
「……嫌いじゃねぇよ」
俺がそう伝えた瞬間、顎を掴まれ、強引に顔の向きを変えられた。
「んン!」
そのまま唇を唇で塞がれて、反射的に俺は目を閉じる。逆に狼狽えて薄らと開いてしまった口に、成瀬が舌を挿入してきた。舌を絡め取られ、歯列をなぞられる。息が苦しいと思った頃、息継ぎを促すように、キスの角度をかえられた。薄らと目を開けた俺は、真正面にある端正な成瀬の顔を見る。そして再び瞼を伏せて、何度も何度も口づけに浸った。
「っ、は」
唇が離れてから、俺達は視線を合わせた。成瀬は片手を俺の頬に添え、もう一方の手で俺のシャツを手際よく脱がせ始めた。なんだかそれが悔しくて、俺も成瀬のシャツに手を伸ばす。すると喉で笑われた。そのままお互い脱がせ合い、今度は俺もまた成瀬の体に腕を回した。そんな俺の首元に、成瀬が吸い付く。鎖骨のそばがツキンと疼いた。
それから改めて押し倒された。気恥ずかしさがあって、俺は右腕を折り曲げて、手の甲を唇に当てる。その間、成瀬は俺の右の乳頭を唇ではさみ、チロチロと舌を動かしていた。
「声、聞かせろよ」
「断る」
「出させてやる」
「いいから、ヤるならさっさとしろ」
確かに過去、俺は成瀬に優しくされたいと思っていた。けれど実際にこう言う状況になってみると、甘く丁寧にされたりしたら緊張しすぎて心臓が持たないというのがよく分かる。震えそうになる体を制するだけでも、必死の俺だ。
「俺は無理にはしないんだよ」
一方の成瀬は余裕たっぷりに見える。それが本当に悔しい。ペロリと唇を舐めた成瀬は、それから俺の目を見て僅かに獰猛な目をした。初めて見る表情に、俺が驚いていると、唐突に右手で、成瀬が俺のモノを掴んだ。焦った時には緩やかに扱かれていて、俺の男根は反応を見せていた。筋を舐めあげるように、成瀬が舌を這わせる。
「ンぅ、ッ」
成瀬が俺のモノを咥えた。思わず目を閉じて、俺はその生温かい口腔の感覚に耐える。すぐにガチガチに反応してしまい、熱が集まっていくのが分かった。俺の先端を口に含んで、片手で側部を擦りながら、成瀬はもう一方の指先で俺の窄まりをつついた。そのまま暫く口淫され、俺は上がりかけた息を抑えるのに必死になった。
「っ、ぁ」
出そうだと思った所で口を離され、恨めしくなって俺は成瀬を睨む。どこか意地の悪い顔で笑いながら、成瀬は二本の指を口に含んでいる。そしてそれを一気に、俺の窄まりへと挿入した。異物感が強い。しかし容赦なく指は進んでくる。幸いなのは、痛みが無い事だろうか。第一関節、第二関節と進んできた指が根元まで入り切った時、俺は瞬きをしたら、眦から涙が零れた事に気づいた。体が熱い。
「辛いか?」
「平気だ」
「そうか」
俺の答えを聞くと、頷いた成瀬が、指の抜き差しを始めた。ゆっくりとギリギリまで引き抜いては、またゆっくりと深くまで指を進める。そうして手を進めると、指先を軽く折り曲げるように動かしたりする。次第にその動きが早くなり、だいぶスムーズに動くようになっていった。必死で呼吸し、熱を逃しながら、俺は成瀬を見る。
「だ、だから……っ、さっさとしろって言って……んン」
「――出したいんだろ?」
「それは、その……お前だって辛いんじゃねぇのか?」
思わず俺は成瀬を睨んだ。すると成瀬が吹き出した。この表情は知っている。俺の好きな笑顔だ。
「早く欲しくてしょうがないに決まってるだろ、煽るな」
「あ、ああ!」
その時、成瀬の指先が俺の感じる場所を掠めた。先程から執拗に刺激されているそこは前立腺らしい。思わず声を漏らした俺は、気恥ずかしくなってギュッと目を閉じる。するとその箇所を指先で嬲りながら、もう一方の手で成瀬が俺のモノを握った。
「う、ぅァ……ぁ、ぁ……ああ!」
擦り上げられて、中も強く刺激され、俺はあっさりと放ってしまった。大きく吐息し呼吸を落ち着けていると、成瀬が指を引き抜いた。一瞬だけ放心したようになっていた俺は、直後、ゴムをつけた巨大な先端をあてがわれてビクリとした。
「あ、あ、あ」
俺の腰を片手で掴み、もう一方の手で太ももを持ち上げた成瀬が、腰を容赦なく進めてくる。押し広げられる感覚と、それまで知らなかった圧倒的な存在感に、俺は思わず腰を引きそうになった。だが、成瀬の手がそれを許してはくれない。
「あ、ア――! あああ! ん、んン――!」
巨大な雁首まで進んできた所で、一度成瀬が動きを止めた。
「大丈夫か?」
「う、ぅぁ、ァ、ダメだ、待っ――っ」
「悪い、止められない」
「あああ!」
そのまま根元まで挿入され、俺は一気に貫かれた。思わずギュッとシーツを掴んで、衝撃に耐えた。交わっている箇所が熱くて、全身が熔けてしまいそうだ。ギチギチに広げられた俺の窄まりが、ギュウギュウと成瀬のモノを締め上げている。
「全部挿ったな」
「ンあ……っ、ぁ……成瀬」
「やっぱり辛いか?」
「今更。違、その……嫌いじゃねぇというか、俺は、お前が好きだからな」
「っ、だから煽るなって言ってるだろ」
「ああ、あ、ぁ……ああ! ん、ン……ああ!」
「俺も宇隆が好きだよ」
「ああああ!」
成瀬が激しく抽挿を始めた。思わず成瀬の首に腕を回し、俺はしがみつく。そんな俺の腰を両手で掴むと、何度も何度も成瀬が打ち付けた。
「ひ、っぅ、ぁ、あア!」
奥深くまで貫かれる内に、快楽で頭が真っ白に染まってしまい、気づけばボロボロと俺は涙を零していた。恥ずかしさなど塗りつぶされてしまった。全身が熱い。
肌と肌がぶつかる音がする。
この夜、何度も成瀬は俺の中で放ち、その度にゴムを変えた。俺が放ったものでお互いの腹部はドロドロだった。窓の外が白けるまで、俺達はずっと交わっていて、気づいた時には、俺は眠り込んでいた。
――目が覚めると、体が綺麗になっていた。俺は隣から成瀬に抱きしめられた状態で、ベッドの上にいた。
「綺麗にしてくれたのか」
「幸い水道とガスは止っていなかったからな。シャワーも勝手に借りた」
「随分と手馴れている風紀委員長様だな」
「嫉妬か? 見回り中に強姦被害者の処理をする事が多いだけだ」
「そんなんじゃねぇよ。ただ、助かった」
そう言った俺の声は、昨夜喘ぎすぎたせいで、僅かに掠れていた。無性に喉が渇いたなと思っていたら、ベッドサイドにコップがあって、俺の視線に気づいた成瀬が微笑した。
「飲め。シャワー上がりに、用意しておいたんだ」
「おう。随分とお優しい事で」
「恋人に優しくするのは、当然だろ?」
それを聞いて、俺がグラスを取り落としそうになりながら、盛大に咽せた。こ、恋人? 聞き間違いではないよなと思いながら、思わず成瀬を見る。俺の手ごとグラスを支えた成瀬は、また俺の好きな表情で吹き出していた。
「俺はお前が好きで、宇隆も俺を好きなんだろう? 恋人になるって事で良いと思うけどな?」
「そ、それは、その、そ、そうだな……」
「舌を噛みすぎるほど動揺している会長の姿を見られるのも恋人特権か?」
「からかうな!」
思わず睨んで抗議したが、成瀬はクスクスと笑うだけだった。その後揃ってシャツを整え、ネクタイを身に付け、ブレザーを纏う。どこからどう見ても、何事も無かった風の、いつも通りの俺達の姿に戻った。これならば、誰かに気づかれる事も無いだろう。シーツに残った痕跡には、言い訳はきかないが、清掃業者は口を挟まないはずだ。
「そろそろ電気が復旧するらしい。仮眠室を出るか」
「おう。というか、ここは俺の、生徒会の部屋なんだから、仕切るな」
鈍く痛む腰については忘れる事にして、俺はニヤリと笑ってみせた。成瀬は吹き出している。まるで中等部時代に、二人と一匹で裏庭にいた時のような、穏やかな空気だ。俺はこれが好きだ。
「ちゃんと猫画像、送ってこいよ」
「成瀬こそ、自発的に俺にメッセージを送れ」
そんなやりとりをしながら仮眠室を抜け、俺達はソファに座った。それから三十分ほど経過してから、電気が復活し、俺達は無事に外へと出られる事となった。成瀬は昨夜の制裁騒ぎの後片付けや、その後の御倉による破壊行為の調書作りがあると言って、すぐに風紀委員会室へと向かった。俺は一度寮へと戻る事にした。
そして――何度か成瀬に送ろうとして諦めていた、大量の猫画像を見た。どの霙も本当に可愛い。一日に一枚送ったとしても、卒業まで毎日送信可能だ。本当はずっと俺だって、送りたかったのだから。
これが、俺と成瀬の恋人同士としての馴れ初めである。
時間の経過はあっという間で、その後、すぐに体育祭があった。多忙なのは変わらないが、例えば中間テストの勉強を、俺の部屋で、成瀬と二人でした事などは、大きな変化だと思っている。期末テストの勉強も一緒にやった。無論成績は争っているわけであり、俺は一位を目指したが――成瀬は、ただ笑っていた。
「ああいうのは、自分との戦いだろ?」
「それでも俺は、成瀬に負けたくねぇんだよ」
これはもう、癖のようなものである。俺は、成瀬には負けない。ずっと対等でいたい。
「林間学校の班、同じになれて良かったな」
「そうだな。まぁ宇隆は企画進行、俺は見回りがあるから、常に一緒ってわけではないけどな」
林間学校は三泊四日だ。なお、それが終わったら、今年の夏休みは、久しぶりに成瀬が俺の家に来る事になっている。なんとか帰省の時間を捻出出来た事には、理由がある。学園の混乱が少しだけ収まり始めたのだ。一時期はリコール騒動にまで発展するかという勢いだったのだが、御倉が副会長の鷹凪を恋人に選んだ事で、混迷を極めていた香篤学園に落ち着きが戻ってきたのである。失恋した形になった双子の庶務は戻ってきた。ちなみに書記は、寄り添いながら自分にできるコミュニケーションの仕方を御倉から習っていただけらしく、最初から恋はしていなかったらしい。
また、御倉の奇抜な髪型は、ウィッグだった事が判明した。長い前髪の下にあった眼鏡も伊達だったらしい。最近あらわになった素顔は、ダークブロンドに碧眼の美少年で、クォーターらしかった。人間顔ではないが、副会長が一目惚れしたという話に、正直俺は、やっと納得した。鷹凪は、面食いなのだ、昔から。
同様に、御倉の言動が、海外育ち故の文化の差などに由来していると判明した結果、御倉にも親衛隊が結成され、その者達が、適切なフォローを入れるように変化した。御倉本人も、物を壊してはいけない事などを覚えてきたようで、最近の学園は平和だ。
そんな御倉は、最近副会長に『仕事をした方が良いんじゃないか?』と言ったらしい。鷹凪副会長の復活も間近なのではないかと、生徒会の他のメンバーで時折話している。
「何を考えてるんだ?」
本日は土曜日。
今日は成瀬が、俺の部屋に遊びに来ている。テーブルをはさんでそれぞれソファに座りながら、タブレットで辞書を見ている。顔を上げた俺は、笑ってみせた。
「いやぁ、香篤も落ち着いてきたと思ってな。さすがは俺が治める学園だ」
「言ってろ。風紀の尽力があっての平和だというのは、くれぐれも忘れるなよ?」
俺達は顔を見合わせて笑う。
夏休みまでもう数日。本当に些細な事で、平穏やそこにあった空気感は崩れてしまうと、俺は既に知ったが、改めて手に入れる事も出来るのだと学んだ。ただ、残りの学園生活の間、俺は成瀬の手を離す気は一切ない。
「なぁ成瀬。俺の家に来たら、その後、別荘に遊びに行かねぇか?」
「そこに猫はいるのか?」
「猫はいねぇ。猫は霙が本宅にいるだけだ。が、使用人も管理人もいねぇから、二人きりになれるぞ」
「魅力的な提案だな。俺も雪斗と二人でいたい」
最近、二人きりの時は、成瀬は俺を下の名前で呼ぶ。気恥ずかしく思って、『止めろ』と言った事もあるのだが、そうしたら奴は『万が一実家にお邪魔している時に苗字を呼び捨てたら困るだろう』と、理路整然と返答してきた。俺にはいい返す言葉は無かった。なので俺も、いつか成瀬宅に行く時に備えて、『籘真』と呼ぼうとしたのだが、逆にこれにもまた照れてしまい、俺は出来なかった。意識のしすぎなのは、理解している。
「だから予定は開けておく」
「おう。俺も藤真のために手配させておく」
両頬を持ち上げて俺が笑うと、頷いてから成瀬が立ち上がった。そして俺の隣まで歩み寄り、ソファに座り直した。
「なんだよ?」
「キスしたくなった」
「しょうがねぇな」
笑みを深めた俺も、同じ気持ちだったので、俺は静かに瞼を伏せる。とても、幸せだ。
(終)