麦茶のパックになった俺
気づいた時、俺は茶色い水面で揺れていた。正面には半透明の白の壁。
なんだ、ここは? 混乱しながら、俺は首を捻る。
俺は激務の、風紀委員長などという役職にある。特権がある学園の名誉ある職だというが、当然給料なんかでない学生の身だ。泣きたい気持ちを抑え、鬼の風紀と呼ばれながら、日々問題ばかり起こす生徒会と対峙したりして過ごしていた。ここの所より多忙になったのは、編入してきた生徒が、器物損壊を初めとした問題ばかり起こしていたせいだ。その上、生徒会役員は編入生に恋をし、そのせいで奴らの親衛隊も荒れに荒れ、制裁騒ぎが後を絶たず、俺はその対応と、結果生まれた膨大な書類との格闘で、最近睡眠時間が著しく減っていた。だから、ついうとうとしてしまった所までは記憶している。
だが、ここは何処だ?
悩みながら、俺は顔を動かそうとして、それが出来ない事に気が付いた。
見えると確かに思うのだが、それはなんだかこう、漠然と光景を認識しているだけの陽で、どうやら視覚では無さそうだった。俺は周囲に漂う麦茶の香りを感じて、そこで目があったら見開いた自信がある。
――俺は、麦茶のパックになっている!
そう気づいた瞬間、唖然としてしまった。無論、声帯も無いようなので、声は出ないが。呆然としていたその時、俺の正面で、冷蔵庫が開いた。
そこには、俺様何様バ会長様の顔があった。俺の天敵だ。
俺の浸るプラスティックの水差しを取り出した生徒会長の悠間は、よく見ると目の下に赤いクマがあった。疲れきった無表情の顔を見て、いつもの自信たっぷりな表情とは随分と違うなと考える。
悠間は生徒会長の執務机の上にガラスのコップを置くと、俺の入る麦茶を注いだ。
コポコぽという注がれる音と、エアコンの音が、静かな室内に響く。
そう……静かだ。ひと気が無い。編入生を連れ込んでいるとか、親衛隊を連れ込んでいるとか、噂が流れていたが、生徒会室にはバ会長しかおらず、どころか他の役員の気配もない。どういう事だ?
「はぁ……今日も誰も来ねぇな。仕事だけが溜まってく。もうすぐ体育祭だっていうのに」
ブツブツと悠間が呟いている。俺も見回り計画書の作成をしたから、行事については知っている。主導は生徒会だ。
「変な噂も立てられるわ、最悪だな」
麦茶を飲みながら、生徒会長がぼやいている。
「アイツも信じてるんだろうか。嫌だな。つぅか、全然会えてすらいない」
アイツとは誰だろうかと、俺は首があったら傾げていた自信がある。やはり、編入生だろうか?
「もう二年も片想いしているってのに、気づかれすらしてないが」
二年前には編入生はいなかったので、本格的に誰なのか気になりつつ、膨大な書類の山があるため、俺は悠間を見守る事にした。
「疲れたな。仕事は終わらねぇし。ああ、会いたい。顔を見るだけでも癒されるしな」
なんだか悠間も大変そうだ。
そう考えていると、ポツリと悠間が続けた。
「アホ風紀……何してるんだろうな、今頃。貴瀬の奴も、今の学園じゃ、疲れてるんだろうが」
俺の名前が飛び出したものだから、思わず驚いた。この学園には、貴瀬という苗字の持ち主は俺しかいない。
「会いたいな。貴瀬に。やっぱり、俺は貴瀬が好きだ」
俺は麦茶のパックになっているわけだが、突然告白されたに等しかったため、口はないが唖然とした。悠間が、俺を好き? バ会長が、風紀委員長のこの俺を? 普段は犬猿の仲で、口論ばかりしているから、てっきり嫌われていると思っていた。
「好きだなぁ」
切ないつぶやきをしみじみとするように繰り返したバ会長に対し、俺は混乱しつつ見守るしか出来なかった。
「だから、早く目、覚ませよ」
その言葉を聞いた瞬間、俺の視覚らしきものが、二重にブレた。
急に暗闇に飲まれ、緑と赤の砂嵐が混じりこみ、まるで貧血みたいだと思って、俺は目はないはずなのに、ギュッと瞼を閉じていた。だが、次の瞬間、ピクリと俺は、おのれの瞼が動いた事に気が付いた。目を閉じたままで、俺は先程までは存在しなかった手の感覚を意識し、指先を動かしてみる。動く! そのまま目を開けると、俺は見知った天井を見ていた。慌てて起き上がると、そこは保健室だった。
「良かった、委員長。過労と貧血で、風紀委員会室で倒れていたんですよ!」
俺が目を覚ました事に気づくと、保健医が声をかけていた。俺の手首の甲には、点滴の針が突き刺さっている。呆然としつつ俺は頷き、その後、夢だったのだろうかと考えた。
「もう少し休んでいて下さいね」
そう言われ、この日は寮ではなく、保健室に泊る事になった。
……。
バ会長の事を思い出す。大変そうだった。他の役員が仕事をしていないのは明らかで、必死に仕事をしていた。あれは本当に夢だったのだろうか? だとしても、そういえば風紀委員の調査の中には、少なくとも会長が遊んでいるという報告書は無かったと思い出したし、その上で生徒会の仕事もギリギリではあるが遅延なく行われている事を思い出した。もしかして、悠間は一人で仕事をしているのか? 俺も倒れるとは大概忙しかったわけだが……アイツも、多忙なのは間違いないだろう。
「これはから、もう少し優しくしてやるか」
ポツリと俺は呟いた。無意識だった。
その日、放課後になって、保健医が職員室へ行くと言って保健室を出ていき少しすると、扉が開いた。起き上がっていた俺が視線を向けると、入ってきたのは悠間だった。
「目が覚めたらしいな。廊下で保健医にすれ違って聞いた」
「あ、ああ」
「倒れるなんて情けねぇな。やっぱり風紀はアホらしい」
「……煩い」
やはり俺達は揃うと口論が始まる。だが……と、思い出した。夢、だったのかは分からないが、俺が麦茶のパックだった時、生徒会長は俺を好きだと話していた。
「怪我でもしたのか?」
「別に」
「じゃあなんでここへ?」
「生徒会長として、生徒の健康を一応気遣ってるだけだ。それだけだ」
「日々保健室に顔を出しているとは聞かないが?」
「うるせぇな。黙ってろ。見舞いに来てやったんだから有難く思え」
その横暴な言葉に辟易したが、同時に優しいなとも思った。きっと、心配してくれたのだろう。それは――俺の事が好きだからなのだろうか? そう思うと、俺の胸がわずかに疼いた。
「なぁ、悠間」
「お前が俺の名前を認識していたとは驚きだ。今後はバ会長ではなく、そう呼べ」
「……お前、俺の事が好きなのか?」
「あ? な、な、な、なんだ急に」
俺が率直に問うと、会長が真っ赤になった。俺はその表情に確信した。すると自然と笑みが浮かんできた。案外、可愛い所があるなと思った。
「否定はしないんだな」
「っ」
「見舞いに来てくれて、感謝する。お礼に、体調が回復したら、生徒会の仕事をいくつか手伝ってやる」
これが、俺と悠間の始まりとなった。
その後俺は生徒会室にて、自分の仕事の傍ら、いくつかの書類仕事の手伝いをし、悠間と距離を縮める事となる。そして悠間が一人きりで仕事に励んでいた事実を確認しながら、時折冷蔵庫の中の麦茶を飲んだ。麦茶のパックになるというのも、悪くない経験だった。何せ、悠間の気持ちを知れたのだから。俺もまたその年の夏の終わり、悠間の事が好きになった。そして残暑が厳しい内に、俺達は蝉の声が響いてくる生徒会室に付属している仮眠室で体を重ねた。悠間に貫かれた俺は、全身で快楽を知った。麦茶のパックでは、学べない快楽だ。
事後、冷たい麦茶を飲みながら、二人で恋人同士になった事を笑いあった後、それぞれシャワーを浴びて着替えてから、俺達は生徒会室へと戻る事にする。最後に俺は、エアコンのスイッチを切った。そして目を伏せ、悠間を今後は癒してやろうと決意する。
―― 終 ――