【一】風紀委員長だった俺の現在






 妻が亡くなった。俺は、二歳になったばかりの次男、環(たまき)を腕で抱きながら、葬儀の三日後に墓標を見ていた。喪失感で苦しい。俺と妻の香苗(かなえ)は、大学時代に出会い、「まさか相良(さがら)が……」と周囲には驚かれたが、学生結婚をした。大学時代に生まれた長男の碧(あおい)は、現在五歳。来年には小学校一年生だ。俺は今年、二十六歳。

 相良静清(さがらせいしん)が、俺の名前だ。
 仕事は、これでも会社の社長なんかをしている。これも皆には、驚かれた。
 というのも俺は、中等部・高等部と風紀委員長をしていて、当時から、堅実で硬い職業に就きたいと望んでいて、大学からは外部に進学し、法学部で勉学に励んでいたからだ。俺も学生結婚を決意するまでの間は、己が警察機関で働く事を疑っていなかった。安定した公務員になりたかった。

 だが香苗は俺と結婚する前には既に起業していて、結婚と同時に俺もそこで働くようになった。そして香苗が妊娠・出産で産休を取得する事になった際、代わりに代表取締役社長になったという経緯だ。

 今後、俺は一人で、二人の子供を育てながら、会社の経営をする事になる。
 早すぎる妻との別れに、俺の胸は痛んでいた。


 ――あれから、一年。
 俺は本日も、三歳になった息子を鳳輦(ほうれん)学園の幼稚園に送っていった。小学校一年生になった葵は、入学当初から入寮してもらった。鳳輦学園は、小学校から高校まで、寮が設けられている。特に中・高は全寮制で、俺の母校でもある。男子校だ。良家の富裕層の子息が通っている。俺の場合は、奨学生として、中等部からの編入だった。それもあって、家柄間の繋がりがなかったから、誰に対しても公平だとして、俺は風紀委員長に抜擢されたのだったりする。

 当時の記憶を振り返ると、溜息が零れそうになる。
 特に高等部は酷かった。俺様としかいいようながなかった会長の柳楽皇成(やぎらこうせい)、腹黒くていつも微笑していた副会長の坂巻澪(さかまきみお)、チャラくて性的に奔放という意味で問題ばかり起こしていた会計の朝比奈佑都(あさひなゆうと)。少しマシだったのは寡黙な書記の高田当麻(たかだとうま)、あとは悪戯好きな生徒会庶務の一卵性双生児、或日(あるひ)と行日(ゆくひ)という名の真際(まぎわ)兄弟だがいた。個性的な生徒会役員たちに、俺は困らせられた。他にも途中で編入してきた廣瀬薫(こうせかおる)には手を焼いたし、不良クラスのトップだった石名奏丞(いしなそうすけ)など、何度摘発したか分からない。また、親衛隊にも手を焼き、特に会長親衛隊の隊長だった、郷原七里(さとはらななり)の虐めを糾弾した回数もしれない。なおこの鳳輦学園は、男子校だというのも手伝って、非常に同性愛者が多く、不純交友は主に男子生徒間で起きていたし、そこには強姦や輪姦も含まれていた。

 その中にあって、逆に異性愛者であるノンケの俺は、ある意味で目立っていたかもしれない。家柄が一般家庭であること以上に、そちらでも俺は注目されていたような気がする。

 それから一度自宅に戻り、俺は会社へと向かった。
 現在の俺の人間関係は、ほぼ社員との交流のみだ。時々、学園時代に俺の右腕だった風紀の副委員長である笹階直樹(ささしななおき)と連絡を取る事もあるが、そのくらいで、学生時代の友人とは、ほぼ縁が切れている。大学時代は香苗とばかり一緒にいたから、ほとんど友達はいなかった。

「社長、今日はうちの株主の、茶野(さの)グループ主催のパーティですよ」

 副社長の北條譲(ほうじょうゆずる)が、俺のデスクに歩み寄ってきた。招待状を手にしている北條を見て、俺は小さく頷く。

「今日も北條が出席してくれないか?」
「今日はダメですよ。茶野グループの社長が、どうしてもうちの代表取締役社長に来てもらいたいと言ってましたからね……いやぁ、うちも有名になってきましたし」
「有名とは言うけどな、まだまだ小さなベンチャーだぞ?」

 俺は苦笑した。株式会社|駿河《するが》ワークスは、主にバイオテクノロジー関連を扱っている中小企業だ。駿河というのは、香苗の旧姓だ。

 しかしいつも北條に出席してもらっているのだが、俺を指名されたのは意外だった。北條の方が顔が広いし、俺はあまり賑々しい場は好きじゃない。元々が、俺は一般家庭育ちの小市民だからだ。だが、株主の要望では仕方がないからと、この日は早めに仕事を切り上げて、俺は自宅に戻り、いつもより少しだけ上質なスーツに着替えてから、会場へと向かった。

 会場の操山(そうざん)ホテルは、この港桑折(みなとこおり)市でも屈指の、老舗高級ホテルである。本日はその二階の大広間を貸切っているそうだ。指定された時刻に招待状を手にし、俺は会場へと向かった。

 そして会場の奥にいた、顔だけは知っている茶野社長の元へと向かう。
 テカテカと輝く禿頭を一瞥してから、俺はその前で目が合った時に会釈した。

「ご無沙汰しております、茶野さん」
「――ああ、相良くん。元気だったかね? 全然顔を見せてくれないものだから、とても寂しかったよ」
「申し訳ありません」

 俺は作り笑いで、そつなく言葉を返す。
 そうしていると、茶野社長がじっと俺を見た。舐めまわすような視線を向けられ、嫌な気持ちになったが、俺はそれを顔に出さないように気を付けた。昔から茶野社長は、俺をどことなく嫌らしい目つきで見据えてくる。男同士ではあるが、俺はこの手の視線を、学園時代に幾度も見たし、向けられた事もあるので敏感だ。俺自身は異性愛者(ノンケ)なのだが、何故なのか俺は、男にモテる。背もそれなりに高いし、筋トレもしているから細マッチョ程度には体も作っているから、俺に女性らしさなど皆無なのだが、何故なのか、俺は男にモテる。

「茶野さん」

 その時、俺は聞き覚えのある声を耳にした。だが咄嗟には思い出せず、反射的に顔を向ける。すると歩み寄ってきて立ち止まった青年が、切れ長の目を細めて、唇の両端を持ち上げた。ある種彫像のような、完璧な美――俺はこの人物を知っていた。思わず目を見開く。

 俺様何様生徒会長様だった、柳楽がそこに立っていた。
 俺とは比べ物にならないような高級なスーツを身に纏っていて、長身の体躯、広い肩幅をしている。ただ嘗て浮かべていたようなニヤリとした笑みではなく、今は自信に満ちてはいるが、明るい笑顔だ。驚愕して、俺は瞬きをした。何故ここに、柳楽がいるんだろう。柳楽の生家である柳楽財閥は、俺のような中小ベンチャーとは格が違う、歴史ある名家で日本屈指の大富豪だ。柳楽はまっすぐに俺を見ている。一瞬だけ、明るかった瞳が鋭くなり、俺は射抜かれた心地になった。

「こ、これはこれは、皇成さん。お久しぶりですなぁ!」

 茶野さんの言葉で、俺の緊張感は途切れた。
 動揺から汗をかいていた俺は、茶野さんに視線を戻す。

「いやぁ、親グループの代表取締役に来ていただけるなんて、本当に光栄ですよ。ご希望通り、ほら……こちらに相良くんもお招きしておりますよ」
「感謝します。少し二人で話をさせていただいても?」
「ええ、ええ、勿論ですよ。では、私はこれで」

 茶野さんは、そういうと歩き去った。
 俺は困惑しながら柳楽を見る。

「久しぶりだな、相良」
「ああ……ええと、なんでここに?」
「ん? 聞いていただろう? 俺の柳楽財閥が、茶野グループの親会社なんだよ」
「そ、そうか」

 頷きつつ、俺様としか言いようがなかった柳楽も、少し落ち着いたのかもしれないと、俺は考える。なにせ高等部の頃は、俺は怒鳴ってばかりだったし、柳楽は鬱陶しそうに怒鳴り返してきたし、俺達の間に会話は成立しなかった。

「たまたま相良の会社に融資をしていると聞いてな。久しぶりにお前の顔が見たくなって、今日は招いてもらったんだ。元気だったか?」
「まぁ……そうだな。元気だ。柳楽は?」
「俺はいつも通りだな。折角再会したんだし、パーティが終わったら、少し飲みなおさないか?」
「あ、いや……子供を迎えに行かないとならないんだ。悪い、また日を改めて」
「――相良。お前は立場が分かっていないらしいな?」
「え?」
「俺が打ち切れといえば、茶野社長は、融資を即座に打ち切るぞ。俺の気分を害すな」
「っ、な、何を言って……」
「俺は事実を述べている。パーティの終わりまでなど、まどろっこしいな。今から行くか。上階に部屋を取っている。ついてこい」
「……」

 俺は呆然として、沈黙した。嫌な汗が浮かんでくる。
 その時また、柳楽が俺を射抜くような目で見た。俺の背筋にゾクリとした悪寒が走る。肉食動物のようなその瞳を向けられ、俺は全身を固くした。

「……ああ。分かった」

 しかし、俺は理性で言葉を理解した。柳楽は、やはり俺様のままだった。その上今、俺の会社を人質に取り、俺に脅しをかけている。俺は社員を守らなければならないし、路頭に迷えば子供達を苦しめる事になるのだからと、おろしていた手の拳をきつく握り、柳楽の声に従う事に決めた。

 ――これが、始まりだった。俺はその後に待ち受ける事を、この時はまだ、何も知らなかった。把握したつもりで、ほんとんど状況を理解していなかったのである。