【9】笑顔
その日帰宅するまでの間、俺は王宮中から視線を感じた。自意識過剰かとも思ったが、皆俺を不可思議そうな眼差しか、そうでなければ生温かい目で見ていたような気がする。帰りの馬車に乗ってようやく、それらの視線から解放されて、俺は一息ついた。
なお本日、叔父と母は、俺と宰相閣下の件の報告周りに出かけているらしく、邸宅には不在だった。こういう日、俺はひとりで食事をとるのだが、意外と気楽だったりする。レノンは、もう眠っているとの事だった。
食事と入浴を済ませてから、早速俺は竜族語の文献渉猟に取り掛かる事に決めた。本当にこれに関しては、宰相閣下に感謝しかない。
「……優しいじゃん、なぁ?」
本を開きながら、気づくと俺はそう呟いていた。すぐに我に返り、恥ずかしくなって、ひとりきりなのだが、室内で視線を彷徨わせてしまう。頭に浮かんでくる宰相閣下の笑顔も、別段冷たくはない。と、気づいたら俺は、宰相閣下の事ばかり考えていた。
「ダメだ、ダメだ。集中しろ、俺」
何度か軽く頭を振ってから、俺は活字を目で追う。こちらに関しては、大陸会議までに完成しなくても良いのだろうが、早いに越した事はないだろう。何せ、恋愛に関連しているらしい……恋、愛……宰相閣下……あ、だめだ。俺の集中力がまた途切れた。
こうして幾度も雑念を振り払いながら、俺は朝方まで竜族語について勉強していた。気がついたら、そのまま机の上で眠ってしまっていたようで――朝、フェルナードに肩を叩かれて起こされた時には、椅子から落ちそうになった。
睡眠不足気味で職場へと向かうと……昨日よりも、俺を不思議そうに見る人の数が増えていた。宰相閣下との婚約の噂が広まっているのだろう。この状況にあるせいだからなのか、だんだんと俺は、これまで漠然としていた結婚について、具体的に考えられるようになってきた。それにしても、眠い。
「眠そうだな」
職場へと向かい歩いていると、不意に後ろから声が響いた。ゆるゆると視線を向け――俺は一気に覚醒した。そこには宰相閣下が立っていたからである。
「お、おはようございます!」
俺は挨拶をしてから、周囲の視線が俺達に完全に集中しているのを理解した。宰相閣下はといえば、特に視線を気に留めた様子もなく、ゆっくりと頷いた。
「色々と話したい事もあるし、今夜食事でもどうかと思ってな」
「俺、今日は二十一時頃終わるかと思います」
「俺は二十二時の予定だったが、早く処理をする」
「あ、いえ! じゃあ二十二時過ぎくらいに……正門とかで?」
「ああ。馬車の手配をしておく。断られなくて良かった」
宰相閣下は冗談めかしてそう言うと、柔和な笑みを浮かべた。うん。温かい。麗しい。そう考えていたら、俺の方も笑顔になってしまった。すると驚いたように宰相閣下が硬直し、それから右手で唇を覆った。
「宰相閣下?」
人目があるので名前では呼ばない。首を傾げた俺を見ると、心なしか朱い顔で、宰相閣下が小声で言った。
「リュクスの笑顔は心臓に悪い。綺麗すぎる」
……。
恥ずかしながら、俺達は同じ事を思っていたらしい。幸い俺の心臓は、今回は無事だったが。その後、その場で別れて、俺達は各々の職場へと向かった。
「隊長ー! 陛下から緊急の雑用――仕事のご依頼が!」
「え?」
ユースの声に、俺は嫌な予感がした。瞬時に残業を覚悟する。そうしていると、ユースがテーブルの上に並んでいる巨大なチョコレートの箱を指さした。
「このチョコレートの箱の内、一番美味しいものを探し出して、三百個買ってくるようにとの事です」
「味なんてどれもチョコなのに……違うのか?」
俺はそれなりに舌はこえている方だと思うが、そこまで同じ店のチョコに差異を見いだせる腕前があるかと問われると、はっきり言って謎だ。
「適当に選ぶ案に、僕も一票です。翻訳魔術の方で忙しいんだしさぁ……僕辛党だし」
「それはダメだ、仕事は仕事だ。よし、食べるぞ」
そうは言ったものの、朝食はとってきたし、眠気もあって、あまり食欲はない。俺の言葉に渋々といった様子で、ユースが珈琲の用意を始めた。
こうしてこの日は、部隊総出で、チョコレートの試食をする事になった。国王陛下からの依頼は、このようにして意味の分からないものも多々ある。昼食時をすぎるまでその作業に追われ、やっと落ち着き、一番美味しいチョコが多かった箱を決定した時、国王陛下から茶会へのお招きがあった。断るわけにはいかないので、俺は指定された庭園へと向かう事にした。
「いやぁ意外だった。本当」
本日は、陛下と俺の姿しかない。他には立っている近衛や使用人達だけだ。チョコレートの結果を俺が説明すると、陛下がそんな事を言った。
「他の箱の方がお好みですか?」
「そうじゃない。イルゼとの婚約が! 昨日の朝は眠すぎて深く聞けなかったから、今聞こうと思って」
――眠すぎて。
俺も現在非常に眠い。それを思い出してしまった。
「あれだけ断ってたのにな。それにリュクスの叔父上殿なんて、爵位の継承の件で俺の所にほぼ殴り込みに来て、結婚しないらしいと豪語していた――ら、戻ってきて一転、やっぱり誤解で結婚するらしかったときたものだから、何事かと思った」
それを聞いて、俺は叔父の事を思い出した。まさか陛下のもとへ殴り込みに……とは……。ただそれもあって、先に報告に行ったんだろうなと納得もした。
「俺はほら、イルゼの比較的味方だから、勿論応援していたし、結婚に支障がない爵位状態を考えてもいたわけだ。どうせイルゼと結婚したら、配偶者も同等爵位となるから、結果としてリュクスは侯爵相当であるしなぁ」
「……結婚する事が決まったのは昨日で、俺にはお話が見えません」
「でも、もう本決まりなんだ? ほう」
国王陛下はそう言うと、ニヤリと笑った。
「どこが好きになったんだ? ん?」
「え」
「やっぱりあのキスか? 沈黙の続いた例のお茶会の」
「……!」
言われてみると、宰相閣下が明確に気になり出してしまったのは、紛れもなくキスの結果ではある。しかし恥ずかしくて俺は黙っていた。そんな俺に陛下はその後も、根掘り葉掘りと色々聞いてきたのだが、俺は頷くにとどめた。
茶会後一度職場に戻り、今度は翻訳魔術に専念して、俺は夜を迎えた。
待ち合わせの時刻の手前まで働き、室内には俺だけとなった。
本気で眠い……。
そう思いつつも重い体を引きずって、俺は正門へと向かった。するとそこには、クロス侯爵家の馬車が既に来ていた。宰相閣下の姿はまだない。
「待たせたな」
しかしすぐに宰相閣下はやって来た。その姿を見たら、何故なのかホッとして、俺は思わず笑顔を浮かべてしまった。すると呆れたように宰相閣下が言う。
「心臓には悪いが、俺はお前の笑顔が好きだぞ」
こうして、俺達は馬車へと乗り込んだ。そして――即座に睡魔に飲まれたようだった。