【十】午前三時







「――遅かったな」

 門を潜って外へと出ると、ピタリと城壁に背を預けていた宮廷魔術師長のゼルに声をかけられた。唐突だったものだから、驚いて僕はビクリとした。何せ気配が無かった。他の魔術師の気配に気づかないなんて、僕も相当つかれていたのかも知れない。

「そこで何をしている?」

 努めて冷静である風を装い、僕は腕を組んだ。
 すぐ側に見える、帰還魔法陣を一瞥した後、ゼルへと視線を向ける。
 夜の闇の中でも、紅い瞳が輝いているようだった。

「フェルを待ってた」
「何か用か?」

 それならば、待たずとも宰相府に伝令でも寄越せば良かっただろうにと考えてから、僕は息を飲んだ。わざわざ直接来るのだから、誰にも聞かせたくない緊急事態でもあったのだろう。

「オデッセイ騎士団長の家に行くらしいな」
「ああ」
「ジーニアス侯爵家にも行ったとか」
「それがどうかしたか? 今度レガシー侯爵家にも行く予定だ。残るは、エルグランド侯爵家だけだ。宰相職ともなれば、侯爵家にも一目置かれる。気疲れするな」
「お前が宰相だから、呼ばれた。そう思ってるって事か?」
「当然だろう。違うのか?」
「……俺は、少なくともお前が宰相だからって言う理由で家に呼びたいとは思わない」

 ゼルの表情が、少しだけ硬くなった。
 も・し・や!
 これは僕の実力と影響力に、嫉妬しているのではないか!

 何て気分が良いんだろう。自分が侯爵家に招待された事が無い(か、どうかはしらないが、多分無いのだろう、この反応的に)からと言って、はははははは!

「なるほど。寂しいんだな、ゼルは」

 僕が言うと、ゼルが咽せた。

「なッ、そりゃ、そういえない事はないけどな」
「それで? お前は誰の家に招待されたいんだ?」
「は?」
「口をきいてやっても良いぞ。僕とゼルの仲だからな」
「――強いて言うなら、お前の家だな。招待されたいというか寧ろ、お前に俺の家に来て欲しいけどな」
「僕に?」

 なんと! 僕に、そうかなるほど、宰相である僕に家に来て欲しいのか。要するに、宰相だからと言って家に呼びたくないというのは、プライド故の強がりと建前で、本音は宰相の力を欲しているのか。

 まずいまずい、ゼルの前だからまた一人称が僕になってしまった。

「次の次の次の休みなら構わない」
「……ああ。じゃあその日は約束な」
「承知した。ではな。我輩はそろそろ帰る」
「待てよ」
「まだ何かあるのか?」
「今日は?」
「何がだ?」
「寄っていかないか、俺の家に」
「もう三時を回っているんだぞ。我輩は明日も早い」

 魔術理論の研究などを名目に、比較的遅刻が許容されやすい宮廷魔術師とは違うのである。魔術師は夜型人間が多いため、その辺の規則も緩いのだ。それに魔術を使うときは、集中力を必要とするため、常日頃から集中力に秀でている者も多くて、研究も一気に集中してやる、と言う者も多い。そうすると、どうしても、夜通し集中して遣ってしまうらしいので、こういう規則になって言う。魔術師の一人として僕もその気持ちは痛いほど分かる。

 しかし今の僕は、宰相である。文官だ。

「泊まればいい」
「枕が変わると安眠できないんだ、我輩は。貴様と違って繊細なんだ」

 いやみったらしく僕が言うと、ゼルが苦笑した。

「フェルが安眠できる枕になりたい」
「頭でも打ったのか?」
「ただの本音。なぁフェル、約束してくれ」
「何をだ?」
「真剣に俺との関係を考えて欲しい。――その答えが、YESでもNOでも、俺に返事をくれるまで、他の奴に体を許すな」

 ゼルの声が真剣なモノへと変わった。
 ――体を許す?

 一体どういう意味だと考えながら、僕は首を傾げた。

 すると何かを訴えかけるようなゼルの瞳にのぞき込まれて困惑した。いつも大抵余裕が滲んでいるから、珍しいなと思う。そもそも僕とゼルとの関係なんて、好敵手の一言に尽きるだろうに、一体どうしたのだろう。

「頼むから。日に日に気が気じゃなくなるんだ、俺」

 暫しの沈黙を挟んでから、ゼルが顔を背けた。
 僕の前で、余裕の無さ、自信の無さを見せるゼルなど、大変貴重だ。

「まぁ良いだろう。約束しよう」

 同族嫌悪しているから、同時に、自分がゼルの前で、こういう姿を晒してしまう未来を考えると、ちょっとだけ安心させてやりたくなった。無論、僕は好敵手の前で弱い姿など見せるつもりはない。

「……ああ。悪かったな、急に引き留めて」
「いや、いい。また明日」

 最も明日会う機会があるかは分からなかったが、僕はそう告げた。

 移動魔法陣に向かいながら、ゼルの視線を僕は感じたが、意味が分からないので気にしないことにする。


 帰宅すると、弟のレイが、読書をしていた。

「あ、おかえり」
「ああ、ただいま。お腹が減った」

 僕は鞄をソファに置き、首元で揺れるローブの紐を緩めた。

「先に食べる? お風呂に入る?」
「入ってくる」
「お風呂の中で寝ないでね」

 頷きながら僕は欠伸をして、浴室へと向かった。

 僕らの父さんが、無類の温泉好きだったため、貧乏伯爵家ながら浴室だけは、我が家も豪華だ。

 手足を存分に流しながら、僕は無意味に手でお湯を掬った。

 なんだか、眠いのは事実だし、疲れてもいるのだが、ちょっとだけ嫌な予感がするのだ。
 三時を回ってまで弟が起きている場合というのは、大概何か話しがある時だ。

 レイは基本的に、二時になっても僕が帰宅しないと、寝てしまう。
 何となく経験上それは知っていたが、こちらから聞くのも躊躇われる。

 本当に緊急の場合は、帰ってすぐに切り出されているだろうから、重大でなるべく早く耳には入れたいモノの、食事の席でできるような話なのだろう。前回この手の出迎えをされた時は、領地が凶作だったという話しだった気がする。あるいは、何か落ち込む出来事があった時のレイも、こんな感じだ。

 そんな事を考えながら入浴を終え、僕は食卓へ向かった。

「……何かあったのか?」

 ダイニングテーブルに並ぶ、いつもよりもみじん切り系が多い料理の数々を見て、嗚呼何か凹む出来事があったのだろうと僕は悟った。レイは嫌なことがあると、ひたすら包丁でまな板を叩くのである。ミートソースとハンバーグと……まぁ挽肉料理、みじん切りのタマネギ等々、僕は嫌いじゃないからよしとしよう。

「実はね、好きな人にフラれちゃったんだ」
「!」

 僕はその言葉に驚いて目を見開いた。
 正面では、僕の帰宅を待っていたのか、レイが酒を注ぎ始める。
 弟が酒を飲むなんて珍しい。

「好きな人がいたのか?」
「うん」
「見る目がない奴だな!」
「……ううん。僕に魅力が無かったんだよ」
「そんな事はない。僕が断言する!」

 既に使用人の多くは眠りについているため、ここは僕が頑張って慰めなければと気合いを入れ直した。しかしまさか弟が恋をしているとは、僕は知らなかった。

「相手は誰だ?」
「言えない」
「そうか……告白してフラれたのか?」
「……なんていうか。向こうに本命がいるのはずっと知ってたんだけど……体だけの関係って言うか」
「なッ……」

 純情だとばかり思っていた弟から続いた言葉に、僕は絶句した。

「体だけの関係だと!? つまりレイは浮気相手だったって事か!?」
「……向こうに本命ができる前からの付き合いだから、浮気ともちょっと違うと思う」

 そ、それは要するに。

 あれだろうか、セ、セフレとか、そういう名前をしている爛れた関係(?)だろうか!?

「別に最初は僕も好きじゃなかったんだ」
「好きじゃないのに体の関係を持っていたのか!?」

 信じられない。

 別に肉体関係を持つことは個人の自由意志だろうとは思うが、レイを弄ぶなど許せない。

 いや、レイが弄んでいたのだろうか。いやいやいや、僕の弟は人を弄んだりしないと身内のひいき目かも知れないが、そう考える。

「……その内にいつか僕のこと好きになってくれれば良いのにって思うようになって……」
「レイ……」

 辛そうな弟の姿に、僕は胸が痛くなって、思わずハンバーグを勢いよく食べた。

 こんな時間にこんなものを食べるのは美容には良くない気もするが、何もせずにはいられなかったのだ。

「気がついたら好きになってたんだ。だけど、その人に本命ができちゃって……」
「良い機会だ、きっぱり関係を絶て」

 厳しい事を言っているかも知れないが、弟のことを思う限り、それが良いような気がする。普段の僕なら好きにしろと言って軽蔑して終わりかも知れないが、僕はレイの力にはなりたい。だってたった二人の兄弟だぞ。

「分かってる……本命には手を出せないらしいから、ずるずると体の関係だったんだ。それで辛くなって、僕、うん、僕もきっぱり止めようと思って、告白したんだ。ただね、フラれて気がついたんだ。どこかで本当は、僕を選んでくれるんじゃないかって思ってたこととか……思いの外、もう会えないと思うとショックだって事だとか。分かってる、分かってるんだ僕だって。僕はこの家の跡を取らなきゃならないから、フェルが、兄さんがさっさと子供をもうけてくれない限り、誰かと結婚しなきゃならなかったから、どのみちその人とは添い遂げられないって事だって知ってた」
「――平民だったのか? それとも子供ができない体だったのか?」
「男の人だったんだよ」
「え」
「しかも僕以外にも沢山沢山遊び相手はいた」
「良かったじゃないか関係が切れて!」
「……だけどだけどだけど、大好きだったんだよ! スイの事が!」
「――……ん?」

 続いた声に、僕は大神官であるスイーニードットの事を思い出した。
 聖職者――ではあるが、奴は大層モテる。

 その上、あくまで噂でしか聞いていないが、確か信者の同性に手を出しているとかいないとか聞いたことがある。そして確実に確定的に、現在勇者アスカの魅了魔術に参っているはずだ。

「ちょっと待て、その本命とやらは、まさか勇者か?」
「……うん。ちょっと前までは、フェルのこと好きみたいだったから、それで僕のこと相手にしてるんだと思ってたんだけど……」
「僕とスイは無い。あり得ない」

 それは分かる。

 何せスイは、僕を何とかして失職させ、領地運営に戻そうと画策していた一人だ。勇者の召喚だって、恐らく僕に対する嫌がらせでもある。ジークやゼルが好敵手だとすると、スイは僕の敵の一人だ。

 理路整然論理的な政治家である文官の長である僕と、宗教の代表者であるスイが合わないのは仕方がないだろう。大体、陛下が、政治優先か宗教優先かですら、僕らの影響力は変わってくる。幸い現在陛下は僕よりだとは思うけど。

 ただし問題は、勇者アスカだ。

「本命が勇者アスカだとすると、それは本心ではなく、魅了魔術の可能性が高いぞ」
「……けどさ、騎士団長とかには効いてないわけだから、要するに、スイは僕のこと本気で愛してるって可能性ゼロって事でしょ?」
「いや、聖職者は騎士よりも、魔術に弱いだけかも知れない。なんだかんだで騎士は魔獣の相手を日夜するしな」
「フォローしてくれなくて良いよ」

 苦笑するようにレイはそう言うと、グイッと酒をあおった。
 やけ酒する弟の姿なんて見たくはない。

「レイ。僕はきっぱり言って、スイはやめておいた方が良いと思ってる」
「……うん」
「そもそも自分の体を大切にすべきだと思う」
「……分かってるよごめん、軽蔑したよね。ただどうしても兄さんに聞いて欲しかったんだ」
「レイは僕の弟だ。軽蔑なんかしない。勿論いくらでも聞いてやるさ。僕が言いたいのは、だ。お前は僕の弟なんだぞ。体を安売りするな。レイほど良い奴なら、請われて請われてしかたがなく体を、ちょっとだけ触らせてやるくらいで良いんだ!」
「フェル……」
「……それでも、それでもだ。どうしても好きなのか?」
「好きだよ」
「時間が解決してくれる可能性もあるぞ。ただの思いこみかも知れないぞ?」
「好きなんだ。こんな風に人を好きになったの、僕初めてなんだ」

 絶対幻想だと僕は思う。

 だけど残念ながら僕は恋なんてした事が無いから、兄の威厳が崩れ去るかも知れないが、レイの言葉を否定するだけの材料なんて持ってはいない。

「――とりあえず、だ。僕は大反対だけどな、その、勇者の魅了を解いてもう一度話してみたらどうだ?」
「魅了魔術の解除なんて高度な魔術、それこそ宮廷魔術師長くらいしかできないでしょ」
「僕が責任を持って解除する!」
「フェルが? 確かに兄さんならできるだろうけど、宮廷では魔術を封印するって……」
「レイのためならな。コレでも僕は、良い兄なんだぞ!」
「フェル……有難う」
「ああ、まかせろ! 明日朝一で、神殿に行ってくる!」

 断言してから僕は、ハッとした。

 だが、スイから魅了魔術を解除したら、勇者アスカが神殿から戻ってきてしまうかもしれない。勿論ジーニアス侯爵の願いを叶える上でもその方が良いのだろうが、仕事の多忙さを考えると、全然良くない。恐らく明日にでも魅了解除を、何てしたら、僕の休日はまた暫く来ないので、侯爵家に顔を出す機会はなくなるだろう。今日した三つの約束は全部キャンセルになるはずだ。

 ――だけどレイは、僕にとって、たった一人の大切な家族だ。

「……任せろ、レイ。その後の結果は知らないが、僕はいつでもレイの幸せを祈っているからな!」

 僕がそう言うと、レイが泣きそうな顔で笑いながら頷いた。
 頑張ろうと僕は思った。