【1】
二階の研究室の窓を開けて、バイル=エステルハートは庭の木の枝を見た。黄緑色の小鳥が止まっている。初夏の風に、彼の黒い髪が揺れた。煙草を一本銜え、銀のオイルライターで火を点けたバイルは、白衣のポケットにシガレットケースをしまう。
史上最年少で、魔術医療師となったのは十三年前の事である。現在、二十八歳――ここまで回復魔術一本で生きてきた。人は彼を、回復魔術の天才と呼ぶし、本人にもその自負がある。骨ばった長い指で挟んだ煙草を吸い込み、煙を吐く。一見不健康だが、この煙草は、バイルが魔術生成した人工物で、ニコチンの代わりにカロリーが摂取できる。
忙しすぎて、食事をしている暇がない。これは、この魔術医療総合塔グリモワールで働く魔術医療師のほぼ共通の悩みだ。少しつった猫のような黒い瞳を瞬かせ、バイルは煙を吐き出した。午後の診療時間は既に始まっている。だが午前の分が終わったのも、午後の診療時間に入ってからだ。三分くらいは休憩して良いだろうと彼は考えていた。だが、回復魔術科はマシな方である。
魔術医療総合塔グリモワールには、三つの診療科と二つの附属機関がある。
一つ目は、一般診療科。魔術薬学を用いて、怪我や疾患を治す。病院といえば普通はここだ。魔術医療師といえば、多くはここの所属である。
二つ目は、回復魔術科。バイルが所属している、魔術による直接回復を促す。治癒・再生と言っても良い。
三つ目が、魔導具医療科。魔導具を用いて義肢を作ったり、心臓のペースメーカーを入れたりする。バイルの友人のグレンが、現在一番優秀な魔導具専門の魔術医療師だ。
附属機関は、魔術医療学校と――経営財団である。この魔術医療塔を作り、お給料を支払っているのも、受付や入退院手続きも、経営財団機関の担当となる。王家の分家であるレストハーミエル侯爵家が筆頭だ。総合玄関の壁写真にも、大きく経営者院長として『ライス=レストハーミエル侯爵』と書いてある。しかし十三年間も働いているが、一回もバイルは、そのライス氏を見た事が無かった。写真の顔は知っているが。
煙草を吸いおえ――つまり食事が終わったので、バイルは仕事に戻った。
歩くたびに白衣が揺れる。首元から魔力がこもっているIDカードを下げて、塔の廊下を進んだ。回復魔術科の患者やスタッフ達が気づいて、バイルに視線を投げかける。バイルは人気者だ。若干口が正直すぎる部分はあるが、気持ちの良い性格をしているからだろう。腕の良い魔術医療師というのは、それだけで七難を隠してもらえるものだ。
「お疲れ様」
午後の一切が終わったのは、夜の八時を回った頃だった。自動販売機脇の飲食スペース――即ち煙草でカロリーを吸収する場所に立ったバイルに、友人のグレンが歩み寄った。顔を上げたバイルがニッと笑う。右側だけ唇の端を持ち上げて笑うのは、バイルの癖だ。
それにしても、疲れた。午後の診療は、本来は四時で終わりだ。手術が入っていたとしても、余程の緊急手術でなければ、それは定時の間に済むスケジュールとなっている。そして本日は緊急手術は無かったし、昨日も無かった。だが、昨日も今日も八時だ。単純に患者の数が多すぎるのである。
「甘いものでも食べたい気分だよ」
自動販売機の前に立ち、煙草を銜えたままでグレンが言った。指先が甘ったるいココアを押している。バイルにはこれが信じられない。バイルは、甘い物が苦手なのだ。
「よくそんなものが飲めるな」
「疲れてるとね、俺は欲しくなるんだよ」
「気がしれない。俺は甘い物なんて、大本命に『あーん』とかされない限り、絶対に生涯口にしない」
「君は寂しい独り身で、結婚の当てもゼロだから、つまり一生食べる事は無いという自虐で良いの?」
グレンが目を細めて視線を向ける。ココアを手にしながら、『どうなの?』と目で聞くと、バイルが顔を背けて誤魔化した。二人の煙草の煙が、近くの観葉植物型排煙機に吸収されている。実際にはこの煙にも無菌効果があったりするのだが、魔術医療塔では、至る所にこの観葉植物型排煙機が並んでいる。見た目が煙草であるから、誤解した人々からの要望だったらしい。
「お前こそなんだよ、それは惚気か? 婚約者様がいらっしゃるパルツピザン大公爵家の跡取り様はさすがに違うな」
バイルの友人であるこの魔導具専門家は、秋に結婚が決まっている。バイルも招待状を貰った。グレン=パルツピザンは、この国の第二王子殿下と生まれつき許嫁関係だったらしい。王家と許嫁というのが、やはり高位貴族という感じである。が、魔術医療塔においては、爵位や身分は関係無いという暗黙の了解がある。だから普段はバイルも爵位を持ち出さないし、口にも出さない。
女性が生まれなくなって、早八十年。魔術戦争の後遺症だ。だから現在、この国の女性は、高齢者ばかりである。そこで生まれた技術が、魔術医療による男性妊娠だ。これにより、一時期数百万まで落ち込んだ人口も少しずつ戻ってきたと言われている。だが戦後世代の二人には、生まれた時から結婚や恋愛というものは、同性同士で行うものだったし、子供もまた男が産むものだという感覚だから、いまいち実感は無い。
モクモクと二人は煙を吐きながら、顔を見合わせた。グレンは今年、三十二歳だ。バイルの五つ年上である。バイルが史上最年少の十五歳で学校を卒業した時、規定通りの年数をぴったり終えて、二十歳でグレンは学校を卒業した。二人は同期である。科目は異なるが。バイルの中で、友人と言われればグレンだし、グレンにとってもそうだろう。
ざわり、と、その時――前方でざわめきが起きた。二人はそろって動きを止める。何事だろうかと視線を向けた。コツコツと高い靴の音が響いてくる。それに伴いカツカツと杖の音もする。二人は、もう一度顔を見合わせてから、今度はじっくりとそちらを見た。
見れば、夏だというのに黒い外套を羽織った青年が歩いてくる。左手に持っている杖は金色だ。飴色の靴は踵が高い。チョコレート色の髪の上には、黒いシルクハットを被っている。だが、それらは、奇抜な顔面の効果で、すぐにどうでも良くなった。顔を白塗りにした青年は、右側に赤いダイヤ、左側に黒いスペードの小さなマークをペイントしている。道化師のようだ。ビスクドールのような付け睫毛が、影を落としている目の周囲だけが、青と黒の中間色で染められている。異様な風体だ。だが、バイルとグレンが目を見開いたのは、その様相に驚いたからではない。
ずらっと付き人を連れて歩いてきた青年は、終始楽しそうな顔をしている。バイルは、外套下の赤い貴族服を一瞥してから、再度青年の顔を見た。すると、目が合った。驚いてバイルが小さく息を飲んだ時、青年が立ち止まった。丁度、バイルとグレンの正面だ。
「……ライス=レストハーミエル侯爵?」
思わずバイルは呟いた。
――本物か? と、写真そのままの青年の姿に虚を突かれた。
「お見知りおき頂き、光栄です。バイル=エステルハート先生」
すると穏やかに、この魔術医療塔の最高権力者が微笑した。バイルは天才と誉れ高いし、自分でもそう思っていたから、知られていても不思議はないと考えた。
「グレン=パルツピザン先生も、こんばんは」
「――こんばんは」
グレンも驚いた顔をしている。彼は、さらっと煙草を消失させて、頭を下げた。すると会釈を返して、ライス=レストハーミエル侯爵が歩みを再開した。付き人達も歩き始める。ポカンとしたまま、バイルとグレンはそれを見送った。
一行が去ってから、バイルが新しい煙草を銜えた。
「本当に存在したんだな」
「そりゃあ魔術医療塔が機能していて俺達にお給料が出る以上は、存在するんじゃない?」
「俺、初めて見たけど。グレンは?」
「俺もだよ。まさか名前を知られてるとは思ってなかった。名前が知られていたとしても、顔と一致させられているとは全然考えてなかったよ」
そんなやり取りをしてから、二人はそれぞれ帰宅した。グレンは、明日から一週間の出張らしい。しばしのお別れだなとバイルは言った。