【2】
――翌日。
「はぁ? 査察?」
朝の打ち合わせの際、バイルが声を上げた。眉を顰め、非常に面倒くさそうな顔をで、知らせを持ってきた他の魔術医療師達を見る。
「え、ええ……経営財団機関から、直接の申し出でして……」
「どこの誰が来るんだよ? 相手をしている時間があるのか? 無いぞ? 勝手に入って勝手に歩いて勝手に調べて勝手に帰れと伝えておけ」
バイルが言うと、報告している同僚が引きつった笑みを浮かべた。
「そ、それが……ライス様が直々にいらっしゃるそうでして……ぜ、ぜひ、天才と誉れ高い、エステルハート先生の手腕を間近で見たいとの事で……」
「俺? 確かに俺は天才だ。だから死ぬほど忙しいと――……」
言いかけて、バイルは声を飲み込んだ。昨日見た、奇抜な青年の顔が頭に浮かんだからだ。査察日程は、昨日には既に決まっていたはずだ。わざわざ昨夜、自分の前を通りかかったのは、果たして偶然だったのだろうか? そう考えながら、バイルは、室内を見回した。
「――今日、レイスは?」
「レイス先生でしたら、ライス様をお迎えに上がっておられます……」
「ふぅん」
バイルは腕を組んだ。レイス=レストハーミエルという同僚医師の顔を思い出す。春に学校を卒業したばかりの新米魔術医療師だが、既にこの回復魔術科では、バイルと腕を競う優秀な人物である。若干二十一歳。丁度入れ替わるように退職した彼の父は、王家の御典医に栄転した。
そのままレストハーミエル派の魔術医療師を掌握した若き期待の星は――……バイルと非常に仲が悪い。
古くからの回復魔術辛抱者で経営財団の主要人物であるレストハーミエル侯爵家派と、バイルのような現場で力ある最先端の魔術医療師派は、昔から対立している。考えてみると、この、レイスの兄が、ライスだ――と、バイルは思い当たった。
「――これまで魔術医療塔の中に顔を出した事の無い経営者様が、弟の就職と同時にいらっしゃるなんてねぇ」
バイルが吐き捨てるように言ってから、煙草を銜えた。周囲の人々が、やっと気づいたかという風に、大きく頷いている。医療面ではバイルは天才だが、それ以外の部分までそうであるとは言えない。傍から見ている限り、どう考えても、レストハーミエル派の後ろ盾である最高責任者が、バイルに釘を刺しに来ると思えた。
扉が開いたのは、その時である。
「バイル先生!」
入ってきたのは、噂されていたレイスである。
「今日から兄上が来る。来るなと言ったが、もう玄関だ。大至急、診察に向かった方が良い。兄上は、頭がおかしい事で評判なんだ。迷惑をかけると思うが、まぁ迷惑だろうな。それは我慢してくれ」
レイスの口から、バイルを心配するような言葉が飛び出した。これに、バイルを含め、回復魔術科の魔術医療師達が首を傾げた。
「――お前の兄なんだろ? レストをいじめるなーって俺に言いに来るんじゃないのか?」
バイルが率直に言った。するとレストが噎せた。
「馬鹿にしているのか?」
「基本、な」
「否定をしろ――あのな、いくら俺の権力欲欲求が強かろうとも、仕事に差し障るようなやり方などしない」
断言したレイスに、バイルは頷いた。当然だ。患者の命が掛かっている。
「だったら追い返してくれ」
「もう来たんだ」
「お前が相手をすれば済むだろう」
「違うんだ。兄上はバイル先生が相手をしてくれなければ、給料を80%カットすると言ってきた」
その言葉に、室内に激震が走った。客観的に考えればありえないように思えるが――レストハーミエル家が過去に、給料カットを実際に行い、医療魔術師側が折れた事例は、実は腐るほどあるのだ。確かに命を救う職業は大切であるが、経営者の方が強い場合もある。
さらにこの国では、塔を一歩出れば、高位貴族には逆らってはならない。レストハーミエル侯爵家よりも高位であるのは、グレンのパルツピザン大公爵家と王家くらいのものである。さらにレストハーミエル侯爵家は王家の分家なので、この国では非常に偉い。
結果的に、室内では「バイル先生頑張って下さい」という声が溢れた。
「昨日は、どうも。改めまして、ライスです」
「……バイルです」
至極不機嫌そうな顔で、バイルは、ライス=レストハーミエル侯爵を迎えた。本日も昨日と同じ、奇抜な格好の青年を見る。
「今日からよろしくお願いしますね」
「おう」
慇懃無礼に頷き、バイルは仕事を始めた。椅子に座ると、後ろの衝立の影にライスが立った。もう諦めるしかないという心境で、午前中の診療を始めた。その内――持ち前の集中力で、バイルは、ライスの存在を忘れた。思い出したのは、いつものように午後の診察時間に入って午前中分が終了した時である。
振り返って視線を投げかけると、バインダーを片手にライスが視線を落としていた。初めて見る笑顔以外だった。顔はペイントと付け睫毛であるが、初めて真剣な瞳を見たので、バイルは、意外とこの人物の中身はまともな部分があるのかもしれないと、やっと考えた。査察というのだから、彼もまた仕事中のはずである。
「――お疲れ様です、午前の分が終わりみたいですね」
「おう。昼休憩に行く。お前、食事は?」
「お構いなく。では、お待ちしております」
その言葉に頷いて、バイルは立ち上がった。仕事の邪魔もされず、休憩の邪魔もされないのであれば、別段問題は無い。思ったよりも気が楽だ。身構えすぎていたのだろうと思いながら、二階に向かい、研究室でカロリー摂取に励んだ。
こうして午後が始まった。午後も、ライスは大人しくしていたので、バイルは満足だった。そしてこの日は、九時手前に仕事が終了した。
「これで今日は終わりだ」
「そうですか、では」
「ああ。またな」
「――いえ、この後は、接待して頂きませんと」
「は?」
さらりとライスに言われ、バイルが目を見開いた。立ち上がったライスが、バインダーを付き人に渡す。そして唇の両端を持ち上げた。
「食事の席はこちらで用意してありますが。明日からは、回復魔術科にそちらもお願いしたい所ですね」
「な……」
「行きましょう」
ライスが杖をくるりと回した。歩き出したため、呆然としていると、その後ろに付き人達がズラッと並んでいくのが見えた。困惑しているバイルに、同僚達が声をかけた。
「行ったほうが……」
「断ったらクビだと思います……いくら先生でも……」
こうして――行きたくなかったが、バイルは夕食に連れ出される事になった。
向かった先は、魔術医療総合塔がある山から、魔術転移装置で移動した先にある、王都郊外の高級なレストランだった。バイルが一度も来た事の無いハイクラスの飲食店である。その奥の個室に顔パスで通された。まぁ――一度見たら、ライスの顔を忘れるのは無理だろうと思いつつ、バイルはついていく。ドレスコードがありそうな店だが、着の身着のままの白衣でも何も言われなかった。
付き人達には外で待つように言い、ライスが中に入る。バイルが続いて入った時、後ろで扉がしまった。気まずい二人きりの個室である。
「飲みますか?」
「おう。俺は麦酒」
「――ワイン専門店ですが」
「俺、甘いの嫌いなんだよ。俺からするとワインは全部甘い」
バイルは溜息をついた。接待の仕方など知らない。
ライスは頷いてそれを聞き、外に声をかけた。
「麦酒と、他は全ていつもの品を」
それを受け取り、店の給仕が下がった。バイルは膝を組んで、本物の煙草を取り出した。この店はいかにも禁煙に見えたが、何故なのか給仕が灰皿を置いていったのである。
「吸っていいか?」
「ええ。バイル先生のために用意させたので」
「お気遣いどうも」
そう口にし、煙草に火をつける。普段は、帰宅して吸うのだ。数少ないバイルの息抜きである。ライスは、そんなバイルをじっと見た。笑顔だ。
「査察の件ですが」
「おう」
「実は口実でして」
「へぇ」
弟の心配かと聞こうかと思ったが、やめた。伺っていると、微笑したままライスが続けた。
「まだ公になってはいない話なのですが、山を一つ超えた所にある隣国――ヴェスバルダが消滅しました」
だが、予想外の言葉に、バイルは目を見開いた。相変わらずライスは笑顔だったが――逆にそれが真実を告げているように見えた。この時になって、今更ながらに、作り笑いだとはっきり認識したと言える。
「うっかり、古代の魔獣封印を解いてしまったようでして――現在、ヴェスバルダがあった土地から、大陸中に魔獣が侵攻しています。直ぐにこの国、エグワールドールにも迫るでしょう。人と人との争いが終わって長いですが――……新たな戦の始まりとしても過言ではない」
深く煙草を吸い込み、動揺を押し殺そうと、バイルは努めた。
「魔術医療塔は忙しくなると考えられます。特に回復魔術科と魔導具医療科の二つが」
「――事実なのか?」
「ええ。王国騎士団も偵察師団を派遣しています。既に本日日中に、魔獣と戦闘になったという情報を、こちらでは掴んでいます」
「どうしてそんな話を俺に?」
「別に戦地へ派遣するつもりでは無いですよ」
小さくライスが笑った。その言葉に、てっきり派遣されると思っていたバイルは、肩の力が抜けた。
「――必要ならば、俺は行く」
「心強いですね。先生には正義感がお有りだ――いえね、大型魔術転移装置を、携帯可能状態にして、最前線に起き、魔術医療塔に負傷者を直接搬送する計画があるんですよ。そのため、現在は一般診療科でしか救命救急対応は原則的に行っておりませんが、回復魔術科と魔導具医療科の合同で、一つ救命窓口を新設しようと考えているんです」
「救命? それは良いだろうな。だが……大型魔術転移装置の携帯化……? そんな技法聞いたことがない」
「――レストハーミエル侯爵家で開発し、既に試験運用を開始しています」
「お前が作ったのか?」
「ええ」
頷いたライスを見て、バイルは思い出した。ライス=レストハーミエル侯爵が若くして家を継いだのは――彼もまた天才であるからだと、聞いた事があったのだ。医療面では無い。経営センスもあるが、その部分でも無い。
この世界において、魔力は三分類できる。一人一人、三種類の魔力を少しずつ持っている。それは、攻撃・防御・回復だ。魔術医療師というのは、この中の回復魔力を人よりも多く持っている人間が就ける。国内で最も回復魔力が多いのがバイルだ。
そして――攻撃魔力と防御魔力の両方の最高値を保持しているのが、ライスだという話だ。世の中には、太古の昔に封印された魔導兵器が多数あるのだが、それらは攻撃魔力や防御魔力が強くなければ、触ることすらできない。それを発掘して修繕しながら生きているこの国にとって、優れた過去の技術を再現できる魔力の持ち主は、天才と呼ばれる。
攻撃魔力はともかく、防御魔力に至っては、使える者がほとんどいない。だが、最高値を保持しているライスは――最高の防御の術、転移が使えると、バイルは耳にした事があった。攻撃が当たる前に転移すれば、防御の必要すらない。その転移の魔術がかかっている装置を、発掘修繕――新開発したのは、ライスだ。これに限っては、魔力以外の頭脳も必要になってくる。そういう意味でも、ライス=レストハーミエルという人物は、一見奇を衒った青年にしか見えないが……本物の天才なのだろう。
バイルがそう考えながら煙草を消した時、料理と酒が運ばれてきた。