【3】


「ま、難しいお話はここまでとして、食事をしましょう」
「……おう」

 冷えた麦酒の瓶をライスが持つ。グラスを差し出し、バイルは注いでもらった。その後ライスが自分のワインを注ぐ。並んでいる料理は、どれも美味しそうだ。バイルは、夜灯鶏のサラダにフォークを伸ばし、一口食べて、美味しさに感動した。

「それにしても」
「なんだ?」
「バイル先生は、麗しい! これぞ、イケメン! と、俺は思いました」
「ああ、よく言われる」

 適当に返しながら、次々と料理を食べる。普段がカロリー摂取のみなので、味覚で感じる料理に幸せになった。黄葵馬鈴薯のポタージュを飲んだ時、生きていて良かったと思った。バイルは、食べるのに夢中になったので、いつしか会話が途切れていたが気付かなかった。気づいたのは、ひとしきり食べた後である。

「お前は食べないのか?」
「ええ。俺は、酒を飲む時は食べないですね」
「不健康だな」

 バイルの言葉に、ライスが苦笑した。視線を向けると、白ワインの瓶が、もう三本も空いていた。酒豪だなと考えながら、バイルは小さく首を傾げた。

「ライス様って何歳だ?」
「ライスで結構です。俺は、今年で二十三ですよ」
「若いな。けどお前の写真、十三年前から玄関にあったぞ?」
「十五年前に経営者になったので」
「八歳?」
「ええ」
「その頃から、お前、その変な顔なのか?」
「っく」

 ライスが噎せた。バイルとしては自然な疑問だったのだが、顔のペイントについて誰かにここまで率直に言われる経験が、あまりライスには無かったのである。

「――顔を塗っていると、年齢が分からなくて便利ですから」
「あ、そういう事だったのか?」
「それと……顔を作らないと、何故か俺の周りにはポッカリと空間が出来るんです」
「むしろその道化師顔の方が、人が避けると俺は思うが」
「意外と人気なんですよ? 子供とかに」
「ふぅん」

 信じられないという顔でバイルが言うと、ライスが苦笑した。

「もう一軒行きますか?」
「いや。断って良いんなら帰りたい。明日も早いからな」
「では、そろそろチェックにしますか」

 そう言うとライスが立ち上がった。酔っているようには見えない。杖を手に歩き始めたので、バイルも従う。会計は既に済んでいるのか、それとも付き人達が済ませるのか、店の者が止める事も無かった。

 外に出て夜風に当たった時、不意にライスがバイルに抱きついた。ライスの方が背が低いので、少しだけ背伸びしている。首にぎゅっと抱きつかれたので、バイルが目を細めた。

「白塗りで見えないけど、酔ってるのか?」
「いえ。イケメンには、抱きつかないと損ですから」
「ほう。確かに俺はイケメンだが、俺はピエロに抱きつかれる趣味は無い。離せ」
「嫌です」
「あのなぁ……――まぁ良いか」

 どうせ酔っているのだとバイルは考えた。
 そのまま首にライスをくっつけたままで、バイルは夜空を見上げる。星が綺麗だ。

「救急、お願いしますね」

 耳元で、ライスが言った。バイルが視線を向けた時、ライスは微笑して小さく頷き、体を離した。そして、杖を付きながら歩き始めた。ここで解散らしい。バイルは、白衣のポケットに、いつの間にか入っていた一万ガルド札と『交通費』と書いてある紙に、少ししてから気がついた。



 さて、翌日。
 まだ査察は続いているらしい。名目だと言っていたが、一度始めたら、きちんと行うのだろうかとバイルは考えた。衝立の後ろに、今日もライスがいる。大人しいならば良いと考えていたのだが――……すぐに目を細める事になった。

「バイル先生っ、次の患者さんがお待ちですよっ!」

 診察と診察の合間に、本日はいちいち声をかけてくる。その度にライスが、首にぎゅっと抱きついてくるのだ。バイルはイライラし始めた。昼休憩の時もついてきて、終始ベタベタされた。後ろから抱きついてきてみたり、横から抱きついてきてみたり――……一日が終わる頃には、辟易していた。

「離れろ」
「えー!」
「邪魔だ」
「そんなぁ!」
「退け」
「嫌ですっ」

 そんなやり取りをしながら、ライスを振り払う。すると横に並んでライスが歩くのだ。
 これは――その日から、回復魔術科の名物となった。
 誰もライスには注意できない。ただひとり、弟のレイスが何度か「迷惑だろう!」と、敵ながらに注意してくれたのだが、「だってバイル先生がイケメンすぎて」とライスが言って終わった。最初は追い払っていたバイルも――時々、人気が無い場所で、救命救急について耳打ちされるものだから、毎回、何か重要な話があるのかもしれないと身構え、注意しなければならなくなった。結果……バイルは追い払うのが面倒になった。

 よって、バイルに抱きついているライスの図は、人々の風景となってしまったのである。

 一週間が経過した頃、この日は八時半に終わったので、バイルは自動販売機の前に向かった。煙草を銜える。首にはライスが抱きついている。

「なんだか久しぶりだね、バイル」

 そこへ、グレンが声をかけた。

「おう。出張からやっと帰ってきたんだな。俺、お前に愚痴りたいことが大量にあってな」
「愚痴を言う男はモテないというから、さらに甘味と遠ざかりそうだけど――え、何やってるの? 俺の目がおかしくなったのでなければ、目の前に奇っ怪な光景があるんだけど」

 煙草を銜えたグレンが、首を傾げた。どこか遠い目をしている。

「ん? 何が?」
「俺には、ライス様がバイルに抱きついているように見えるけど」
「こんばんは、グレン先生」
「ちょっと振り払うのが面倒になって」
「へぇ」

 バイルの声に、グレンが首を捻った後、まぁ良いやという感じで頷いた。
その日――バイルは、グレンを救命救急に誘った。



 こうして、バイルが主任、グレンが副主任という形で、非公式に合同救命救急の解説が決まった。準備は、ライスが行ったため、いざという時には、いつでも可動可能である。内々に魔術医療師数人にも声をかけてあるし、転移装置の設置も終わっていた。

 その時も、ライスはバイルに抱きついていた。バイルは昼休憩につき、煙草でカロリーを摂取していた。

「――あ」

 耳元でライスが呟いたため、バイルが視線を向ける。するとライスが、微笑したまま続けた。

「記念すべき最初の患者さんのようですよ。一気に、記念すべき三十人目まで運ばれてきます」
「!」

 ごく普通の昼下がり、このようにして、救命救急は始まったのである。
 運ばれてきた王立騎士団の人々は、重症患者が多かった。確かに適切な医療設備が無ければ死んでいた可能性が高い。これでは、現地に魔術医療師が出向いても、あまり良い成果は望めないだろうと考えながら、バイルは回復魔術を全力で使った。緊急手術が一日に何本も入る感覚だった。次から次へと魔獣の被害にあった人々が運ばれてくる。だが人ならざる驚異の恐ろしさを感じる暇もなく、バイルは治療に当たった。

 夜――ひと段落したとバイルが実感したのは、ライスに抱きつかれた時だった。首に回った手の片方が、無糖の缶珈琲を持っていた。受け取りながら振り返ると、珍しく腕がすんなりと離れる。

「お疲れ様です」
「おう……よく俺が、これを好きだと分かったな」
「査察の成果です」
「給料は上がりそうか?」
「検討中ですよ」

 冷たい珈琲を飲みながら、夏に差し掛かった夜の空気に触れる。ライスが近くの窓を開けたから、風が入ってきたのだ。

「明日からは、専任でよろしくお願いします。手配は済んでいますから」
「ああ」

 バイルが頷いたのを見て、微笑してからライスが、コツコツと杖を付きながら歩き始めた。去っていくその後ろ姿を眺めながら、バイルは珈琲を飲む。気遣いが、少しだけ嬉しかった。