【4】




 こうして救命救急は忙しくなった。バイルもグレンも疲弊しつつ、夏を迎えた。蝉の声を聞きながら、時に降る豪雨を見る。最近は、異常気象が多い。これも魔獣の魔力のせいだと言われている。救命救急は、暇な時は本当に暇だ。忙しい時に、一気に忙しくなる。

「最近、ライス様来ないね」
「まぁ、救命の設置目的で来てたんだろうしな」

 初めは日参していたライスの事を、バイルは思い出した。手には、いつかライスに貰ったものと同じ缶珈琲がある。グレンはココアを飲んでいる。二人共、手にはカロリー摂取用の煙草だ。魔力を使うとカロリーが持っていかれるので、空き時間には基本的に食事か煙草となる。概念では分かっていたが、救命を始めてから、露骨に感じるようになった。

 回復魔術は、術師の命を縮める――という逸話が事実に思えてくる。それが現場の魔術医療師の共通見解だった。もっとも、魔獣の最前線で戦っている王立騎士団の人々の方が、はるかに危険性は高い。

「――第二王子殿下が、騎士団の指揮をしているんだろ?」

 バイルが聞くと、グレンが俯いた。

「うん。まぁね。まぁ、形だけだから、後ろの安全な場所で指示を出しているだけだと殿下は話してたよ」
「自分の嫁が最前線にいるってどんな気分なんだ?」
「最悪の一言かな。運ばれてきた中に、殿下がいないのをいちいち確認してる。心配でたまに何も手につかなくなりそうだよ」

 親友の声に、バイルは小さく頷いた。こういう時は、恋人がいないと気が楽だ。
 ――警報器が鳴ったのは、その時だった。搬送患者の合図だ。


 二人は、急いで救命本部に向かう。処置室の準備が始まっているが、まだ患者の姿は無い。正面の巨大な魔術モニターに、現場の姿が映し出されている。あちらの転移装置側に魔導具のカメラがついているのだ。これにより、事前に搬送人数や重症度を分析可能になっている。最近付いた機能だ。

 モニターには別の角度で、巨大な魔獣が映し出された。これも、魔獣がどういった姿形か、異常魔力や爪を持っているかを確認する事で、処置をしやすくするために、最近追加された。

 最前線の戦闘風景が映し出されている。
 グレンが息を飲んだため、バイルは一瞥した。その視線を追いかけて改めてモニターを見据える。見れば、奥で座っていると先程話していた第二王子殿下が、前面で派手に攻撃魔術を放っていた。むしろ自分の後ろに、他の騎士達を避難誘導している。負傷者多数のため、撤退指示を出しているのだろうが、座っているだけなど大嘘だ。

「っ」

 バイルは思わず息を飲む。医療塔の三階くらい高い背の魔獣は、巨大な熊に似ていた。だがその瞳は獰猛な紅で、生えた牙は黄ばんでいる。あれで噛まれたらひとたまりもない。凶悪な爪を人々にふるっている。見ている間にも負傷者が増えていく。

 ――その魔獣の右上の空が歪んだのは、直後だった。
 何だろうかとバイルが首を捻った時、そこに見知った顔が出現した。ライスだった。転移装置を用いない魔術転移を、この時バイルは初めて見た。

 魔法陣が宙に展開していく。空いっぱいに黒紫色の古代魔術文字が広がった時、魔獣が気づいてそちらを見た。巨大な熊の手が振り上げられる。しかしライスは退かない。両手で魔術印を組み、攻撃魔力を開放した。すると上空に広がっていた魔法陣が収束し、魔獣の右首から左腹部までを、巨大な稲妻の槍となって貫いた。モニターの映像が衝撃波で揺れる。現地のカメラが揺れたのだ。室内が静まり返った。

 そのまま、ライスが第二王子殿下の隣に転移し着地した。そしていつも見せている笑顔を、なんでも無いように浮かべた。第二王子殿下が、目に見えてほっとした顔をしている。

 ――瞬殺だった。強い。魔力量の桁が違う。

 その後、重症患者達が搬送されて来たので、バイルとグレンは処置に当たった。
 翌日までずっと対応に追われ、朝方になって、バイルはようやく一息つけた。
 自動販売機の前に歩いていき、煙草を銜える。視線で珈琲を見ていた時、コツコツと音がした。視線を向けると、杖をついて歩いてきたライスが見えた。笑顔だ。付き人はいない。

「よお」
「ご無沙汰してます、先生」
「お前、自分でも戦うんだな」

 魔力があるからといって、戦う人間ばかりではない。むしろ貴重な魔力の持ち主は発掘に携わる方が多いし、開発する頭脳や経済的余裕がある人間は、後方で研究職をしている事が多い。国内一位なのに、現場にいるのかと、少し不思議に思いながら、バイルはライスを見た。するとライスが微笑を深くした。

「基本的には戦いません」
「そうなのか? どうして今日は? 危機だったからか?」
「――第二王子殿下の危機だったから、という意味ならば正確ですね」
「どういう意味だ?」
「レストハーミエル侯爵家は、王家の分家です。王族の方の危機は見過ごせません」
「……」
「それ以外の普段の多くの死は、見過ごしています。危機であってもね――もっとも、なるべくその多くも死を回避できるように、こうしてバイル先生達に救命救急をお願いしたりと、レストハーミエル侯爵家はその義務を果たしておりますが」

 それを聞いたバイルは、何を言おうか考えた。
 横に立ったライスが、自動販売機に指を伸ばす。そして、珈琲を購入した。

「どうぞ」
「おう。悪いな」
「いえいえ」

 ライスから珈琲を受け取り、バイルが口をつける。すると、ライスが、久しぶりにバイルに抱きついた。

「先生はイケメンだなぁ」
「ひっつくな」
「たまには良いじゃありませんか」
「まぁ……たまには、な」

 こうしてバイルは、首にライスをくっつけたまま、珈琲を飲む事にした。確かに、たまには、だ。ライスに会ったのが久方ぶりだと、改めてバイルは考えた。横顔を伺って見ると、ライスが意外と端正な顔をしているように、バイルには思えた。形の良い大きな瞳や、唇の元々の輪郭が分かる。ふわりと甘い匂いがした。香水らしい。

「ライス」
「何ですか?」
「怪我、するなよ」
「――ええ」

 軽く頷いたライスを見て、真面目に聞けよとバイルは思ったが、何も言わなかった。



 この日から、時折ライスの姿を、バイルはモニターで見るようになった。言われてみると、確かに第二王子殿下が露骨に危ない時に、姿を現す事が多い。だが、必ずしもそうではない。負傷者が多い時には、大体顔を出している。いつも圧倒的な強さなのだから、最初から最前線にいても良さそうだけどなと、バイルとグレンは雑談した。普段は経営や後方での研究に忙しいのだろうと結論を出したが。ただ何となく、バイルには腑に落ちなかった。

 その謎が解けたのは、夏が深まったある日の事だった。血相を変えた第二王子殿下が、直接救急に転移装置でやって来たのだ。

「グレン、この座標のカメラをモニタリングして」
「殿下、これは?」
「こちらから、恐らくすぐに、大量の怪我人が搬送されてくる。他の騎士団の戦地だ」

 その場が慌ただしくなった。その日までは、第二王子殿下指揮の王立騎士団しか、魔獣と戦っていないのだと、人々は考えていた。だが、そんな事は無かったのである。公開されているのと、ここへと運ばれてくるのが、第二王子殿下の所だけだったというのが現実だった。今回は、他の受け入れ先がもう満杯らしい。他、というのは、別国だった。国境線間際で、大陸内の連合軍が戦っているらしい。非公式に精鋭を募ったらしく、どこの国も公認はしていないのだと言う。その集団が相手にしていた魔獣の群れが、今回は、この国まで入ってきそうなのだという。

 モニターが切り替わった時、バイル達は絶句した。
 比べるものでは無いのだろうが――第二王子殿下達がいた場所が、平和に思えた。
 その場所には、血と死が溢れている。

 怪我人だらけというよりも、怪我人しかいないに等しい。そうであるのに、誰も退かない。空には無数の魔法陣が展開している。いつかライスが用いたものと同じだ。すぐにバイルは、ライスの姿を見つけた。いつもと違い、ライスに笑顔は無い。その瞳も冷たいが、無表情だ。魔術印を切る手の動きは早く、いくつもの攻撃魔術が放たれている。

「兄上……」

 その時、隣で声がした。見れば、招集がかかったため、駆けつけてきたレイスの姿がある。バイルは、隣で険しい顔をしている後輩医師に、かける言葉を探した。だが見つからず、画面に視線を戻す。その時、魔獣がライスの腕を爪で抉った。ライスは転移して逃げるのではなく、魔術を放つのを優先し、怪我をしつつもその魔獣を屠る。

 血が飛び散った。ライスの腕から血肉が地上へと落ちる。浮かんでいるライスは、億劫そうに腕を一瞥すると――ポケットからガムテープを取り出した。それを傷口にクルクルと巻いているのを見て、バイルは目を疑った。

「おい、あれは、レストハーミエル侯爵家が独自開発したガムテープに見える包帯かなにかなのか?」
「そんなものは存在しない、あれはガムテープだ」

 レイスの答えに、バイルは驚愕した。血を無理やりせき止めたライスは、画面の向こうで、転移し、別の宙に現れると、再び攻撃魔術を使い始める。それからほどなくして、搬送が始まったため、バイルにもレイスにも、画面を見ている余裕は無くなった。

 必死で対応しながら、バイルはそれでも、内心でライスの事を考えていた。
 ――ガムテープ? ありえない。
 そればかりを考える。考えている内に、翌日の昼になり、己の限界を感じ始めた頃になって、ようやく事態が収集した。激戦地からの撤退に成功したらしく、もう負傷者は運ばれてこないのだと聞いた。

 聞いたが――その知らせを持ってきたライスを見て、バイルは首を傾げた。

「お前、運ばれてこなかったよな」
「俺ですか? ええ。無事ですので」
「ガムテープはどうした?」
「ガムテープ?」

 ライスが首を傾げた。黒い外套のせいで、腕は見えない。戦闘時は外套を着ていなかった。バイルが腕を一瞥した時、レイスが走ってきた。

「兄上、怪我は?」
「無い。レイスは優しいな」
「ガムテープは!?」

 レイスもまた声を上げた。それを聞いて、ライスが――短く息を飲んだ。

「――ああ、腕?」
「「!」」

 ようやく思い出したという顔をしたライスを見て、二人が息を飲む。それを見て曖昧にライスが笑った。嫌な予感がしたバイルは、ライスの左手を握った。

「見せてみろ」
「平気です。治療済みで――……っ」

 ライスが言いかけた時、バイルが外套を払った。すると、血で固まっているガムテープが見えた。レイスが息を飲む。バイルは眉間に皺を寄せた。

「ガムテープを患部に巻く事を、治療とは言わない。さっさと来い。お前が最後の患者だったらしい」

 バイルはライスを無理矢理連れて、処置室へと向かった。

「こ、この程度……」
「この程度!? 俺が昨日からさっきまで治療していた患者内で位置づけるとして、上から三段階目に悪い。酷い。大怪我と評して良いだろうな!」

 珍しく怒鳴り、バイルは回復魔術を使用した。場所がまだ良かったが、もう少しそれていれば、十分命に関わる。

「今日からお前は、最低三日間は絶対安静だ」
「お気遣いには感謝しますが、午後からは出なければなりませんので」
「出るってどこに?」
「魔獣の処理の続きです」
「は? 俺は魔術医療師として、行かせられない。お前は、入院だ。治療が俺の仕事だ」
「……――バイル先生。先生に、先生のお仕事があるように、俺にも俺の仕事があります」

 溜息をついたライスは、それから静かに目を閉じた。バイルは、ライスが溜息をついた姿をこの時初めて見た。

「ダメだ」
「――治療、有難うございました」

 バイルが引きとめようとすると、ライスがその手を振り払った。ライスの側から振り払われたのも、これが初めてだった。