【5】
診察室を出たライスは、包帯が巻かれた左腕を見た。
――率直に言えば、包帯が邪魔である。有難い治療だが、こんなものをつけていては、魔術印を指で組む時に、腕が上手く動かない。溜息を押し殺しながら、廊下を歩く。そして、転移装置前まで、自分の魔術で転移した。いつも左手に持っている杖を、どこかに忘れてきてしまった事に気づいたが、探す余裕は無い。
「兄上」
すると大型転移装置脇に、弟のレイスがいた。
「やぁ、レイス」
瞬間的に、ライスは笑顔になった。弟が可愛くて仕方がないからだ。
「腕は?」
「――ああ。バイル先生が治療してくれたよ。何かこう、俺、愛を感じちゃった」
冗談めかしてライスが言った。いつもならば、レイスは呆れる。だが、この時、レイスは真剣な瞳のままだった。
「大丈夫なのか?」
「ん? ああ、全然平気だ」
「兄上、少し休んでいったらどうだ?」
「俺もレイスとご飯を食べたいんだけど、ちょっと仕事が……そうだ! 次の週末!」
「――兄上」
レイスが真面目な顔のままで声を潜めた。
「何も兄上が直接行かなくても良いだろう?」
「……レイス」
「そもそも激戦地にいるなどという話、一言も聞いていない」
「……」
「何故言ってくれなかったんだ?」
弟の言葉に、ライスは笑みを引きつらせそうになった。第二王子殿下の采配は有難かったし、結果的に多くの命が救われたのは事実だが、ライスとしては面倒な事になったなという思いが強い。
「悪いレイス、時間が押しているから、また後で」
「兄上!」
「格好良い兄の姿を見ていてくれ」
そう言って、ライスはそのまま転移装置を潜った。半ば逃げるようにして――激戦地へと戻る。こちらの空気の方が落ち着く気にさえなる。包帯をくるくると取り去って、ギプスを地面に放り投げ、ライスは部下達を見た。普段の付き人は、経営財団の仕事に従事させている。ここにいるのは、魔獣討伐のために編成された、大陸中から集められた精鋭魔術師集団である。
「ライス様、お怪我は?」
「大したことは無い。二時から、昨夜立案した作戦通り、総攻撃を始める。準備は?」
「完了しております」
「そうか――それと、魔導具のカメラだが、あれは――」
「別地域風景の放映に切り替えてあります」
「完璧だよ、ありがとう」
こうして、午後の作戦が始まった。こちらには、そもそも、救命救急を頼るという概念は無い。負けたら死ぬのだ。先日までの搬送先の他国の病院――あれは、たまたま近所にあった作戦本部だ。第二王子殿下がうるさいため、搬送先としてあっただけである。
――大勢の死傷者は出したが、この日、無事に魔獣の群れを二つ滅し、ライスは自国に魔獣の群れが侵入する事を阻止できた。
病院では、再び、第二王子殿下達の討伐風景が映るようになった。魔獣の事は、相変わらず非公開だから、どこで何が起きているのかを、バイル達が知る術はほとんど無かった。
魔術医療総合塔で毎年夏の定例である魔術花火大会が開かれる事になったのは、真夏を少し過ぎたある日だった。これは、攻撃魔力を魔導具の球体に溜めて打ち上げ、空に巨大な花火を灯すというイベントである。当日は、出店などが並ぶ。昔からの名物だ。少数民族である和族の文化である花火に合わせて、浴衣を着る者も多い。
この頃、魔獣討伐がひと段落していたため、ライスはレストハーミエル侯爵家に戻ってきていた。
「レイス、週末の食事だけど、来週はどうかな?」
「――もう何週間前の約束だと思っているんだ?」
「ご、ごめん……」
戦地からこの日帰ってきた兄を、レイスは軽く睨んだ。まず怪我が無いように見える事に安堵はしていたが……連絡一つ無かった事に、心配心を通り越して、怒りが湧きつつあった。
「週末は、例の花火大会で、俺は救護室の担当になってしまったから、祭りが終わるまでは忙しい」
「わかった! じゃあお祭りが終わったら、レイスの好きなレストランに行こう。茜蛸のカルパッチョを特別に依頼しておくから」
「――ああ。それと兄上、俺はその顔の兄上とは食事に行きたくないから、普通の格好で頼む。格好というか、顔で」
「あ、ああ」
ライスの顔のペイントを、片目を細めてレイスが見た。ライスが引きつった顔で頷いた。こうして兄弟は週末の約束を取り付けた。
当日――広場の噴水前のベンチに、ライスは座った。祭りが終わるまで、見物してみようかなと思ったのである。民衆に紛れようと、浴衣を着てみた。落ち着いた藍色の浴衣が、ライスによく似合っている。だが、ライスの周囲は、ぽっかりと空間が空いている。先程買ったチョコミントのアイスのカップを手に、ライスは嘆息した。
昔からである。顔を塗っていないと、周囲にはこうして空間ができる。
その理由をライスは知らない。
何が理由かといえば――一種、美しすぎるのが原因だ。
きめ細やかな白磁の肌は、艶かしい。白い首筋から覗く鎖骨が浴衣の合間から見える本日など、目の毒と言える。絹のようなチョコレート色の髪が、形の良い大きな目の脇を流れ、睫毛も細く長い。端正な唇は淡い桃色だ。幼い頃は、天使のようだと人々は感じさせられ、成長した現在は色気に惹きつけられている。
伏し目がちに、退屈そうに、ライスはアイスクリームを口にしている。その時ちらりと見える舌が清艶で、睫毛が落とした影は見る者の視線を釘付けにした。だが、当の本人は、そうとは考えず、何故なのか遠巻きにされている現実が、つまらなかった。アイスを買った時も、自分の番だけ店員はぎこちなくなり、周囲も距離をあけた。
誰もライスがライスだとは気づかない。気づかれたら気づかれたで遠巻きなのだろうが、疎外感が違った。
「お兄さん、ひとり?」
声がかかったのは、その時の事だった。遠巻きにしていたものの、美しいから見ていた周囲には、声をかけたのが、ナンパ目的だとすぐに分かった。近くにいる者達と、人々は視線を交わす。綺麗すぎて自分達は近づく勇気が無かったが――声をかけた集団には、その勇気があった……というよりも、悪酔いしていて気が大きくなっている風だった。四・五人の若者は、ライスと同世代に見える。お世辞にも、質が良さそうなナンパには見えない。卑しくニヤニヤ笑っていたり、瞳に既に肉欲が宿っている者がいたからだ。
「え?」
だが、普段このように声をかけられる事などないため、相手の目的がわからず、普通にライスは首を傾げた。
「ええ。一人です」
だから、何? という心境だった。
するとナンパにやってきた若者達が、ライスに歩み寄りながら続ける。
「あのさ、良かったら俺達と――」
言いかけたその時、ざわりと出店側からざわめきが起きた。声をかけた人々が少し止まって視線を向ける。ライスもそちらを見た。
そこには、魔術医療塔で誰もが知る大天才のバイルの姿があった。人気者の登場に、人々がざわついたのである。仕事終わりに顔を出したのか、白衣のポケットに手を突っ込んで、バイルが歩いている。進行方向がこちらなのは偶然だろうとライスは思った。バイルの後ろには、手を繋いで歩いているグレンと第二王子殿下の姿が見える。あちら二人は浴衣だ。ライスが眺めていると、バイルが気づいたのか歩み寄ってきた。
「よお、何やってるんだ?」
「バイル先生」
声をかけられてライスが声を上げると、知り合いだと知り、ナンパ集団がたじろいだ。彼らの前で――バイルがライスの首に腕をかけた。いつもとは逆だ。バイルに体重をかけられて、ライスが驚く。
「何味だ?」
「チョコミント」
「ふぅん」
バイルが頷いてから、口を開けた。ライスが呆れたような顔をした。手にしているスプーンを見る。食べたいのだろうかと考えて、少しすくって差し出すと、バイルが食べた。だから自分も食べる。すると――また、バイルが口を開けた。まだ足りないのかと考えて、ライスが目を細めながらも、もう一口差し出す。それを食べたバイルがまた口を開けたので、呆れつつもライスはさらにアイスを差し出した。
それを見ていた人々は、ナンパをしようとした集団も含めて驚いた。
ライスは知らなかったが――バイルは、ライスの想像以上に甘い物が嫌いなのだ。アイスを食べるバイルというのは、目を疑ってしまうような姿である。そのバイルが「本命からの『あーん』でもなければ甘い物は食べない」と豪語している事も、魔術医療塔では有名だった。特に学生なら誰でも知っていた。ナンパをしていた――若き学生達も知っていた。学生といっても、彼らは何度か留年しているので、ライスと本当に同年代である。留年は、珍しいことではない。
「ほれ、寄越せ」
「まだ食べるんですか? 無くなっちゃいます」
「新しいのを買ってやるから」
「別に良いですけど……」
不服そうな顔で、ライスがバイルの口元へとスプーンを運ぶ。
人々は、この壮絶な美人は、バイルの本命の恋人なのだと認識した。
それとなくナンパしようとしていた人々が消えた。アイスを食べながらバイルが睨んだ成果が大きい。バイルは内心で安堵していた。喧嘩が弱いからである。
実はグレン達に誘われて祭りに来てみた結果、美人がいるというざわめきを聞いて、バイル達も見に来てみたのである。すると噴水前には確かに非常な美人がいたのだが――すぐにバイルは気づいた。間近でライスを見たことがあったから、すぐに顔を塗っていないだけだと判別できたのである。横で第二王子殿下も「あれ? 珍しい。素顔だ」と口にしていたので、確信した。ライスがライスだと聞いた瞬間、グレンがポカンとしていたが、バイルはそれよりも、ライスがナンパされている所を見て、思わず歩み寄ったのである。
歩きながら見ていたが、ライスには一切の危機感が無かった。
確かに魔術の腕もあるし、どうとでもなるのかもしれないが――何だかこう、許せなかったのである。危ない。そう思って、歩み寄ったものの、ナンパ連中と喧嘩になったら負けるのは自分なので――必死に考えた末、「既に恋人が居るんです作戦」を立案し、実行したのである。この時バイルは、何故なのかライスの貞操を守らなければならない気分だった。そのためには、ちょっとくらい甘い物を我慢して食べても良いだろうと判断したのである。
こうして――ライスの貞操が守られた頃には、口の中が甘ったるくなった。
「――珈琲が飲みたい」
「買いに行きますか?」
「おう。あー、けど折角ならたこ焼きを俺は食べたい」
「たこ焼きですか」
ライスが頷いた。立ち上がろうとし、そしてライスは、改めてバイルを見た。
「離して下さい」
「ん? あ、ああ」
腕を解いたバイルは、それから自分の手を見た。華奢なライスの温もりが、まだ指先に残っている気がした。そう考えてからライスを見ると――美人である。
「お前、どう考えても、この顔の方が良い」
「見てたでしょう? 前にも言いましたけど、この格好だと周囲に空間が――あれ? そういえば、さっきの方々はどこに?」
「放っておけ。ふぅん……美人も辛いものがあるんだな」
何気なくバイルが言うと、ライスが虚を突かれたような顔をした。
「美人だなんてそんな」
「言われ慣れてるだろう?」
「へ? 初めて言われましたよ」
「――そりゃあ、周囲に見る目が無いか、美人には改めて美人だと言わないからだな」
バイルの言葉に、ライスが小さく吹き出した。それから二人で、出店の方へと歩く。ライスは、驚いた事があった。バイルが人気者だからなのかもしれないが、二人で歩いていると、人々が自分を避けないのだ。
「バイル先生は、人望がお有りなんですね」
「まぁな。お、黎舞豚の串焼きだ。珍しいな。美味そう」
「俺が買います」
「いや良い。アイスの礼だ」
こうしてバイルが串焼きを二本買った。小さい頃から働いていたため、それに人々も避けるので、ライスはこのように祭りを楽しんだのは、考えてみると初めてだった。しかしバイルの方は、毎年この祭りの日も病院にいたため、実は慣れている。各地に手際よくライスを連れて行き、最終的に一番の特等席で空を見上げた。花火が上がる。
「綺麗ですね」
「そうだなぁ……俺も花火は綺麗だと思う」
その後、花火が終わってから、バイルは、ライスがレイスと待ち合わせに向かうというので、送っていった。そこでレイスが「兄上!」と、声をかけた事で、周囲にいた人々は、やっとライスがライスであると気づいたのだった。