【二十三】死(※)
しかし、最後まで俺は臆病だった。ナイフを持つ手が震えてしまい、喉にあてがった時には、魔王に手首を強く掴まれた。
「短絡的だな、お前は」
「っ、離――」
「黄泉の国に行っても、俺はお前を呼び戻せるんだぞ。刻印がある限り。お前に逃げ場などないんだ」
それを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になった。足下が崩れていく感覚がした。
「お前は、永遠に俺に囚われる事に、もう決定しているんだ」
恐怖がこみ上げてきて、俺は震えた。何か言おうと唇を動かした時、不意に魔王が俺の唇を奪った。その感触が、温度が、どうしようもなく愛おしく思えて、俺は混乱した。違う。俺は、魔王を好きになったりはしないはずだ。キスが心地良いなどと、思うはずはないのだ。
「もう諦めろ。いい加減、俺のものになってしまえ」
「……絶対に、嫌だ。お前なんか……」
そう言いかけた時、正面から優しく抱きしめられて、俺は息を呑んだ。体温が、優しい。思わず魔王の胸元の服を掴む。
「ネルス。一度だけ言う。俺は、お前が好きだぞ」
ぴしりと、その優しく甘い言葉を聞いた瞬間、俺の心が砕け散った。
――ああ。
もう良いではないか。そう、何かが俺に囁いた。
「俺も……俺も本当は……好きだ」
「よく言えたな。良い子だ」
魔王が子供をあやすように、泣いている俺の背中を撫でた。ポロポロと泣きながら、俺は暫くその腕の中に収まっていた。この日を境に、俺は壊れた。もう罅の入ってしまった心が修繕できなかった。ただ、ただただ、魔王の時折見せる優しさに浸り、快楽に身を委ねた。
――そんな日々が、数百年続いた。
大陸の勢力図が様変わりしていると聞かされながら、俺は事後、寝台に寝転んでいた。俺を抱き寄せながら、魔王が溜息をつく。
「人間の国は、潰しても潰しても興る。そして勇者を名乗る凶暴な者を派兵してくる。ああいった害虫は、頭にくるな」
俺はそれを、世間話だと思って聞いていた。
だから、勇者パーティを名乗る冒険者の一行が、城に攻めてきた時は狼狽えた。子供達を逃がさなければと広間に走る。だが、遅かった。周囲には、屍が山積みだった。
「お前が、嘗て、火の国や風の国、水の国を滅ぼしたという死神か。魔王の手で不老となったという妃か?」
立ち尽くしていた俺に、勇者が剣を突きつけた。勇者の言葉には、間違いはないのかもしれない。だが、俺に実際の歴史を語り、無罪を訴える権利はないだろう。人間を屠る魔王の妃として、ただ何も考えずに日々暮らし、そこに幸せを見いだそうとしていた俺には。
だから小さく頷いた。
「そうだ」
「この聖剣でならば、不死者を屠れる」
「――魔王の首も跳ねたのか?」
「まだ捜索中だ。居場所を吐け。言わないのならば、ここで死ね」
これこそが、終わりなのだと俺は思った。目を伏せ、俺はその時を待った。
だが、いくら経っても、痛みは訪れなかった。不審に思って目を開けると、勇者が困惑したような顔をしていた。
「……その、無抵抗の者を傷つけるのは……お前、魔族なんだよな?」
「……いいから、早く殺してくれ」
「どうして死を願うんだ?」
「それが、俺にとっての最高の幸せだからだ。俺を殺せば、魔王は傷つくそうだぞ。魔王の首を跳ねるより、俺の首を飛ばす方が簡単で良いだろう?」
思わず苦笑してみせると、勇者が息を呑んだ。それから、哀れむように俺を見た。
「見逃しては、やれないんだ。悪い……」
「良いんだ」
答えながら、俺の理性は――魔王が逃亡する時間を稼げるのではないかと考えてもいた。今となっては、俺の心は、もう魔王のものなのだ。
ああ……黒薔薇の刻印が、熱を帯び始めた。魔王は、まだ近くにいるらしい。早く、逃げて欲しい。そう願っていた時、勇者の剣が振りかぶられた。それが、真っ直ぐに降りてきた時、衝撃を感じた。気づくと俺は、突き飛ばされていた。そして俺は見た。胸に勇者の剣を受けている魔王を。
そんな優しさなんて、いらなかった。
勇者までもが、呆然としている。俺がぎこちなく歩み寄ると、魔王が俺を見た。目が合うと、くっと喉で笑われた。そのまま、魔王は息絶えた。
――俺がそばに行くと、みんな死んでしまうのだったか?
――俺には、幸福になる権利など、無いのかもしれない。
「つまり俺には、ハッピーエンドという選択肢は無かったんだな」
悟るのが遅すぎた。
「勇者。俺がこちらの大陸にいる限り、黄泉の国から魔王の魂を呼び戻す事が可能なんだ。だから早く、俺を屠ってくれ」
「――ああ」
魔王の遺体から剣を引き抜き、勇者が俺に向き直った。
俺は覚悟を決めた――はずだった。だが、やっぱり臆病だったらしい。
「!」
俺は気づくと、床に落ちていた槍を拾って、勇者の胸を貫いていた。勇者の口から、鮮血が溢れていく。絶命までは見届けず、そのまま俺は足を引きずって、魔法陣の間へと移動した。そして、人間の国へと逃れた。