【一】幸せな日々






 真っ青な空が広がっている。この村の空は、いつも高い。周囲の木々がそう見せているのかもしれないけれど、僕は外の世界を知らないから、断言は出来ない。白樺の木々の壁が守ってくれるこの街は、エンゼルフォードと言う。

 エンゼルフォードの街の入口で、今日も僕は、師匠の帰りを待っている。

 僕が師匠に拾われたのは十年前、四歳の時だった。

 この街のそばには崖があって、そこに隣国へと通じる街道がある。幼き日の僕は、両親と一緒に馬車に乗って、暗い夜道を進んでいた。家族がなんの仕事をしていたのかは知らないけれど、遺された指輪を見る限り貿易商か何かだったのだと思う。ひとつだけ残された指輪を、僕は鎖でつないで首から下げている。

 あの夜、星がない夜だった。馬車は、盗賊に襲われて、崖から落ちた。

 暗い森の中に横転した馬車から、お母さんが僕を外に逃がしてくれた。必死に茂みの上に降り立った僕が振り返った時、馬車が炎上し、家族も荷物も全て燃えてしまった。両膝をペタンと地面に着いて座り込み、目を見開いて僕はそれをただ見ていることしかできなかった。そんな僕を助けてくれたのが、師匠だ。

「――子供?」

 木々の合間から黒いローブ姿で現れて、僕の隣に立った師匠のことを、今でもよく覚えている。師匠は端正な顔をしていて、切れ長の青い瞳を最初に見た時、僕は天国へ迎えに来た死神だと間違えた。巨大な、血濡鎌(ブラッドサイス)という武器を師匠は愛用している。それがまた、カードに描いてある死神の持ち物ソックリなのだ。

「おいで、もう大丈夫だ」

 師匠はそう言うと、泣いていた僕を抱き上げた。
 そして、このエンゼルフォードの家へと連れてきてくれたのである。
 家族が死んでしまった僕を、引き取ってくれたのだ。

 僕は少しでも恩返しがしたいから、今日も食事を作って師匠を待っている。

 午後一番に、黒苺のタルトを焼いてから、街外れの森の中にある師匠の――師匠と僕の家をでる。そして、街の入口へと向かうのだ。

 街の入口は坂道で、崖の上へと繋がっている。皆、ここを通って近隣の街へと仕事に行く。仕事というのは、『冒険』だ。エンゼルフォードは冒険者の街なのである。師匠も冒険者の一人だ。

「ただいま、レム」

 そんな事を考えていたら、草を踏む音が聞こえて、師匠が帰ってきた。声を聞く前から、僕は足音で、師匠が来たことに気づいていた。顔を上げて、僕は満面の笑顔を浮かべる。師匠を見ると、それだけで笑顔が浮かぶのだ。

「師匠!」

 駆け寄って抱きつくと、師匠が苦笑しながら僕の頭を撫でてくれた。僕は両手で師匠の手を掴み、背の高い師匠を見上げる。師匠の黒い髪が夕陽に染まっていた。

「今日はね、黒苺のタルトなんだ!」
「美味しそうだな。俺はカツオの刺身を買ってきたよ」
「わぁ」

 豪華である。二人で手を繋いで歩き出しながら、僕はお魚を思い浮かべた。刺身は一体どうやって海の中を泳いでいるんだろう? 普通のお魚とは違う種族なんだと思う。

 木立の合間を通り抜けて、石で出来た師匠と僕の家へと帰る。この街は雪が深いのだけれど、この家には師匠の魔術がかかっているから、他の家とは違い屋根は平らで、壁も灰色の煉瓦だ。エンゼルフォードの他の家々は、三角屋根で木造りが圧倒的に多い。

 中へと入り、僕は少しだけ焦げてしまったタルトを取り出した。その横で、手際よく師匠がカツオのお刺身を食べる準備をしていく。白米も、師匠が朝炊いてくれた残りがある。師匠は本当にお料理も上手だ。僕も少しずつ上達しているとは思うのだが。

 二人で食事を取ってから、一緒にお風呂に入った。僕はもう十四歳なんだけど、髪の毛を洗うときに目をつぶると、お化けが出そうで怖いから、師匠にお願いして一緒に入ってもらっているのだ。二人で湯船から出て、その後は、魔術で髪の毛を乾かしてもらう。ふわふわのタオルにくるまって水滴を拭いてから、僕達は一緒に寝台へと行く。そして大きなベッドで、師匠の腕枕で僕は眠るのだ。温かい。

 こうして一日が終わる。次の日の朝は、また師匠が冒険のお仕事へと出かけた。

 だから僕は、家の掃除を頑張ってみる。帰ってきた師匠に褒められたいというのもあるが、何より恩返しがしたいのだ。

「うわ」

 バケツをひっくり返して、僕は転んだ。お尻を床に打ち付けて、涙がこみ上げてくる。水が広がっていく廊下を見て、悲しい気持ちになった。慌てて立ち上がり、バケツを直すが、こぼれた水は戻らない。僕はモップで必死に床の水を拭いた。

 それから、今日も黒苺を積みに行った。師匠が魔術で使うらしくて、庭には沢山の魔導植物が生えている。魔導植物は、魔力を帯びている草花で、お茶にしたりお菓子にしたりできる。そう僕は師匠に教えてもらった。

 黒苺のジャムと、シフォンケーキを僕は作った。味見をしたが、ちょっと焦げていた……。師匠がいないと、魔導竈の操作が、僕にはまだまだ出来ないのだ。僕も大人になったら、師匠のように魔術を使えるようになりたい。

 そして今日も、師匠を迎えに街の入口へと向かう。

 夕焼け空を眺めながら、師匠の足音が響いてくるのを待つのだ。その間に、何人もの冒険者が通り過ぎていった。僕が待っている足音が聞こえたのは、三十分ほどしてからの事だった。

「戻ったぞ、レム」
「師匠!」
「今夜はホッケだ」

 師匠はお魚が好きらしい。僕は師匠に抱きつきながら、海を泳ぐホッケの開きを想像した。いつか僕も絵本で読んだ海に行ってみたいものである。手を繋いで家路につきながら、僕は師匠を見た。サファイアみたいな師匠の瞳が、煌めいている。

「僕は、シフォンケーキと黒苺のジャムを作ったんだよ」
「レムのお菓子作りの腕は上達しているから、俺も楽しみだ」

 優しい微笑で師匠が言う。黒衣の師匠の首元で、茶色い布が揺れていた。




 ――僕は、こんな毎日が、何よりも幸せだった。