【六】
遠足の行き先は、高尾山だった。登山だ。途中からロープウェイがあるとはいえ、なかなかにハードだった。
俺はついて行くのがやっと。侑くんと葉月くんはそんな俺にあわせてくれている。良い友人だ。だが最近俺は思い出してきた。バラ学の世界では、高屋敷誉には取り巻きがいた。特に名前がなかったのだが、この二人は取り巻きの中でも抜きんでている二人にどこか似ているように思えるのだ。高屋敷誉の命令で、他の攻略対象に嫌がらせをしたり、ヒロインを誘導したりするキャラではなかっただろうか。しかも嬉々として嫌がらせを行っていた……いや、間違いだよな。こんなに優しい二人がまさか。
三葉君はと言えば早々にリタイアしてヘリを呼んで、先に行ってしまった。それが許されるのが、この学園らしい。俺もそうしたかったが、侑くんと葉月くんが優しく俺のペースに合わせてくれるので、言い出せなかった。ざわざわと前方から伝わってきた噂では、
存沼と和泉はとっくに到着しているらしい。
俺はもう少し筋トレをした方が良いのかもしれない。体育の家庭教師をつけてもらおうかな……。これ以上勉強するのは嫌だが。どうやら俺は瞬発力はあるが持久力はないらしい。
ただ何とか無事にゴールすると、思いの外気分が良かった。ただし二度と登山なんてしたくない。小学一年生にはハードルが高すぎたと思う。高屋敷家のシェフが作ってくれた豪華なお弁当と周囲の緑は癒しだったが。
その次に俺に待っていたのはフェンシングの試合だった。
結果は――……ベスト4。まぁまぁの結果だろう。
珍しく見に来てくれたのは、父だった。頭を撫でてくれる。
「よく頑張ったね」
父は俺に、母以上に甘い。これならばバラ学世界の高屋敷誉も好き勝手出来るだろう。
勿論そんなことをする気はないが。
俺は目立たぬように生きていく。
それにしても、同性目にも父親は格好いい。
誉そっくりの薄い茶色の髪、目は切れ長で、目尻の皺が落ち着いた雰囲気を醸し出している。一言で言えば、こんな風に老けていきたいと思わせる人物だ。一々優雅で、普段は家で趣味の絵画を描いている。これがまたプロ級で尋常ではなく上手い油絵なのだ。
砂川院兄弟もそうだが、お金持ちは趣味に力を注ぎ込むのかもしれない。時折我が家の家計はどうなっているのか不安になる。他には旅行も趣味らしく、よく海外に行っている。
帰宅して俺は、自室へと向かった。
そこにたどり着くまでの灯りは通るたびに勝手に点く照明だ。スイッチを押すなどという手間は高屋敷家には存在しない。トイレに至っては、俺が前世でよく行った居酒屋のトイレと同じで、勝手にふたが開くのは当然の上、もうなんというかお客様対応が出来てしまう豪華さなのだ。トイレだけで五つ高屋敷には存在する。
俺は部屋に入り、特注の数字入りのタグが付いたテディ・ベアを見据えた後、天蓋付きのベッドに座った。子供部屋だというのに、十畳あるその部屋は、モデルハウスのように、シックな家具と壁紙・床で統一されている。それから俺は、父がお祝いにとくれた、四個入りの高級そうなチョコレートの箱を開けた。まだ日本店は存在しないらしい。
次の俺の行事は、学習発表会だ。(俺の感覚で言う)二学期はこれで最後のイベントだと言って良い。
勿論、学習したことを発表するのではなく、演劇などを行ったり、展示を行ったり、楽器の演奏を行ったりするのだ。
俺のクラスの出し物は、展示に決まったので俺は安堵した。
案の中には、何故なのか俺がヴァイオリンを弾き、クラスメートの沖谷君がピアノを弾き、合唱するというものがあったのだ。勿論沖谷君も俺が知らない登場人物だった。演劇の案では、ロミオとジュリエットで、ロミオ役を俺がやるという怖気が走る案が出た。俺にロミオというか劇なんて無理だ。
なので俺は微笑しながら、「展示なんてどうかな?」と全力で推したのだ。
そうして迎えた当日。最初の客は、意外なことに存沼だった。
「来てやったぞ、誉」
「有難うマキ君」
「星座の展示か」
「ちょうど流星群も来ていたしね」
退屈そうな顔で、存沼は展示されている写真を眺めている。全く。
つまらなそうな顔をするなら来るなと言いたい。それから展示している教室の写真や説明を一通り見た後、存沼が言った。
「俺のクラスは、三時から演劇をする。オイディプスだ」
「知ってるよ。プログラム表を配られたから」
「見に来いよ。当然」
「休憩がその頃取れるか分からないから約束は出来ないよ」
「来い」
「行けたら行くよ」
何せ三時と言えば、一番混雑する時間なのだ。一年生ながらもその時間に舞台を押さえられるというのは、さすが存沼だ。ローズ・クォーツの、その中でも既に存在感が揺るぎないから当然なのかもしれない。先輩達も譲ったらしい……。
存沼は不服そうだったが帰っていった。
ちなみに俺は案内係をしている。案内係は複数いるが、思いの外忙しいのか、俺は引っ張りだこだった。何故なのか俺に案内してもらうというチケットが発売されていた。何故だろう。これも家柄のせいなのだろうか? なお三葉君は来なかった。
それから二時半になると、皆に休憩をとるように促された。
「さ、行きましょう誉様」
侑くんがそう言って時計をチラチラ見ている。
「どこに行く?」
他の展示を回りたいなと思っていると、葉月くんが驚いたような顔をした。
「どこって、存沼様の演劇を見に行くに決まっているじゃないですか! 存沼様が主役なんですよ?」
「そうですよ誉様。それに直々にお誘いいただいたんですから」
なるほど、それでこの時間に休憩なのか。
面倒くさいなと俺は思った。しかも演劇の内容が、とても小学一年生のやるものとは思えない。――だが、大盛況で、これをきっかけに、全校生徒が存沼の迫力に魅了されたようだった。
その後俺は、和泉のクラスの演奏を聴いた。さすがとしか言えなかった。
俺もそれなりに自信があったが、本番に強いのか、この前の発表会以上の音色だった。
学習発表会はそのようにして幕を下ろしたのだった。
本当劇でも演奏でもなくて良かった……。
それからクリスマスまでは、平穏に学園生活は流れていった。
平穏――……なんだろうと思う。
「存沼様のお話、もっと聴かせて下さい」
俺の周囲には、学習発表会以来、同級生から始まり先輩方までが訪れるようになっていた。だが俺には話せることなど特にない。なのに俺は大親友扱いされている。全くの気のせいだ。不服だ。けれどそれは表情には出さず、俺は今日もローズ・クォーツのサロンの中で存沼がピアノを弾いていただの、本当に文字が綺麗だ等とどうでも良い情報を提供し続けている。
「和泉様とも仲が良いんですよね? 和泉様のヴァイオリン、本当に素晴らしくて」
頬を染めながら、今度は和泉のことを尋ねられた。
何故頬を染めるのだ。まぁ分からなくもない。あの音色には俺も魅了されたのだから。
しかしこちらの事だってよく知らないので、曖昧に答えるしかない。
――そして。
「誉様に近づくな!」
「そうです。お二人のお話を口実に、誉様に近づこうとするなんて!」
侑くんと葉月くんが今日も、俺の周囲に出来た人の輪を蹴散らしてくれている。
正直感謝しているが、別に俺に近づいているわけではないだろう。
いや家柄と設定的には、十分にあり得る。
やはりここはバラ学の世界なのではないのかと、こういう時は思ってしまう。
少なくとも前世ではこんな事は全くなかったのだから。一体どうすれば俺は平穏に目立たないように生きていくことが出来るのだろう。
それを模索するのが第一の課題だ。
そのようにしてクリスマスはやってきた。クリスマスにはまた、高屋敷家主催のパーティが開催されることになった。恐らく両親共に時間が有り余っていることと――……存沼家と砂川院家のどちらがパーティを開いて、どちらか一方にしか顔を出さないと、どちらの派閥にも属していない有名な企業や富豪達、良家の人々が困るからなのだろう。その点父は、比較的自由な立場にいるようだ。
俺は子供用スーツのようなものを着せられた。胸元には大きな白いリボンがついている。この日のためのオートクチュールだ。恐らく二度と着ないというのに。
だが招かれている初等部の生徒は皆似たり寄ったりの格好をしていた。
「高屋敷くん」
会場で立っていた俺に最初に声をかけてきたのは、女装しているルイズだった。
金髪のカツラをかぶっているが、本当は黒髪だと俺は知っている。
だが彫りの深い端整な顔立ちをしているから、あまり違和感はない。
「こんばんは、ルイズ」
「招待状を私にも送ってくれて有難う」
「ううん、来てくれて嬉しいよ」
そんなやりとりをしてから分かれると、次に和泉がやってきた。
「なぁ今のさ――……」
「今の?」
「か、カノジョか?」
僅かに赤くなっていて可愛い。和泉はそういうのが気になるお年頃なのだろう。
「違うよ」
「だけど運動会の時も一緒に走ってただろ?」
「和泉と一緒で、僕の大切な友達なんだ」
「そっか」
なんだか安堵したような顔をして、ほっとしたように和泉が吐息した。
確かに運動会では、ルイズは目立っていたような気もする。
そこへ、ノンアルコールのシャンパンを持って三葉くんがやってきた。
「久しぶり、誉君」
「久しぶり。遠足以来だね」
ついに終業式にも来なくなった三葉くんは筋金入りの引きこもりなのだろう。だがやはり、家に直接届いたパーティの招待には、親の言葉もあるのか出席しているようだ。
「元気だった?」
これは純粋に心配だったので聞くと、三葉くんが小さく笑った。こういう笑顔は初めて見た。何せいつも無表情だ。
「三億円儲けたんだ」
……宝くじが当たったわけではないんだろうな。嗚呼。
「元気そうで良かった」
それ以外言葉が見つからなかった。
「――誉」
そこへ声がかかった。存沼だ。このメンバーがそろうのは初めてだ。
残りの一人の五星は、遠くで料理を食べている。まぁ先輩だし、接点はまだ無いからな。
「プレゼントは、高屋敷会長の隣にあるプレゼントボックスに入れておいたからな」
「有難う。そこにみんなに配布するプレゼントがあるから受け取って」
「……何か特別なものはないのか?」
「何言ってんだよお前」
すると和泉が目を細めた。全くその通りだ。何故俺が存沼にだけ特別にプレゼントを用意しなければならないというのか。
「……」
存沼が無言で和泉を睨め付ける。すると周囲の気温が一気に下がって緊迫した気配が満ちあふれた気がした。俺は慣れてきたので眺めていた。和泉も、そんなもの気にしないというように、無表情で、存沼を睨んでいる。一触即発だ。小学生だというのに二人の威
圧感はすごい。
「そういえば、誉君は、サンタさん信じてる?」
そこへ空気を読んでいるのかいないのか、ポツリと三葉くんがそんなことを言った。
「信じているよ。僕に、みんなで仲良くできるクリスマスパーティをプレゼントしてくれたと思ってる。だから、マキ君も和泉も、勿論三葉くんもみんなで、テラスに出て星でも見ない? 展示をしたから、僕ちょっと詳しくなったよ」
俺がそう言って取り繕うと、ほぼ同時に存沼と和泉の目が俺を捉えた。
こうして、なんとかクリスマスパーティを俺は乗り切ったのだった。
冬休みには、習い事の特に五教科と英語の家庭教師の先生による地獄の指導が待っていた。とはいえ、1+1=2くらいなら俺にも楽勝だった。しかしながら、進度が違った……絶対小学生では習わない二次方程式まで算数、いや数学は進んでいる。確かに学園の授業の速度は早いが、いくらなんでもこれは……。前世の知識があって本当に良かった。全ての教科の通常授業の予習復習の他に、みっちりと叩き込まれたのだ。
それから、お花の展示会とお茶の披露も俺はさせられた。お正月だからな。精々書き初めだろうと思っていたのだが、それはなかった。
ほっとしたのは、つきたてのお餅を食べたことくらいだ。そんなものがあるなんて知らなかったが、高級な粒あんで食べた。前世で俺はこしあんの方が好きだったが、あんまりにも美味しくてあっけにとられた。だが残念ながら、納豆をのせたお餅はなかった。食べたいな、納豆もち。最初は、これまでに食べたことがなかった料理ばかりで新鮮だったのだが、最近無性にマックに行きたいと思ったり、コンソメポテチを食べたいと思うのだ。けれど高屋敷家ではそんなものは許されない。自社製品だろうがと言いたくなったが堪えていた。
そんな俺の冬休みだった。