【三十九】遅刻してきたヘルナンド


 僕はクライヴ殿下と共に、テリーヌの並ぶテーブルの前に立った。
 お皿を手渡されたし、何も食べなくては怪訝に思われると考え、口に運んでは見たのだけれど、味がしない。クライヴ殿下は信じてくれるとしても、兄達が述べていた通り、周囲は違う。そしてそれは、クライヴ殿下の評判を落とすという事に他ならない。僕のせいで。

「いやぁ、遅くなりまして」

 その時、笑みを含んだ声がした。聞き覚えのある声に、僕は皿を見たままで目を見開く。思わずテリーヌを口に運ぼうとしていたフォークを取り落としかけたので、慌てて皿の上に載せた。それから恐る恐る顔をあげれば、そこにはヘルナンドと、その伴侶のルーゼフの姿があった。声を聴いただけで、僕の全身は冷えきった。

 すると目が合い、ヘルナンドが僕に気が付いた。思わず僕は顔を背けたが、こちらにヘルナンド達は歩み寄ってきた。

「なんだルイスじゃないか。来ていたのか」

 ニタニタと笑っているヘルナンドに声をかけられる。僕は怯えながら視線を向けた。

「なんだ、まだ首輪をしていないのか。ああ――お前は俺に未練たっぷりだからな、受け取らないのか」

 嘲笑するようにヘルナンドが言った。傍らにいるルーゼフは、黒い革製の首輪に触れながら、僕をまじまじと見ている。それからヘルナンドに腕を絡めて、僕に対して愉悦まみれの表情を浮かべた。

「ルイス、俺に会えて嬉しいだろう? 《笑ってみせろよ》」

 その時吹き出すようにしながら――ヘルナンドが僕に《|命令《コマンド》》を放った。力がこもったその声を耳にした瞬間、僕は呼吸が苦しくなった。懐かしい気配、ああ……ダメだ、Sub dropしてしまう。僕は影に飲まれそうになる。唇が自然と震える。聞きたくない、こんな《命令》。けれど僕の表情が、動きかけている。嫌なのに。嫌だ。

 ――パリン。

 そんな音がしたのは、その時だった。我に返って、僕は息を飲む。
 すると直後、パリンパリンとその場に積まれていた皿が割れ、それは次第に会場中に広がり、シャンパンタワーが砕け散った。アルコールが飛び、窓ガラスも割れ、強い|威圧感《グレア》がその場を支配し、誰もが動けなくなる。ゾクリとしながら、僕はそのグレアを感じる方向を反射的に見た。そこには不機嫌そうに眼を細くしているクライヴ殿下の姿がある。そして放たれているグレアは、まっすぐに、僕達の正面にいるヘルナンドへと向かっているのが分かった。続いてそちらを見れば、ヘルナンドが尻もちをついていて、逃げるかのように、その体勢のまま後ろに下がろうとしていた。ルーゼフは耳を抑えて、ギュッと目を瞑って震えている。水音がし、ヘルナンドの股が濡れていく。床には黄色い尿が水たまりのように広まっていく。ガクガクと震えているヘルナンドは、クライヴ殿下を見上げながら号泣し、声を上げた。

「悪い、悪かった、やめてくれ」

 鼻水でドロドロの顔で、ヘルナンドが泣きながら言う。
 その時クライヴ殿下が僕の腰を抱き寄せて、改めて強いグレアをヘルナンドにぶつけた。ヘルナンドがすくみ上がっている。

「俺の伴侶に二度と話しかけるな」
「は、はい! はい! なんでも聞きます」
「《命令》など論外だ。貴様にはそんな権利はないからな、ヘルナンド卿。いいや、会場中の全員に告げるが、以後、俺の伴侶を侮辱したら、それは俺を敵に回すのと同じことだと心得ろ。俺は決してルイスに手出しする人間を許さない」

 断言したクライヴ殿下のグレアがこもった強い声に、会場中が静まり返っている。
 最後に改めてクライヴ殿下がヘルナンドを睨みつけた。するとグレアが膨れ上がり、その場に残っていたほかの割れ物も全てパリンと音を立てた。壁には亀裂が走っている。

 ヘルナンドが気絶した。ルーゼフはヘルナンドを置き去りにし、逃げるように走り去っていく。呆然としていた僕は、激怒し冷ややかな顔をしているクライヴ殿下を見て、動揺するばかりだ。いつも温厚なクライヴ殿下しか、僕は知らなかったから、冷や汗がだらだらと零れ落ちていく。

「さすがはSランクのDomですね」

 緊張感が途切れたのは、その場にユーデリデ侯爵が歩み寄ってきた時だった。

「悪いな、ザイス卿。堪えきれなかった」
「またいとこのよしみで、気にしないでおきますよ」
「騒がせた詫びに、後程品を贈る。今宵は、俺達は失礼する」

 クライヴ殿下はそう告げると、穏やかなまなざしに戻り、僕を見た。

「行こう、ルイス。帰ろう」

 僕は必死で首を縦に動かし、頷いてみせた。そんな僕の腕をとり、クライヴ殿下が歩き始める。こうして僕達は会場を後にした。