(始)七百七十七日
僕は、待っている。
夜――暦の上では春が訪れたとはいえ、まだ日が落ちるのは、相応に早い。
二年前の三月一日は、僕にとっては忘れられない日となっている。
だから今年も、三月一日が来るのを、僕は心待ちにしていた。そして約束をしたその日、残りの約二十日間を非常に待ち遠しく思ったものである。七百六十六日後――三月十九日の今日、僕は待ち合わせをしている。
果たして、二年前にしたあの約束を、先生は覚えているのだろうか?
僕は、先生が好きだ。
畦浦雪野(あぜうらゆきの)先生は、僕が高等部時代を過ごした、稲崎(いなさき)学院の教員だ。黒い髪をしていて、いつも良い匂いがしていた。優しげな眼差しを精悍な顔立ちに浮かべていて、いつも質の良いスーツを纏っていた事を覚えている。
僕と先生の出会いは、僕が二年生の頃の事だった。十七歳の僕は、新卒で赴任してきた畦浦先生に恋をした。出会った時の先生は、二十三歳で、僕より六歳年上だった。僕は現在十九歳――今年で、二十歳となる。もう、卒業してから二年も経過したのだから。
この二年間が、僕にとっては長くてならなかった。先生に会いたいと何度も願って、先生の事を忘れた日も無くて、頭の中には終始先生ばかりが浮かんできて、僕は自身の恋心を持て余していた。
冷静に考えれば、二年前のあの言葉は、約束なんかじゃなく、断り文句だったのかもしれないとも思う。
二年生の途中に恋をして、そして三年生の一年間、ずっと先生を想い続けた僕は、二年前の高等部の卒業式のあの日――先生に告白した。先生を、この公園に呼び出したのだ。
僕はベンチに座ったままで、空を見上げた。白い月が覗いている。現在は、夜の七時を過ぎた所だ。あの頃は、先生の忙しさに気を回す余裕が無くて、卒業式当日を避けるという発想を僕は持たなかった。いいや、嘘だ。本当は、先生があの日多忙である事を、僕は知っていたけれど、それでもどうしても最後にあの日、気持ちを伝えたいと考えていたのだ。儚く散る片想いだと確信していたのだから――先生は来ないと考えていたのだから。だから予防線を張ったのだ。来なかった時、『きっと先生は卒業式の事後処理で忙しかったんだ』と、己を納得させるために。
しかし先生は、僕が呼び出したこの公園に来てくれた。僕は、当時と変わらない桜の木を一瞥する。既に桜は満開だ。だが、肌寒い。僕は手袋をはめ、薄手の外套を羽織っている。吐いた吐息も、僅かに白く見えた。今宵が、特別寒いのかもしれない。
目を伏せれば、七百六十六日前のあの日の事が、今でも鮮明に甦る。
『杉井』
あの日、公園へとやって来た先生は、最初に僕の名前を呼んだ。杉井涼介(すぎいりょうすけ)が僕の名前だ。午後の六時半を少し過ぎた頃の事だった。今日と同じように僕はベンチに座っていて、ただあの時は制服を着ていた。ハッとして僕は顔を上げた。来ないと確信していた先生が、待ち合わせ時間のほぼ丁度に現れた事に、当時の僕は動揺していた。
『先生……』
『呼び出しの手紙には、次からは名前をきちんと書いておくようにな。字ですぐに分かったが』
『っ』
『それで? 俺に話があるというのは?』
先生は微笑していた。僕はその笑顔に、胸が締め付けられた心地になった事をよく覚えている。あんまりにも先生の笑顔は綺麗で、僕はその表情がどうしようもなく好きだった。慌ててベンチから立ち上がった僕は、正面に立った長身の先生を見上げる形となった。桜が舞っていた。
『その……』
動揺しすぎて、上手く言葉が出てこなかった事を、よく覚えている。本当は、もし来てくれたらと考えて、何度も告白の言葉を考えて、脳裏で反芻していたのだが――結果として、僕の唇は簡潔な言葉を紡いだ。
『好きです』
そのたった一言を述べるだけでも、当時の僕の体は震えてしまった。だが、想いをもう一人で抱えるのは辛すぎた。頬が酷く熱くて、泣きそうだった事もまた、僕は覚えている。
すると先生は、僕の頭を撫でるように叩いた。そして、僕に言った。
『俺は、ベータだぞ?』
『……関係無いです』
僕は、オメガである。
元々僕が通っていた稲崎学院は、特別なオメガが通う、オメガ専用の学院だった。特別というのは――端的に言えば、良家の子息となる。良家というのは、遺伝的に優秀なアルファを産みやすいオメガの家柄であるという事だ。
この世界には、男女という二つの性別の他に、アルファ・ベータ・オメガという性差が存在する。アルファは、優秀な人材が多い。そして基本的にアルファの子は、オメガしか産む事は出来無い。オメガの価値は、『アルファの子供を産む事である』とまで言われる事もある。しかしアルファやオメガの間にも個体差があり、『より優秀なアルファを産む事が出来るのは、古より連綿と続く良家のオメガである』とされている。それは、良家のオメガとの間には、特別に優秀なアルファとの縁組が多いから……『アルファの側が優秀だったからである』という反論もあるが、兎角、世間の風潮では、そういう事になっている。
僕の生まれた杉井家も、数多くのアルファとオメガを輩出してきた。『杉井家出自のオメガが生んだアルファは殊のほか優秀である事が多い』と囁かれている。よって杉井家に生を受けたオメガは、非常に優秀なアルファを産むだけではなく、オメガを身ごもった場合であっても価値が有る――そう認識されている。
こういった、僕の杉井の家のような家柄は、この国にいくつか存在している。それらが良家だ。そこに生まれたオメガを集め、教育しているのが、稲崎学院である。そこでオメガは大切に大切に育てられる。万が一にでも、在学中に、身元の知れないアルファと関係を持つ事が無いようにと、送迎は全て各家の車かバスで行われているし、教職員は全てベータだ。だから先生がベータだという事に、僕は疑問を抱いた事はない。
ベータは、アルファの子もオメガの子も、産む事も出来なければ、孕ませる事も出来ない。しかしそれが、普通だ。大多数の人間は、男女の間でしか子はなせない。そして多くの人間は、基本的にベータだ。ベータが一般的な人間である。同性間であっても異性間であっても子をなす事が出来る、そんなアルファとオメガが特殊なのである。
特に良家のオメガでなければ……『オメガは発情期が来る』、『その上アルファをフェロモンで惑わす卑しい存在だ』として、ベータには毛嫌いされている場合まである。その点、稲崎学院で大切に育てられた僕のようなオメガは、幸運なのだとは分かっている。
僕は、繰り返すが、オメガだ。将来は、アルファの子供を産む事を切望されている。そして基本的に、ベータとオメガが関係を持つ事は、滅多に無い。オメガに許されている自由は、アルファとの結婚だけだ。それも見合いが多く、恋愛が出来たらそれは、非常に奇跡的な事なのだという。世の中には、アルファとオメガの間には、運命の番がいるという伝承もあるが、オメガはうなじをアルファに噛まれればその時点で番とされてしまうため、真偽は定かではない。
ベータである先生と、オメガである僕は、結ばれる事が、本来は無いのだ。だが、僕は先生が好きでならない。
『それでも僕は、先生の事が好きです』
僕は小声で続けた。本当は強く断言したつもりだったのだが、気づけば泣きそうな声になってしまっていた事を、強く記憶している。するとそんな僕を見て、先生が、再び優しい顔で笑った。
『杉井』
『はい……』
『二年経っても、その気持ちが変わらなかったら、もう一度俺に告白してくれ』
『……え?』
『いいや、二年後は卒業式の日取りだから、また今日と同じように忙しいな。そうだな――じゃあ卒業式が行われる三月一日の、次の次の週末、土曜日の夜にでも』
『二年……? どうしてですか?』
僕は先生の言葉に首を傾げた。畦浦先生は、そんな僕の頭をポンポンと叩くと、微苦笑した。
『二十歳になるだろう?』
『僕の誕生日は、その……』
『六月六日だったな。覚えてる』
先生はそう言うと小さく吹き出した。僕は、目を丸くした。先生が僕の誕生日を覚えていてくれた事が、信じられなくて、嬉しくて仕方が無かった。
『俺が話しているのは、その年には、お前が二十歳になるという意味合いだ。成人年齢は十八歳でも、俺は教師であり、お前は未成年だ。今すぐに真摯に答える事は出来ない。分かってくれ』
『先生……』
『それに杉井は、まだ若い。これから距離を置いたら、気持ちが変わる事もあるかもしれない。違うか?』
『違います。僕は先生が好きです』
『普段の物分りが良い杉井はどこへ行ったんだ?』
クスクスと先生が笑った。僕は恥ずかしくなって俯き、ギュッと目を閉じた。
『だから、な。お前がきちんと二年後もまだ、俺の事が好きだったのならば、もう一度告白をしてくれ。そうしたら、俺はきちんと考えると約束をする』
『本当に……?』
『ああ。約束だ』
この日先生が『約束』と確かに言ったから、僕は断り文句では無いのだと信じる事にして、自分の中でも――今日、三月十九日を、約束の日だと考える事に決めたのである。
先生が言った通り、二年間という歳月は偉大で、恐らく僕は少しだけ大人になった。それでも先生への想いは変わらない。
僕は現在大学生となって、教育学部に通っている。
大多数の稲崎学院を卒業したオメガは、進学などしない。学院を卒業したら、すぐに許婚と結婚したり、お見合いをしたり、子供を育てる道に進む事が多い。特に良家のオメガには、大学での更なる高等教育は不要という風潮がある。それでも僕は、教員になりたかったから、進学を希望した。僕は先生の事を恋愛対象としても愛しているが、それだけではなく、先生のような教師になりたいという気持ちもあったのだ。稲崎学院の教職員は基本的には皆ベータだが、過去にはオメガが就職した例もある。僕は教員となって、母校に戻りたい。それは、どこかでは、畦浦先生と共にいたいからでもあるのだから浅ましいだろうが……もしも夢が叶うならば、僕は、僕と同じようにオメガである学院の生徒と関わる仕事がしたいと感じている。僕が嘗て先生に救われたように、誰かの力になる事が出来たのならばと、強く考えている。
オメガの進学は大変で、現在の僕の周囲には、アルファもベータも、一般的な出自のオメガもいる。だから生家の家族には、進学を大反対された。最終的には、SPを付ける事で、何とかアルファである父が許可を出してくれた。
SPは、僕が幼い頃からそばにいる。今も、公園の入口で待っている。二年前もそうだった。SPの、要勇吾(かなめゆうご)は、僕の唯一の応援者だ。僕が先生を好きだと知っている。僕が先生と会いたいから、公園でどうか二人きりの時間を作って欲しいと懇願したら、悩んだ末に、了承してくれた。要は杉井家のSPを代々輩出する家柄の人間で、僕と同じ歳だ。結果として、要が僕と同じ大学へと進学する事になってしまったのは、僕のせいだろう。僕の気持ちは、周囲に迷惑をかけている。それでも僕は先生が好きなのだ。
要と僕は、幼稚舎から中等部までは、他の私立の付属校へと通っていた。しかし僕がオメガだと判明した中等部の性差検査以後は、通信制の高校へと要は進学し、現在大学では、僕と全て同じ講義を取っている。護衛のためだ。僕は、要の優しさに甘えてばかりいる。
――腕時計の秒針の音が、いやに耳につく。
僕は何度も腕時計を見た。時間の約束はしていない。僕は、午後四時から、本日はずっと先生を待っている。あと少し、もう少し、そう考えながら、時計と空を交互に見ている。
やはり、先生の言葉は、約束ではなく、断り文句だったのかもしれない。だが、それでも良い。単純に、僕が待ちたいだけなのだ。僕は瞼を伏せて、嘆息した。
その時――足音がした。僕はハッとして、目を見開く。俯いたままで二度瞬きをし、一気に緊張した体を何とか制御しようと、唾液を嚥下した。靴の音が、僕に向かって近づいて来る。顔を上げるのが、酷く怖い。先生では、無かったら……? 期待と、落胆する事への不安が、僕の胸中で交錯する。
僕は……――意を決して、顔を上げる事にした。