(一)色褪せている日常







 窓際の、一番後ろの机。それが、僕の席だ。
 稲崎学院高等部二年一組。それが、僕の所属だ。

 そう――それが、僕だ。

 稲崎学院は、良家の子息であるオメガが通う、専門の学院だ。一学年に四クラスあるのだが、その全ての生徒はオメガである。それもただのオメガではない。名門と呼ばれるような家柄、あるいは片親が非常に優れたアルファ、そんな良家の子息のオメガが集っている。男子校だ。

 オメガだと判明するのは、中等部の頃に全国一斉で行われる、性差検査の時である。それまでの間の僕は、別の私立校に通っていた。幼稚舎から中等部まで通ったそちらでは、常に、僕のSPである要と一緒に過ごしていたため、この稲崎学院に進学した当初は、大層心細かった事を覚えている。

 性差検査の結果、僕はオメガだった。尤も、驚きは少なかった。僕が生を受けた杉井家では、ベータが生まれた例は無い。僕は、アルファかオメガだと、生まれた時から周囲に考えられていたし、僕自身にもそのように周囲は言い聞かせてきた。

『涼介ほど優秀ならば、アルファかもしれないな』

 父は幼少時は、特にこのように言った。だが、同時に、時折考えるような顔もしていた。

『ただ、涼介は、静樹(しずき)によく似ているから、オメガかもしれない。そうであっても、杉井の家の血を引くオメガだ。何も困難は無い』

 静樹というのは、亡くなった僕の、産みの父だ。オメガだった。

 僕の生まれた杉井家は、少し特殊だ。一般的に、オメガはアルファに嫁いだ後、アルファを産む事を期待される。ベータやオメガが生まれた場合、離縁される事すらあるのだと聞く。

 しかし平安時代から続いている古い我が家では、ベータが生まれた事は一度も無い。代わりに、オメガが生まれる割合が、他の家系よりも僅かに多いのだという。これは国の研究機関の調査でも明らかになっている事柄だ。絹賀崎(きぬがさき)製薬等も協力して研究している。


 国家的な研究対象にされている指定された血統の一つが、杉井家だ。そして杉井家に生まれたオメガは、必ずアルファを儲ける。一人目の子供がアルファで無かった事は一度も無い。オメガが生まれるのは第二子以後だ。これにも例外は今の所確認されていない。僕の兄も、アルファだ。

 それだけではない。杉井家のオメガが孕んだアルファは、アルファ間で見ても、非常に優秀な成績を残す場合が多いのだとされている。頭脳明晰、眉目秀麗、実力がある――そんなアルファの集まりの中にあっても、杉井家の血を引くアルファは、様々な分野で必ず成績を残している。僕の兄は現在、父の会社の一つを既に任せられている。

 よって杉井の家は、歴代当主の中には、オメガが存在した時代まであるほどだ。現在はアルファである父が当主を務めているが、産みの父もまた杉井家の血筋の名家出自だった。僕の両親は従兄弟同士だったのである。本家と分家だった。僕と兄は、杉井の血筋のサラブレッドであると言える。

 なお僕には、弟もいる。先日、中等部の性差検査でアルファだと判明した、異母弟だ。僕の産みの父の死後、後妻として迎えられた現在の僕の新しい家族もまた、杉井家の血を引いている。別の分家の出身のオメガだ。僕は、彰(あきら)さんと呼んでいる。なお、当主である父の名は、鴻一郎(こういちろう)だ。兄は、海都(かいと)。杉井家では、本家の人間の名前には、サンズイの漢字が用いられる決まりだ。弟は、湊(みなと)と言う。昔から、杉井家は、格式を重んじる家柄だった。名家と周囲からは言われている。しかし僕には、これが自然であったから、実感はあまり無い。

 では――杉井家出自のオメガで無ければ、困難があるのか?

 僕は幼少時は、その事が分からなかった。だが、今では報道などを見て、よく理解している。杉井家をはじめとした、稲崎学院に通うような、一部の良家のオメガを除いては、この世界ではオメガは非常に生きにくい。

 まず、発情期が定期的に訪れるため、常に抑制剤を服用しなければならない。不用意に発情して、国を、世界を、牽引しているアルファを惑わしてはならないからだ。発情したオメガのフェロモンに、アルファは抗えないらしい。そして一度発情してしまえば、オメガは理性を失い、ただアルファを求める生き物と変わる。もしそんな時、アヤマチが起きれば、例えそこに同意がなくとも、罰せられるのはオメガとなる。オメガは、世間一般的には、兎に角『下等』とされている。獣のような本能が残っている、劣等種だと考えられている。その点、人類の進化の最先端の存在が、アルファであるそうだ。

 アルファの権力は、非常に強い。そして、オメガの権利は本当に少ない。例えば未発情であっても、オメガはアルファにうなじを噛まれると、番とされ、強制的に発情させられてしまう。一度番となれば、発情期が来なくなる代わりに、もうそのアルファに抱かれる以外では、解放感を味わえなくなる。そういう身体なのだ。

 この時、アルファによる無理な強姦と番化であったとしても、アルファは罰せられない。無防備であるオメガが悪いという事になる。そう、世間では決まっている。アルファを誘惑したとして、処罰をされるのはオメガだ。

 とはいえ、これは三流のアルファの話だ。アルファとは、人格者である事も多い。性犯罪を無理に起こすようなアルファは滅多にいない――人柄も含めて素晴らしい存在こそが、アルファであるとされている。

 ――これは稲崎学院に限らずであるが、オメガは、自衛としてうなじを噛まれないようにネックガードをしている事が多い。アルファ間の中で見れば『優秀でない(性犯罪を発情関連以外でも起こす)』例外的なアルファから、身を守るためだ。当然僕もしている。結果として――首元が露出している服を着ていれば、番がいない限り、オメガはネックガードによって、オメガだと周囲から判別される事となる。番がいる場合であっても、うなじの噛み傷を見られれば、一発で露見するのかもしれないが。

 他にも体格差などもあって、こちらには個体差があるが、オメガは、アルファやベータとは異なり、筋肉がつきにくい。全体的に痩身である事が多い。差異が明確に確認されないのはIQだが、それすらも発情状態となれば、オメガは何も考えられなくなってしまうため、世間の風潮では『オメガはモノを考えられなくなる獣と同じ卑しい存在』だと囁かれているようだ。

 世間を構築しているのは、圧倒的多数のベータだ。ベータ達は、オメガという存在を見下す場合が多い。世界は、社会は、アルファを頂点に、次いでベータ、最下層にオメガというヒエラルキーで完結している。

 その理が違うのは、稲崎学院に関わるような、例外的なオメガだけだ。優秀なアルファを産む事が可能なごくひと握りのオメガだけは、国からも丁重に扱われている。ベータ達にも一目置かれるどころか――オメガ側が庶民であるベータを見下している事も多い。

 家柄によって、特別な価値観が存在するのだ。

 優秀なアルファ・一般的なアルファ・良家のオメガ・ベータ・一般的なオメガというくくりがあるわけだ。場合によっては、一般的なアルファよりも、良家出自のオメガの方が強い影響力を持つ事もある。優秀なアルファを産む存在、産んだ存在であるからだ。

 なお――稲崎学院には、更に別の価値観も存在する。

 それは、スクールカーストと呼んでも良いだろう。

 オメガの家格等により、どのクラス内部にも派閥があるのだ。

 将来的に、優秀なアルファと番になる事が決定しているような家柄のオメガが、強い影響力を持ち、人気者となる。例えば、この二年一組で言うならば、それは、浅香(あさか)だ。家柄ごとに一組を筆頭に四組までクラス分けされているため、学院内でも特に良家の者ばかりのこの二年一組のクラスにおいて、最も影響力を持っているのは、浅香である。


 浅香家は、杉井家よりは、少し家格が劣る。だが、やはり僕の家と同じように、国から指定をされている――特別なオメガを輩出する名家だ。

 僕は、人とつるむのがあまり好きではない。だから浅香の派閥に僕が入る事は無い。しかし僕以外のオメガの多くは、浅香の派閥に入っている。入らなければ、酷いイジメを受けるからだ。

 僕が現在、イジメを受けずに生活していられるのは、単純に杉井家の方が、浅香家よりも家格が高く、歴史が長いからに過ぎない。そうでなければ、僕の机にも毎日白いユリが飾られ、酷い落書きが行われ、靴は水浸しになっていた事だろう。

 浅香の派閥に入っていないか、入っていたが浅香の気に障ったか、入れなかった者は、皆、陰湿なイジメを受けている。

 僕だけが、無事だ。

 無事ではあるが、僕は一人ぼっちである。

 杉井の生まれだからという理由で無視される事もなく、僕は平穏であるが、かといって誰かと親しくなる事も出来無い。

 そんな学院生活は、酷く平坦だ。

 現在は放課後。僕はイヤホンをして、自分の席で教科書を机から取り出している。窓の外の空は青い。白い雲が流れていく。

 教室の前方の席では、浅香とその取り巻きが楽しそうに話をしている。一見すれば楽しそうであるが、イヤホンを外せば、そこに広がるのは悪夢だ。それが、この二年目までに知った、日常だ。彼らは次に誰に対するイジメをどうするか話し合っているのだ。

 それを知っているのに僕には、それを阻止する力も無い。それは自分がいじめられるのが怖いからでは無い。僕自身が直接的に、いじめられる事は今の所、無いのだ。確かに浅香にライバル視される事はある。だが、浅香は家柄を気にしているのか、僕には直接的に手出し出来無いらしく、実害は無い。だから、いじめが怖いわけではない。違うのだ。

 ――僕が助けると、イジメが悪化するからだ。

 僕は、この学院に入学した当初は、普通に隣席の生徒と話をする努力をしていた。SPの要と離れて一人の学院生活が不安だった事もあるが、友達が欲しかった。

 結果、僕と話をした人間が、浅香からイジメを受けるようになった。すぐに皆、それに気がつき、誰もが僕とは距離を置くようになった。僕に直接手出しをする代わりに、浅香は僕と親しくなった生徒を攻撃する。そして僕には、そうなった時、友人を守る力が無い。僕は無力だ。そう思い知ったのは、最初に仲良くなった隣席の友人が、退学した時の事だった。だから僕には、友達が一人もいない。

 現在、僕に関わればイジメはより悪化すると誰もが知っているから、いじめられている人間は、尚更僕と話そうとはしない。結果として、僕に話しかけてくるのは、浅香本人と、浅香と常にともにいる取り巻き数人だけとなった。その会話時に、投げかけられる言葉は、イヤミばかりだ。

 あるいは、これすらもまた、ある種のイジメとしても良いのだろうか。

 僕もまた、直接的に攻撃されていないだけで、等しくいじめられているのかもしれない。僕以外の他者に迷惑をかけるという、最悪な形で。ともかく、僕がスクールカーストの最下層にいる事は疑えない。家柄が一見良いだけで、僕は孤立しているのだから。家柄のおかげで、最下層にいるようには、あまり見えないだけなのだろう。

 世界が、色褪せてしまった感覚だ。非常に日々が、退屈でならない。陰鬱な毎日が、校門をくぐる度に、僕を待ち受けている。だから僕は何も聞きたくはないし、放課後は早く帰る事に決めている。何も聞きたくは無いから、イヤホンが僕の標準装備だ。

 僕は、鞄を持って立ち上がった。教室の後ろの扉から外へと出ると、担任の野崎(のざき)先生が僕を見た。慌ててイヤホンを取って会釈をすると、先生は微笑した。

 稲崎学院の教職員は、オメガの発情に当てられないように、ベータか、特例で良家のオメガが就職すると定められている。発情期抑制剤を摂取していても、稀に突発的にオメガは発情してしまう事がある。そんな時に、教職員がオメガである生徒を傷つける事が無いように――商品価値を落とす事が無いようにという配慮だ。だから稲崎学院には、アルファが一人もいない。

 なお、この学院の中においては、将来的に立場が約束されているオメガの生徒達の方が、教職員であるベータよりも影響力が強い場合すらある。現に野崎先生は、浅香からイジメを受けている。先生方にも、例外はなく、浅香の気に障れば、そこに待ち受けているのは地獄だ。

 ちなみにオメガの教職員というのは、良家の出であっても、アルファを産む事が出来ず離縁されたオメガ等が時折、仕事に就くという事らしいが、僕は見た事が無い。滅多に無い事であるらしい。ちなみに率先して仕事に就く良家のオメガに至っては、数十年に一人いるかいないかであるのだという。

 先生と分かれてから、僕は再びイヤホンをつけた。

 どうせ、就職など、僕には関係のない事だ。僕はきっと今後、この学院を卒業したら、どこかのアルファとお見合いをさせられて、結婚させられ、子供を産む事にのみ価値を見出されて、そうして生きていく事となるのだから――働く事も無いはずだ。ただ、僕は勉強が好きだから……たまにアルファだったら良かったのにと考える事がある。アルファであれば、請われて勉強・進学ができ、請われて就職も出来る。

 子供を産む事のみに価値が有るオメガは、学院内でも、あまり勉強には精を出さない。卒業後も結婚するまでの間は、家事手伝いとして過ごす事が一般的だ。より優秀なアルファが結婚相手となるように、自分磨きをする事こそが命題とされ、学ぶのは礼儀作法や語学、教養となる。僕にも、何人もの家庭教師がついている。多くの日、帰宅してからは、家庭教師から、ピアノやヴァイオリン、様々な語学や、茶華道と言った芸能を学んでいる。杉井家ではアルファでもオメガでも家庭教師がつくのではあるが、性差検査でオメガだと判別されてから、それらの習い事・稽古事は激しさを増している。

 ただ、家庭教師がいるだけ、マシで、稲崎学院だって通えるだけでも十分な待遇である事は間違いない。良家以外のオメガは、そもそも高校受験で落とされる事も多いからだ。オメガであるというだけで、進路の幅は極端に狭まる。

 生徒玄関で靴を履き外へと出ると、校門の所に、SPの要が立っていた。要は月に一度のスクリーニング以外は、自宅学習となる通信制高校に籍がある。僕の護衛をするために決まった進路だ。要はベータだ。要家は杉井家に代々仕えてくれている。僕が授業を受けている間は、このようにして、校門の外で待機している。

「おかえりなさいませ、涼介様」
「うん」

 僕の鞄を受け取った要は、駐車場の方角を見た。学院のバスもあるが、一組の生徒はほぼ全員が、自宅の車が迎えに来る。そのための、専用の駐車場が、学院のすぐそばにある。僕の姿を見て要が運転手に連絡をするのはいつもの事で、要と合流してからすぐに、杉井家の車がすぐに目の前へと現れた。要が開けてくれた扉から、僕は後部座席へと乗り込む。運転手の、佐々木(ささき)さんは、僕が物心つく前から、杉井家に仕えてくれている運転手の一人だ。他にも父専属の運転手等が、杉井家にはいる。要が助手席に乗り込むと、すぐに車が発進した。

 なお――野崎先生が、学期途中の退職を申し出たのは、この翌日の事だった。