(二)新しい担任の先生
「本当、あの気持ち悪い野崎がいなくなってせいせいした。絶対に僕の事、いやらしい目で見てたしさぁ」
浅香が嘆くように目を伏せて、手を広げた。しかし口元は笑っているし、気分が非常に良さそうだ。周囲の取り巻き達は、皆が浅香に同意し、野崎先生の悪口を述べている。
途中で担任の先生が変わるのは、一学年時から見て、これで五度目となる。学院内全体で見ても、浅香は酷い。浅香の派閥は大きく、そして、陰湿だ。もうすぐSHRが始まるから、イヤホンをするわけにもいかず、僕は入ってくる嫌な話題を極力耳にしないよう努めながら、窓の外を眺めていた。本日も青空だ。今週いっぱいは、晴れが続くらしい。
現在は、夏休みだ。夏期講習での登校中である。僕達の担任の先生が正式に変わるのは、新学期になってからだ。稲崎学院は三学期制で、夏休みがあけると、二学期が来る。
家柄別のクラス分けであるから、僕は一年時も、そして来年も、浅香と同じクラスだと決まっている。本来であれば、三年間は同じ担任の先生となるはずだったらしい。
クラスは進学先などで別れる事は無い。そもそもオメガは進学しないという前提だからだ。今回の夏期講習でも、行われている授業の内容は非常に明快である。アルファとの婚姻についてが主題だ。
その時、チャイムの音が鳴った。野崎先生の代理で臨時的に本日は、教頭先生が授業を担当するらしい。一応浅香達も、扉が開いたのを確認すると、席に着いた。
「それでは、授業を始める」
教頭先生がそう言ってから、夏期講習が始まった。
「良いか? 君達は、将来、『いかにして優秀なアルファの元に嫁ぐか』が、重要な課題となってくる。この学院においては、徹底的にそれを学び、更には、『結婚後に、いかにして良き伴侶になるか』も同時に学んでいく事となる」
夏期講習が始まってから、もう何度も僕は、同じ言葉を耳にしていた。それは野崎先生の口からの事もあれば、特別講師として招かれた卒業生のオメガの口からでもあったし、本日のように教頭先生の口からという事もあれば、全校集会で校長先生から聞いた事でもある。一年時から、変わらない内容だ。
「そのために、この稲崎の学び舎で、互を高め合うように」
その後も教頭先生の言葉は続いていく。いかにして、優秀なアルファに選ばれるか・選ばせるかに話がシフトしていく。
これは、僕が好きな勉強では無い。
僕が好きな勉強とは、国数英理社というような、一般的な勉強だ。
稲崎学院にも、義務教育を超えた高校教育は一部導入されているが、他の普通科高校のような一般的な授業はほとんどない。大学進学するオメガなど、十年に一人、いるかいないか、といった所であるそうだ。
代わりに学ぶのは、良家のオメガとしての在り方や教養である。僕達は、店に並ぶ商品と同じように、卒業後は、アルファに品定めされる事となる。在学中に見初められて中退する者もいるし、許婚が既にいる生徒も多い。だが一組のオメガの場合は、アルファに請われて、『嫁いであげる』という場合も多いため――今後、どのようにしてアルファを射止めるかに夏期講習の主題が置かれている事が多い。
皆、真剣な顔で教頭先生の話を聞いている。僕には、退屈な話題だ。恐らく僕だって、卒業後はどこかのアルファと結婚するのだろうが、僕はまだ自分が結婚している姿など思い描けないでいる。僕は一度も恋をした事すらない。だから、誰かに恋をする日が来るのか、恋をせずとも、結婚相手に少しでも好意を抱けるようになるのかすら分からない。恐らく、恋愛結婚をする事は無いだろう。この学院のオメガは皆、恋愛よりも、アルファの優秀さや家柄、富裕度を重視している。恋など介在する余地はないかのような素振りだ。それが、普通なのだ。
その後も、教頭先生の話は、終始、結婚観についてだった。時間が流れていく。
この日の夏期講習の内容は、ほぼ全て、どのようにして『アルファの心を射止めるか』についてだった。僕は時折シャープペンをくるりと回してメモこそ取ったが、興味が惹かれなかった。単純に、休み明けのテストに出るんだろうなと思った箇所をメモして終わった。
夏期講習終了後、僕は校庭に出た。横切って、正門を目指す。要の姿を視界に捉えてから、僕は空を見上げた。忌々しいほどの夏の青空、暑さ。なのに灰色に見える気がしてならない。心は、乾いている。干からびているようだ。だがそれも、暑さからではない。無気力で僕は、ただ静かに歩く。
こうして帰宅すると、玄関まで、彰さんと父の声が響いてきた。
『まだ涼介さんの、許婚の候補者が見つからないのですか!?』
『まぁ、そう言うな』
『鴻一郎様は、涼介さんに甘すぎます。涼介さんは、オメガなのですよ? 一刻も早く、相応のアルファとの縁談を見つけなければなりません。それが、杉井家の決まりです』
『卒業してからでも遅くはないだろう』
『より良い条件の方がいるのであれば、遅すぎます。なるべく早い方が良いに決まっています!!』
彰さんが父を責め立てていた。父は億劫そうに対処している。
現在、我が家で繰り広げられるのは、この話題ばかりだ。学院と同じようなものだ。
一つは、彰さんもまた、杉井家の血を引くから、同じ杉井家のオメガとして、学んできた価値観があり、それを基準に進言しているのだろう。そう、僕は判断している。だが、彰さんが僕の結婚を急かすのは、それだけが理由ではないと、同時に僕は感じている。
僕は産みの父に、外見がそっくりらしい。彰さんは、僕を見ると、いつも忌々しそうな目に変わる。
本当に運命の番という関係が存在するのかは不明だが、父・鴻一郎は今でも言うのだ。
自分の運命の番は、静樹だったのだ、と。
彰さんの前でも、その点だけは決して譲らない。僕の産みの父を喪失した結果、もう何もかもがどうでもよくなったとして、早々に、会社の経営自体も兄に任せようとしているのが分かる。彰さんはその点も気に入らないらしい。弟の湊にも、彰さんとしては会社を担って欲しいようだ。
彰さんは、決して悪い人ではない。ただ、父に心からは愛されず、湊の将来も不安定であるという現状が、辛いのだろうと思う。父は僕には優しいが、湊に対しては興味がなさそうにしている。僕は、父の方が悪い人間だと感じる事もある。
しかし嘘か誠か、運命の番を喪失すると、生涯に渡り満たされなくなるらしい。僕にその真偽は不明だが、運命の番は特別なのだという。激情に支配されるらしい。一目で惹きつけられるという噂だ。仮にそんな恋があるのだとすれば、一度くらい僕も経験してみたいものである。だが、オメガの僕には、そもそも根本的に自由恋愛をする未来は無いと考えられる。
僕が居室の扉に手をかけると、ハッとした様子で彰さんが言葉を止めた。父が溜息をついた気配もする。
「ただいま帰りました」
わざとゆっくり、音を立てて扉を開けてから、僕はそう述べた。すると彰さんは最初僕を睨めつけた。だがそれから、軽く首を振った後、笑顔を浮かべた。彰さんが僕を嫌いなのは明らかだったが、そうであっても彼は、少なくとも対面している時、僕に優しくしようとしてくれる。彰さんは心なしか強ばった顔で笑いながら、僕に言う。
「おかえりなさい、涼介さん」
「早かったな、涼介」
父は、僕を見ると満面の笑みになった。僕を前にすると、静樹父さんの事を思い出して、少しだけ癒されるらしい。確かに写真の中にある産みの父と僕は瓜二つだ。
その後、湊が部活から帰ってきてから、我が家では夕食となった。シェフが作ってくれた食事の皿を僕は見る。僕と彰さんの皿は、小さい。オメガである僕達は、アルファに比べると元々食が細いのだ。
――食べ物に困らないオメガの方が、世間では数が少ないらしく、贅沢らしいと僕は知っている。多くのオメガは、オメガに生まれたというだけで、貧困層になるからだ。定職に就ける事も少なく、一般的にはアルファの性処理要員として、風俗で働く事が多いらしい。
そうならない未来を生まれながらに保証されているのだから、杉井家に生まれたオメガは幸せなのだと、僕は性差検査後から、周囲に言われ続けている。
果たして、そうなのだろうか。
富裕度が違うだけで、アルファに体を売り渡すという――やる事は、同じなのではないかと僕は思う。兎に角家柄が良いアルファ、裕福なアルファ、秀でたアルファに請われて嫁ぎ、アルファという後継者を産む代わりに、伴侶として養われる存在となる事――それが、僕に求められている事柄であるわけだが、それは、風俗で働く一般的なオメガと、やる事自体は、そこまで違いが無いと、僕には思える。抱かれ、子を産む。これだけが、価値となる存在が、オメガだ。子を産まない分、職業的に性処理をする方が、不特定多数の相手をしなければならないから、大変かもしれないが。
そんな事を日々考えながら、僕は家にも居場所が無いと感じていた。
僕の家族の関係は、破綻していて崩壊の一歩手前だ。
後妻と末息子に興味の無い父。父の愛を欲するが得られず、たった一人の生んだ子供を溺愛する彰さん。どこか諦観している様子で、冷ややかな顔で帰ってくる湊。
ちなみに兄は、そもそも父の再婚を許さなかった。会社関連で以外、今も父と会話をする事はなく、彰さんとは口を一切きかず、湊とも話をしない。杉井家からも完全に距離を取っている。兄は一人暮らしをしていて、僕とだけ、たまにトークアプリで連絡を取る程度だ。
部屋に戻った僕は、絹賀崎製薬が販売している、発情期抑制剤を見た。毎日夕食後、必ず一錠服用している。絹賀崎製薬のこの商品が、国内で販売されている唯一の発情期抑制剤だ。
世界的にも、絹賀崎製薬のこの商品が用いられていると聞いた事がある。オメガ研究の最先端企業が、絹賀崎製薬だ。旧財閥の流れを汲むという大企業で、この国で絹賀崎の名を知らない人間は、誰もいないだろう。大きな製薬会社で、難病の薬などもいくつも開発している。
他にも、アルファ用のラット抑制剤も販売している。
そちらを服用すれば、オメガの、発情(ヒート)に遭遇しても、ある程度、アルファも発情(ラツト)を抑えられるらしい。
人格者である高貴なアルファは、皆服用しているとも聞く。ただし高価であるため、まだまだメジャーでは無いそうだ。
僕は思う。オメガが発情期抑制剤とネックガードで自衛をするだけではなく、もっとアルファもこうした薬を服用してくれれば良いのに、と。
僕の父の会社も、絹賀崎製薬とは取引があると聞いた事がある。僕の父の会社は、食品関係だ。戦前から、調味料を作っている。国内では、冷蔵庫を開ければ、我が家の会社の商品が出てくるらしい。しかし滑稽な話だが、それらは杉井家では使用されない。杉井家の調味料は、シェフが選び抜いた特別な品ばかりであり、一般的な家庭に普及している品とは異なるのだ。栄養食品関連の兄が現在引き受けている関連企業が、絹賀崎製薬と共同開発したサプリ等があるようで、そちらは父も愛用しているが。
最近ニュースで、絹賀崎製薬が、『運命の番研究を始めた』と、僕は目にした。『番』は、遺伝的に決定されているのか――それを、調査・研究しているらしい。
もしこの研究の結果が出たら、稲崎学院に通うような良家のオメガ達は困る事態となるだろう。今は、うなじを噛まれて番にさえなれば良いが、もし仮に本当に、運命の番なんていうものが存在するとすれば、その相手が、どんな相手となるか、今以上に分からなくなってしまうからだ。
相手が家柄を保証されたアルファとは限らなくなる。
しかし僕は、もし運命的な恋愛が出来るのならば、その相手が見つかるとするのならば――この研究が成功を収め、結果が出る方が嬉しいと思う。僕は、恋に憧れているのかもしれない。どうせ、一生する事は無いと確信しているからなのかもしれないが。
そんなこんなで、僕は夏休みを終えた。夏休みは、いつもより、家庭教師の先生に来てもらっての習い事が多かったから、普段よりも多忙なほどだった。
――二学期最初の登校日。僕は車から降りて、要から鞄を受け取った。
「いってらっしゃいませ」
「うん。いってくるね」
また、灰色の日々が始まるのだ。数日の間は夏期講習が無かったから、家の中だけを耐えれば良かったが、これからはまた学院生活が始まる。それを陰鬱に思いながら、僕は生徒玄関へと向かった。僕の二つ隣の下駄箱からは、水が滴っている。初日からイジメは健在らしい。
「おはよう、杉井くん」
その時、声をかけられた。僕が緩慢に振り返ると、そこにはニヤニヤと笑っている浅香の姿があった。浅香は色素の薄い髪の毛先を指で弄りながら、僕を見ている。その周囲には、取り巻きが何人もいる。
「おはよう、浅香」
ただの挨拶だ。挨拶をされたら、挨拶は返す。ただ、それだけだ。僕が返答すると、浅香は両頬を持ち上げた。
「そろそろ、僕達と一緒に、お昼ご飯を食べる気にはならないの?」
「――一人で食べるのが好きなんだ」
「ふぅん。折角、仲間に入れてあげようって思ったのになっ。その、人の好意を無駄にする所、本当に感じ悪いよねー」
浅香が嘆くように言うと、周囲が浅香に同意した。僕は上履きに履き替えてから、細く長く吐息する。
浅香は、僕にも、浅香の派閥に入るようにと促してくる。しかし僕には、その予定はゼロだ。浅香のご機嫌取りをしながら、誰かをいじめる生活は、きっと今よりも最悪だ。
その後、浅香達は、『杉井くんって酷い!』と口々に言いながら、教室へと向かっていった。僕は少し距離を取って歩きながら、投げやりな気分になっていた。
教室に到着し、僕は自分の席に座った。席順は自由なので、僕は一年時から、この窓際の一番後ろを選んでいる。一番最初に決めた時に、浅香が何も言わなかったから、位置が固定されたというのもある。SHRで形ばかり毎学期席替え相談はあるが、誰も移動しないのだ。一年時の一番最初の、席決めのあの日だけは、浅香は大人しかった。僕に対しても良い人だったし、まだ誰の事もいじめていなかったのだ。
チャイムが鳴る。僕は、入ってくるのがもう野崎先生ではないのだなと考えつつ、次の担任の先生は、どのくらいの間、持つのだろうかと考えていた。扉が開く音がした時、新しい担任の先生に対して、全員の視線が集中した。
僕は、入ってきた若い先生を見て、目を見開いた。あっ、と、声が出そうになったが、慌てて飲み込む。目が釘付けになってしまい、離れない。
放たれている雰囲気に、僕は飲み込まれていた。
ドクンと胸が一度大きく脈打った。
伏し目がちに入ってきた先生が、それから顔を上げて、室内を見渡した。目が合う。先生が僕を見たのだ。するといよいよ僕は目が離せなくなった。何が起きているのか、自分でも理解できない。先生から目が離せない。
確かに先生は整った容姿をしていて、目立つだろう長身だが、僕は過去に、他者の外見に瞳が囚われた事など無い。
違うのだ。
直感的に、何か、バチリとした衝動が全身を駆け抜けたような、不思議な感覚になった。
目が合ったのは一瞬の事だと気づいたのは、先生が教卓の前に立って、バインダーを置いた時の事である。先生が微笑を浮かべた。その瞬間から、心臓がいよいよ煩くなった。ドクンドクンドクンドクンと、鼓動が鳴り止まない。
少し間を置いてから、僕はやっと瞬きをする事を思い出して、二度、ゆっくりと瞼を開閉した。
「新しく担任になった、畦浦雪野と言う。これからよろしく。それでは、出席を取る」
先生の声で、やっと僕は我に返った。それから素早く教室を見回すと、多くの生徒が僕同様、先生に見惚れていた。だが、僕よりはよっぽど軽傷らしく、周囲と『格好良いね』なんて囁きあっているのが分かる。なお、浅香ですらも先生を見て、満面の笑みを浮かべていた。
前の席から一人ずつ、出席確認が行われていく。僕は、自分の番が近づいて来た時、ガラでもなく緊張した。
「杉井涼介」
先生が僕の名前を呼んだ。それだけで、僕の全身が歓喜した。僕は、おかしい。先生に名前を呼ばれた瞬間、明確に『嬉しい』と感じていた。出席確認なんて億劫なだけであるはずなのに。
「はい」
必死で声を絞り出し、僕は存在を主張した。こんなにも一言を放つのに緊張をした記憶は、過去には無かった。僕は一体、どうしてしまったのだろう。
最後の生徒まで出席確認が行われてから、SHRが始まった。
席替えについてだという。
僕は人生で初めて、席を移って前の席へと移動したくなったが、その衝動が自分でも理解できなかったし、僕が座りたくなった位置は浅香が陣取ったので、何もしなかった。教卓の正面だ。浅香が教卓前へと移動するのも、一年時から見ても初めての事である。それに伴い、浅香の取り巻き達は、席替えをしていた。だが、それもすぐに終わり――先生の自己紹介が始まった。浅香が、『残りの時間で、先生の自己紹介が聞きたいです!』と言ったからだ。僕は、人生で初めて浅香に感謝した。
僕は何故なのか、先生の事が知りたくてたまらなくなっていた。この感覚が何なのかはまるで理解できない。兎に角、先生に惹きつけられるのだ。
「俺の自己紹介? 俺は、畦浦だ。ベータの教師で、現代社会の担当だ。これからこの二年一組の担任をする。普段は社会科準備室か職員室にいるから、用事があったらいつでも来てくれ。それよりも俺としては、お前達の事を知りたい。お前達こそ、俺のために自己紹介をしてくれないか?」
その言葉にクラス中が浮き足立った。皆が、先生を見ている。僕は本来そういった浮ついた空気は好きじゃない。けれど、自己紹介をするその瞬間には、先生が自分を認識してくれるはずだと瞬時に考えたら、それだけで舞い上がりそうになってしまった。
こうして自己紹介が始まった。僕は、何を言うべきか必死に考える。皆、趣味や好物、部活や委員会、あるいは好みのタイプや将来の夢などを語っている。どんなアルファの伴侶になりたいかといった話題も多い。
僕は、何を言えば良い?
畦浦先生はこの学院の先生なのだから、それこそ夏期講習でもくり返し習った伴侶としての心得でも述べたら、心象を良くできるだろか? いいや、そもそも、どうして僕は、先生の心象を良くしたいのだろうか? 頭が混乱しすぎて、緊張ばかりが募っていく。
「次は、杉井だな。杉井涼介」
先生が再び僕の名前を呼んだ。僕の自己紹介の順番が来たからだ。僕は静かに椅子から立ち上がり、先生を見た。すると、真っ直ぐに目があった。背筋がゾクリとした。先生は微笑している。とても優しい表情だ。そのはずなのだが、僕は先生の青闇に似た黒い瞳の中に、何か獰猛な色を感じたようにも思った。しかしすぐにそれは気のせいだったと判断する。よく見れば、先生は優しく笑っているだけだったからだ。
「杉井?」
「……杉井涼介です。よろしくお願いします」
結局僕は、それだけ言うと、席に座った。何も言葉が出てこなかった。頭が真っ白になってしまったのだ。いよいよ、おかしい。しかし周囲は、僕に対して何も言わない。
――緊張していない場合の、無気力な時の僕も、僕は今と同じ自己紹介で通したと思う。結果としては、普段と僕の言動は同じだったのだろう。僕は緊張のあまり、笑う事も出来なかった。だが無表情ですら、普段の僕と同じだ。周囲はそんな僕を、『いつも通り』だと認識しているらしい。先生も何を言うでもなく、次の生徒を指名した。
SHRが終わってからは、夏休み明けテストが始まった。僕は問題を解く時こそ冷静でいられたが、解き終わって見直しが終わってしまってからは、チラチラと、試験官をしている畦浦先生の方を見てしまった。誰にも気づかれないように、慎重に。畦浦先生の真後ろの天井に丸い時計があったから、テスト時刻が終るのを、時計を見ながら待っているフリをしていた。黒板と教卓の間に座っている畦浦先生は、何かの資料を眺めている。
こうして午前中の四コマと午後の一コマはあっという間に終わり、放課後が訪れた。すると浅香達が、畦浦先生を囲んだ。いつもだったら僕は、イヤホンをはめる時間だ。しかし漏れてくる楽しそうな話し声に、聞き耳をたててしまう。僕はいつもよりゆっくりと教科書を取り出しながら、非常に丁寧に鞄にしまっていった。普段の倍は時間をかけたかもしれない。
「雪野先生みたいな格好良い先生が担任で、僕達嬉しいなぁ。ね、みんな?」
浅香の声に、浅香の取り巻き達が同意の声を上げている。だが、いつもの追従とは異なり、本音に聞こえた。僕も畦浦先生を、名前で呼んでみたいと考えると――不思議な事に、胸がチクリと痛んだ。おかしい。今日の僕は、本当に変だ。
「浅香みたいに可愛い生徒ができて、俺は幸せだな」
畦浦先生の声がした。その瞬間、僕は明確に嫉妬した。浅香が羨ましい。こんな感情を抱いたのは初めての事だったから、最初はそれが嫉妬心であるとすら気付かなかった。畦浦先生が浅香――というより、『誰か』を褒めたと理解しただけで、それが自分では無い事が無性に苦しくなった。
「浅香だけじゃない。みんな、可愛い生徒だ」
囲んでいる僕の同級生達に、先生が声をかけている。僕は、あの輪には入れないし、入りたくもないのだが、生まれて初めて、それが辛く思えた。今、この瞬間においても、浅香の派閥に入るという選択肢が僕には存在しないのだが、単純に先生と話がしたいと願ってしまったのだ。何故なんだろう。この感覚は、一体、何なのだろう?
僕はその答えが分からなかったが、この日は、結局逃げ出すように教室を後にした。そして家の車に乗り込んでからも、何度も学校の方向に振り返ってしまった。
「涼介様?」
すると要が僕を見た。
「どうかなさいましたか?」
「え? べ、別に……どうして?」
「外を気にしておいでのご様子ですが?」
「ううん。そんな事は無いよ」
僕は慌ててそう言った。すると要は何度か頷いてから、正面に向き直った。僕はそれを見てから目を閉じる。脳裏には先生の顔が浮かんでくる。何故なんだろう……。
帰宅してからも、僕はずっと先生の顔を思い浮かべていた。
眠ろうとする頃になって、瞼を閉じたら、その状況はより一層酷くなった。目を閉じていると、先生の顔しか浮かんでこないのだ。微笑している先生の顔だけが、僕の中を埋め尽くしていた。
結局その夜はよく眠れず、夢現にすら先生の顔を思い浮かべて――最悪な寝覚めを迎えた。しかし、眠気は強いが、朝が来たのが嬉しくてならない。
学校に行けば、先生に会えるからだ。
「おはようございます、涼介さん」
「おはようございます、彰さん」
朝食の席に向かった時も、僕はそわそわしていた。
父は既に仕事に行き、弟も部活の朝練で家を出ているから、朝食は大体僕達二人だ。
食事自体は、彰さんも父達と一緒に食べているのだが、毎朝必ず僕が学院に行くまで、こうして食卓に伴ってくれている。それが『義父』となった責務だと考えているらしい。普段はそれが気まずいと思うのに、この日の僕は、先生の事ばかり考えていて、兎に角早く食べ終えようと必死だった。早く学院に行きたかった。
「どうかしたんですか? そんなに慌てて。それに今日の涼介さんは、どこか嬉しそうですね」
「え……いえ、その……特に何も無いんですけど……」
「そうですか」
彰さんは頷き、深く追及してくる事は無かった。
その後僕は、学院へと向かった。昨日までの灰色で色褪せていると感じていた世界が、一変している。おかしい。本当に不思議だ。僕はドキドキしながら教室へと向かった。そして自分の席へと付きながら、SHRの開始を待った。
予鈴が鳴ってすぐ、教室の扉が開いて、先生が入ってきた。
「おはよう」
先生の言葉に、多くの生徒が返答した。大部分というのは即ち、浅香の派閥の生徒と同義であるが、それ以外の生徒達も視線を向けている。僕もその一人だ。ただ、僕の口からは、挨拶は出てこなかった。緊張しすぎて言葉が出てこないのだ。
この日も一日、夏休み明けテストが行われる予定で、SHRの時間は、短い自習時間とすると先生が言った。だが、僕は勉強をする気にはなれなかった。浅香達は、先生に質問している。先生は、現代社会以外の質問にも笑顔で答えている。僕は、形だけ参考書を取り出して開きながら、終始聞き耳を立てていた。そんな自分が気持ち悪い。
どうして、先生の事が頭から離れなくなってしまったんだろう?
どうして、こんなにも、先生の事が気になるんだろう?
どうして、どうして……?