(三)初恋の自覚とイジメ
畦浦先生が担任になって、二週間が経過した。夏休み明けテストも終わり、通常授業が始まった。返却されてくるテストを見ながら、僕は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。畦浦先生を見る機会が、朝のSHR時と放課後前の僅かな時間、現代社会の授業だけに変わったから……なのだろうか? それとも、美人は三日で見慣れるというような、なんというか……畦浦先生の顔に慣れたのだろうか? 先生には美人という表現よりは、もっと男らしい表現の方が似合う気がするから、男前? それでも、先生の顔を見る度に、声を聞く度に、胸がトクンとするのは、日常になってしまった。当初のような疾患を疑うレベルの激しい動悸ではなくなったが、胸が疼くのは変わらない。
その後、テストが全て返却されて、成績が発表される事となった。稲崎学院では、成績順位が上位百名まで張り出される。各教室に、その紙は配られる。
基本的に、オメガの多くは勉強などしない。
だから僕のように、勉強をしているオメガは珍しいのだろう。僕は、その紙に名前が載る事に慣れている。一年時の初めてのテストから今に至るまで、僕の名前は常に、学年で一位の所にある。今回も一位だというのは、返却されたテストを見ていた時から理解していた。全てが満点だったからである。テストが簡単すぎるのだ。勉強をしないオメガ用に作成されているから、当然なのだろうが。全て満点であるから、一位以外はありえない。あるとしても、誰かが同率一位になる事くらいだろう。そう考えながら、僕はSHRで、先生を見ていた。僕の関心事は順位ではなく、先生だったのだ。畦浦先生は、黒板に上位百名が記載された紙を貼った。
「一位は、杉井涼介だ。おめでとう、杉井」
ぼんやりと先生を見ていた僕は、突然視線を向けられて、硬直した。思わず目を見開くと、真っ直ぐに先生と視線が合った。自己紹介以来の事である。まじまじと見据えられて、僕は泣きそうになった。何故なのか、先生に見られているというだけで嬉しくて、涙が浮かびそうになる。
「……有難うございます」
何も言わないのもおかしいだろうと思い、僕は声をひねり出す。すると先生が笑顔で頷いてから、教室全体を見渡した。
「このクラスからは、杉井だけが上位百名に入った。順位が全てでは無いが、人生の先達の一意見として、勉強をする事は将来的に役立つ事が多いから、他のみんなも頑張るように」
それを聞いて、僕は驚いた。いつも、それこそ野崎先生もその前の担任の先生達も、皆が『成績は無関係だ。それよりも、勉強のしすぎで体の手入れを疎かにしたり、視力を落とす事がないように』というような事ばかり口にしていたからである。勉強はしなくても良いというのが、稲崎学院全体の風潮であり、勉強をするのは、勉強が好きなごく一部の僕のようなものか、家柄が少し劣る四組の生徒だと決まっていた。家柄によっては、お見合い時に、アルファから学院での成績表を開示請求される場合があるそうで、その時、目に留まるようにという事らしい。
「杉井、よくやったな」
先生が再び僕の名前を呼んだ。僕は、顔から火が出そうになった。嬉しい。
勉強をして褒められて嬉しいと感じたのは、性差検査が終わってからは初めての事だった。性差検査前は、優秀な成績を取る度に、周囲がアルファかも知れないという意味合いで褒めてはくれた。だが、そういった時の事など全て塗り潰されるくらい、現在が嬉しい。
その時、僕は視線を感じた。見れば、僕の方に小さく振り返り、浅香が僕を睨めつけていた。それに気づいて、僕は慌てて顔を窓の方へと向けた。先生の事をもっと見ていたかったが、同じくらい浅香の視界には入りたくない。
僕は勉強が好きだからしているはずなのに、この時初めて、『また先生に褒められたいから、もっと勉強をしよう』とすら思ってしまった。
必死で冷静になろうと努めながら、窓の外を見る。しかし胸がずっとドキドキしていて、この日は、それ以後の授業にも身が入らなかった。
嬉しい。嬉しすぎる。
帰路。僕は車に乗った瞬間に、笑顔を浮かべた。すると要と佐々木さんが揃って振り返った。どちらも驚いたような顔をしている。口を開いたのは要だった。
「涼介様? 何か良い事でもございましたか?」
「え? あ、えっと……テストが、返ってきて……それだけだよ」
僕は慌てて顔を引き締めた。しかし気を抜くと、頬が緩みそうになってしまう。先生に褒められた。それがどうしようもなく嬉しいのだ。この日の僕は、終始機嫌が良かった。家庭教師の先生も、そんな僕を不思議そうに見ていたものである。
翌日もその明るい気分を引きずったままで、僕は清々しい気持ちで登校した。夏の終わりが近づいてくる。だが、まだまだ暑い。生徒玄関を抜けて、僕は教室に入った。
すると――いつもとは、空気が違った。
僕が入った瞬間、教室が静まり返ったのである。
ほぼ同時に、僕は自分の机の上に置かれている白いユリの花に気がついた。ガラスの花瓶に入っている。これまで、僕の机に置かれた所は見た事が無かったが――浅香のイジメの成果物だとすぐに分かった。
僕は無表情を保ったままで、自分の机へと向かう。
そして改めて机を見た。
すると『死ね』と、黒い油性マジックで大きく書かれていた。
これもまた、浅香の手口だ。僕は何気ない風を装って、浅香へと視線を向ける。すると目が合い、笑われた。浅香は非常に楽しそうに僕を見て、馬鹿にするように笑っていた。
――花に罪は無い。
僕は後ろの棚の上に、花瓶を移動させた。その後、机を見た。拭いても落ちそうには思えないが、もうすぐSHRが始まるから、替えの机を空き教室に取りに行く余裕はなさそうだ。別に、机に落書きされているからといって、授業に支障は無い、か。
そう考えながら椅子に座り、僕は鞄の中身を取り出した。それから予鈴が鳴るまでの間は、ずっと机を見ていた。ついに、直接的なイジメが始まったと、そう考えて良さそうだ。気をつけなければならないのは上履きであるから、今日からは持ち帰るようにした方が良いかもしれない。机への落書きは、悪化すると彫刻刀に変わる。そうなれば、ノートを取る時に、凸凹して取りにくくなるかもしれない。漠然とそんな事を考えていた。
「おはよう」
するとその時、チャイムが鳴って、扉が開いた。僕は入ってきた畦浦先生を見た瞬間、またいつものように惹きつけられてしまい、一瞬、机への落書きについては失念した。僕にとっては畦浦先生の存在の方が、余程重要だ。
最初は、そう思った。
次に――先生に、いじめられていると知られたくないと感じてしまった。慌てて僕は、『死ね』という文字の上に、ノートを置いた。先生の前では、『普通』の生徒でいたい。それは浅香の派閥に入る大多数になりたいという意味ではない。だが、いじめを受けているという姿を見せたくは無かったのだ。なんだか惨めな気がした。
イジメ被害を訴えた所で、この学院の教職員は、浅香よりも力を持たない事が多いのだから、誰が対処してくれるわけでもない。対処するとすれば、寧ろ杉井家から浅香家に連絡をして直談判してもらうというような、家族の力を借りる方が確実だ。だが僕は、それも嫌だ。崩壊しかかっている我が家に、これ以上混乱を招きたくは無い。
別に大した被害は無いのだから、僕が我慢し、気をつければ良いだけに違いない。
「出欠を取る」
こうして出席確認が始まった。僕は、先生が僕の名前を呼んでくれた瞬間に、すぐに気分が浮上したから、もうイジメについては考えない事に決めた。
それから放課後までの間、僕は先生について考えて過ごした。そうして放課後が来て、先生が教室を出て行ってから、僕は改めて机を見た。このまま放置して帰って良いのだろうか。机を取り替えるのは、明日で良いだろうか。今日取り替えても、また明日落書きをされている可能性もある。ならば落書きをされないように、放課後は遅くまでいて、朝も早く来た方が良いのだろうか。思案したが、結局僕は、机をそのままにして立ち上がる事にした。
イヤホンをつけて、鞄を片手に教室を出る。先生が来てから彩豊かだった世界に、また少しだけ灰色が滲んだ気がした。退屈だ。そう考えながら生徒玄関へと行くと、僕の靴は濡れていた。
「ああ、そうか……昼休みもあるわけだから……外履きにも注意をしないとならないのか」
思わずポツリと呟いた。濡れた靴で帰るわけにもいかないので、僕はそのまま、上履きで外へと出た。外履きは、手に持った。そうして歩いていくと、校門の所にいた要が目を見開いた。
「涼介様? どうなさったのですか?」
「ちょっと水を踏んだんだ。新しい上履きの手配を頼める?」
「かしこまりました」
車に乗り込み、僕は溜息を堪えた。要達にも、心配をかけたくはない。その後帰宅し、僕は水に濡れた靴と上履きの両方を、玄関に置いた。中に入ってからは、真っ直ぐに自室へと向かう。今日は、習い事はお休みだ。
なんだか、体が泥のように重い。
不思議だなぁ、今日は体育の授業は無かったのに。
そう考えながら、僕は体をベッドに投げ出した。何も考えずに眠ってしまいたいと思っていたら、すぐに睡魔が訪れて、僕はそのまま寝てしまった。その夜は、夕食をとらなかった。それもあって、翌朝は早くに目が覚めた。
「……」
浅香のイジメは、対象の生徒が不登校になるまで続くのが常だ。だが、僕にその選択肢は無い。畦浦先生に会えなくなってしまうのは嫌だ。それに、気にしなければ、どうという事もない被害だ。
だから僕は、いつもと同じように家を出る事にした。新しい上履きを入れた袋の他に、もう一つ小さめの鞄も持った。日中、外履きを入れておくための品だ。外で履く靴は、教室に持っていった方が良いだろう。
車から降りて生徒玄関へと向かう。そして下駄箱を見ると、ゴミがはみ出していた。慎重に中を覗けば、紙くずが溢れていた。この処理も、僕がするのだろうか。僕は視線でゴミ箱を探す。掃除用具入れの隣にそれはあった。僕は歩み寄って、ゴミ箱ごと持ってきて、下駄箱の中を綺麗にした。だがそこに靴を入れるという愚行は犯さずに、外履きは持参した鞄に入れて、真新しい上履きで教室へと向かった。
教室に入ると、本日も、周囲が静まり返った。僕は緩慢に二度瞬きをしてから、机を見る。本日もユリの花が置いてある。後ろの棚を見たら、昨日置いたものが無くなっていたから、単純に位置を戻されただけらしい。僕は自席へと歩み寄って、花瓶をまた棚へと移動させた。それから机を見て、眉を顰めた。
――『死ね』『消えろ』『ビッチ』
昨日の『死ね』に加えて、更に大きな『死ね』という文字が加わり、他に二つの単語が加えられている。いずれも油性マジックだ。僕が険しい顔をしたのは、ビッチなんていう生々しい単語を目にしてしまったからだ。僕は下ネタや下品なスラングに弱い。抵抗感があるのだ。気分が悪い。僕はさっさとノートを開いて、それらを見えないようにした。こんな文字、万が一にでも畦浦先生に見られたらと思うと、嫌だった。
なお、翌日は、そのマジックで書かれた落書きが、彫刻刀で清書されていた。見事、僕の机は凸凹としたものに変わったのだ。新しい机を、空き教室から持ってくるべきだと判断しつつも、僕はまず、この日もユリの花を移動させた。ユリは萎れ始めている。靴は持ち帰るようになったから被害は無いが、下駄箱には本日は、割れた生卵が入っていた。雑巾で綺麗にしていたら、SHRギリギリに教室に入る結果となってしまった。
だが、これ以上悪化する事は無いだろうと、僕は判断していた。
例えば、カミソリや画鋲を使うような実害のあるイジメは、浅香は行わない。
理由は、オメガの体に傷をつけて、将来的にアルファに復讐されては困るからだ。
もし仮に僕が、浅香よりも優れた家柄に嫁ぎ、その時になってアルファが僕の体に残る傷に気が付いたら――どうなるか、どうもならないのか、それは僕には分からない事であるが、一般的にはアルファを怒らせる可能性がある事を、稲崎学院のオメガはしないのだ。
だからイジメを受けたとしても、体だけは無事である事が多い。代わりに持ち物や所有物に悪戯をしたり、精神的に追い詰めていくのが浅香達の手法だ。
しかし、浅香はどうしていきなり、僕に対して直接的なイジメを始めたのだろう。僕にはそれが疑問だった。僕が杉井の家に訴えないと確信でもしたのだろうか? それとも僕が、何か余程、浅香の癇に障る事でもしたのだろうか? 残念ながら、心当たりがない。
――なんだか、どうでも良い。
僕は以前と同じように、無気力な感覚を抱いた。また世界が色褪せて見え始めた気がしたが、もうすぐSHRだ。畦浦先生の顔が見られる。そう思い直して、僕は開始を待った。
「出欠を取るぞ」
入ってきた先生を見ると、僕の心が少しだけ癒えた。だが、何故なのか、気力が湧かない。もしかしたら、今朝、食事をあまり食べなかったからかもしれない。不思議な事に、なんでもないと思っているはずなのに、次第に食欲が無くなり始めたのだ。明確に、机に落書きが始まったあの日から。無理に食べると、吐き気がする。精神的には平気なのだが、僕の体は不調を訴えている。最近では、特に昼食のお弁当は喉を通らない。残してばかりでシェフに申し訳がない。
「……杉井。杉井? どうかしたのか?」
僕は、先生に名前を呼ばれている事に気づいて、ハッとした。これまで、先生の言葉を聞き逃した事なんて一度も無かったというのに。慌てて僕は首を振る。
「なんでもありません。ちょっと、ぼーっとしていて……すみません」
「体調が悪いのか?」
「いえ」
「そうか。じゃあ、勉強のしすぎか? あんまりこんを詰めるなよ」
先生が微笑した。僕は、笑い返そうとしたが失敗し、ぎこちなく頷く事しか出来なかった。浅香がそんな僕を睨んでいる事に気がついたからだというのもある。
その日の放課後――僕は、この日もさっさと帰ってしまおうとした。
「ねぇ、杉井くん」
だが、そんな僕の前に、浅香が立った。
「何?」
何でもないふりをして、僕は首を傾げた。すると浅香が口元だけに笑みを浮かべた。その瞳は僕を忌々しそうに見ている。
「少し勉強ができるからって調子に乗らない方が良いよ」
「勉強?」
「雪野先生に褒められたからって、図に乗らない方が良いから」
「どういう意味?」
「雪野先生は、僕の事を可愛いって言ってくれたし、杉井くんの事なんて本当はガリ勉で気持ち悪いと思ってるんじゃないかな。だってオメガには、本来勉強なんて必要ないしね」
それを聞いた時、僕は凍りつきそうになった。ゆっくりと瞬きをする。僕はてっきりイジメの一環でイヤミでも言われるのだろうと考えていたのだが――今回に限っては、浅香の言葉は正論に思えた。その上、僕が畦浦先生に褒められて舞い上がっていた事にまで気づかれているらしい。体が強張る。
「雪野先生はベータだけど、アルファだったら僕のお婿さんにしてあげても良いくらい格好良いよね。でもさ? やっぱりベータにも見る目ってあるからね。雪野先生が可愛いって言ってくれたのは、僕だよ。杉井くんじゃない」
「……」
「杉井くんなんて家柄がちょっと良いだけだよね? 僕の方が絶対可愛いから。それに浅香家だって負けてないんだよ? なのに、その上から目線みたいな態度、ずっとイラついてたんだよね。本当、なんなの? この僕がお弁当に誘ってあげても拒否? バカじゃないの? 調子乗りすぎ」
「……」
「何とか言ったら? 実際、僕には劣るにしろ、多少は? うん? 杉井くん、顔も良いから、クラスのみんなの事も見下してるんでしょう? あ、まさか本心では、家柄だけじゃなく僕より顔も良いと思ってるとか? 無いから。世界で一番、僕が綺麗で可愛いオメガだから」
顔の造形に関してなんか、僕は意識した事は無かった。それよりも、畦浦先生の名前が出た事が衝撃的すぎて、僕は何も言葉が見つからない。息が苦しい。
「っ」
――目眩がする。
次の瞬間、息苦しさと視界の歪みが交差した。必死で息をするのに、酸素が入ってこない感覚がする。
「っく」
「え、ちょ、何? え?」
「ッ、ぁ……っ、っ――、――」
そのまま僕はふらついた。必死で床に手を付いたが、そのまましゃがみこむ。息が出来無い。苦しくなって喉に手で触れた時には、しゃがんですらいられなくなって、僕はその場に倒れ込んだ。
「杉井くん? え、え!?」
「浅香くん、過呼吸じゃない、これ!?」
「どうしよう浅香くん!?」
「浅香くん、保健の先生を呼んだ方が良いんじゃ……」
「そんな、そんなの知らない。誰か呼んできてよ!! 僕、帰るから!」
僕は話し声が聞こえたのは理解したが、誰が何を言っているのかは理解出来なかった。そのまま足音がしたのも確認していたが、次第に何も考えられなくなっていった。ただただ息が苦しくて、何度息を吸っても胸が満ちない。このまま、僕は死んでしまうのだろうか。息が出来なかったら、人間は死んでしまうと思う。苦しい。兎に角苦しい。何度も何度も僕は必死で呼気をして、けれど空気を吸えない気分で床に横たわっていた。
「まだ誰か残って――……杉井? 杉井!」
その時、また誰かの声がしたのを理解した。僕は涙が滲む瞳をそちらへと向けた。奇妙なほどに耳触りの良い声の主は、僕に歩み寄ると、慌てたように僕を抱き起こした。
「杉井、大丈夫か?」
「っ、ッ……、――ッ、っ……」
「過換気症候群だな。ゆっくりと呼吸しろ。大丈夫だから」
僕の視界に、畦浦先生の顔が入った。先生は眉間に皺を刻んでいて、抱き起こした僕を、その時、力強く抱きしめた。そうして僕の背中を優しく撫でた。
「落ち着け。俺がここにいる。何も不安はない。大丈夫だ。だから、ゆっくりと、呼吸をしてみるんだ」
「は……っ、ぁ……ッ」
「特に吐く方を意識しろ。ゆっくりと息を吐くんだ」
先生の腕の中にいる内に、次第に僕の呼吸は深さを取り戻し始めた。『ゆっくりと』、その先生の言葉を僕は守ろうと思った。すると段々、息が出来るようになってきた。だが、呼吸が落ち着くと逆に全身から力が抜けてしまって、僕は先生にぐったりと体を預けてしまった。
「落ち着いてきたか?」
「畦浦せんせ……い……」
「過呼吸を起こしたのは、初めてか?」
「過呼吸……僕……」
「大丈夫だ。命に関わるものじゃない。ただし、初めてならば、一度検査はした方が良い。すぐに保健室に行こう」
畦浦先生はそう言うと、僕の体から腕を緩めて、片手で僕の涙を拭ってくれた。それから、優しく僕の頭を撫でてくれた。そうされる内に、次第に僕は我に返った。目を見開いて、慌てて体を起こす。
「あ、あの、すみません……過呼吸なんて……その……」
「稲崎学院は、オメガ専門の保健医がいる学院だ。過呼吸は誰でも起こしうるが、念のため、だ。重い病気では無い事の方が多い」
先生は、僕を安心させるかのように、微笑を浮かべていた。
「……ご迷惑を」
僕が立ち上がろうとすると、先生が真剣な顔をした。そして腕に力を込めた。
「迷惑? 大切な生徒が倒れていたんだ。見つけられた事は、本当に幸い以外の何者でも無いし、杉井が無事で良かった。迷惑なんかじゃない」
先生は僕の後頭部に手を回すと、自分の肩口に、僕の頭を押し付けるようにして、力強く僕を抱きしめた。座ったままで、僕は先生の温もりを感じた。
「お前が倒れているのを見た時は、心配した。地面が崩れ落ちた感覚だった。兎に角杉井が無事で良かった」
「先生……」
その言葉に、僕は赤面した。先生の肩に僕は恐る恐る手を乗せる。すると僕から腕を緩めた先生が、僕をじっと覗き込んだ。力強いその黒い瞳に、僕は吸い寄せられたようになり、目が離せなくなる。暫しの間、そのまま僕達はお互いを見ていた。
漸く僕が視線を離す事が出来たのは、下校を促すチャイムが鳴った時の事だった。部活をしている生徒用の鐘だ。視線を離すと、一気に緊張が解けた。逆に、先生の腕の中にいる事に羞恥を覚えて、僕は真っ赤になって俯いた。
「もう大丈夫です」
「いいや、ダメだ。一度は医師の診察を受けるべきだ」
「……そうじゃなくて、その……もう立てます」
「――あ、ああ。そうだな」
僕の言葉に、先生が腕を解いた。僕は静かに立ち上がる。すると先生も立ち上がり、僕の背中を支えてくれた。その温もりが嬉しくて、けれど恥ずかしくて、僕は頬が熱い。
「突然、過呼吸が起きたのか?」
「はい」
「――何か、不安な事でもあったか?」
「え?」
「過換気症候群は、強いストレスを受けたり、大きな不安に襲われた時に起こしやすいとされているんだ」
「……」
その言葉に、僕は思わず沈黙した。浅香達の事を思い出すと、手の指先までもが凍えた気がした。僕の顔が強張る。思わず僕は、自分の机の方を見てしまった。すると先生が、僕の視線を追いかけた。
「――これは」
すぐそばにあった机に、先生が気がついた。気づかれてしまった。僕から手を離した先生は、僕の机に向かって真っ直ぐに歩いていく。それから机の表面を掌で撫でた。
「杉井。なんだこれは?」
「……その……」
「誰がこんな陰湿な行為を? これが原因か?」
「……」
「犯人が分からないのか?」
「……」
「杉井?」
先生が怖い顔で僕を見た。それから再び僕に歩み寄ると、強く僕の手首を握った。
「いつからイジメに遭っていたんだ?」
「……」
「俺には話せないか?」
出来れば知られたくはなかったから、確かにこれ以上は話したくない。
「俺では、頼りにならないか? 信用できないか?」
「違います。そんな事は無いです!」
寧ろ僕は、先生がいてくれたから、学校へ来る気力を保てたのだ。先生だけが、僕の心の拠り所だった。
「だったら話してくれ。決して悪いようにはしない」
「……それは、その……」
「――浅香、か?」
「っ」
「そうなんだな?」
「どうして……」
「野崎先生から、引き継ぎの時に言われた。浅香がイジメを行っているという話を聞いた。俺が赴任して来てからは、昨年からいじめ被害を受けていたという生徒を中心に気を配っていたんだが、そうか……杉井も被害に遭っていたんだな」
「僕は平気です!」
思わず僕がそう言うと、先生が強く僕の腕を引いた。そして――改めて僕を抱きしめた。今度は立ったままで抱きしめられて、僕は混乱した。
「平気なはずがないだろう。平気だったのならば、過呼吸を起こしたりしないはずだ」
「それは……」
「辛かったな」
先生はそう言うと腕に力を込めた。それから優しく、僕の頭を撫でてくれた。回された片腕と、髪を撫でる指先の感触に浸る内――気づくと僕は、涙ぐんでいた。
「っ」
おかしい。いじめなんて、何でもないと思っているはずなのに、胸が痛い。気づけば、僕の瞳からは、透明な雫が溢れ出していた。僕は、声をこらえる事に必死になる。これまで、悲しいと思った事など無いはずなのに、今は辛かったという気持ちでいっぱいなのだ。先生の胸板に額を押し付けて、僕は気づけばポロポロと泣いていた。体が震え始める。
「俺が対処しておく。もう何も心配はいらない」
「けど……そんな、どうやって……先生に何かあったら――」
「俺には、何かあっても困る事は無いんだ。俺は、杉井に何かある方が心配でならない。お前が泣いていると、俺まで苦しくなる。だから、必ず守る。これからは」
その言葉が嬉しくて、僕の涙腺は完全に崩壊した。僕は声を殺して、暫くの間、先生の腕の中で泣いていた。瞬きをする度に、頬を温水が濡らしていく。
ひとしきり泣いた後、僕は顔を上げた。僕はこの時確信した。
僕は、先生が好きらしい。これまでの間、気になっていた理由が分かった。僕は、先生に恋をしてしまったのだと思う。何より今、先生の体温を感じ、先生と目が合っているだけで、胸が満ち溢れて仕方が無いのだから。だから、だからこそ、これ以上迷惑をかけてはならないだろう。
「もう……大丈夫です」
「そうか。じゃ、保健室へ行くか」
「……はい」
僕が頷くと、先生が、落ちていた僕の鞄を持ってくれた。僕はスマホを取り出して、要に遅くなると連絡をしてから、先生と並んで廊下を歩き、保健室へと向かった。
稲崎学院の保健室には、一通りの医療設備がある。そこで診察してもらったが、異常はないとの事だった。原因はやはり、ストレスだろうと言われた。
その後、僕は帰宅した。先生から、杉井の家にも、過呼吸に関する連絡が入ったようで、要が保健室まで迎えに来てくれた。父は酷く心配し、それから一週間ほど、僕は学院を休まされた。杉井家のかかりつけの大病院でも、全身を検査された。しかしそちらでも異常は見つからず、僕は翌週には、学院に復帰した。
すると下駄箱も正常で、机も新しいものに変わっていた。教室の空気も、張り詰めたものではなくなっていて、何人かの同級生は、僕の体調を気遣ってくれた。
聞いてきたのは浅香の派閥の生徒達だったから――僕はそれが、浅香からの探りだとすぐに気づいた。だが僕は素直に、『過呼吸を起こしたから検査をしていたのだ』と伝えるにとどめた。
イジメは、それ以降止まった。
僕が倒れた事に浅香が狼狽えたからなのか、本当に畦浦先生が何かをしてくれたからなのかは分からない。だが、どちらでも良い。僕は、畦浦先生に会えなかった事が、この一週間で最も辛い事だった。
先生に会えるだけで、特別なのだ。僕は、もうしっかりと、自分の初恋を自覚している。僕は、先生が、大好きだ。