(四)片想いの開始から告白まで
こうして、僕の片想いは始まった。
僕の日常自体は、元に戻った。相変わらず友達はいないが、無視されるでもユリが置かれるでも靴が悪戯されるでも机が凸凹になるでもない日常が戻ってきた。
その内に、季節は秋になり、そして春になった。三年生になった今年も、引き続き畦浦先生が担任だ。畦浦先生の事を、浅香は相変わらず気に入っているらしい。なのだからイジメに関して、畦浦先生が直接的に浅香に対して何かを言ったわけではないのだろうなと僕は考えているが、それで良いと感じている。畦浦先生が担任でなくなったり、退職してしまう方が、ずっと辛いからだ。
僕は、畦浦先生に会えるだけで、満足なのだ。毎日のSHRの時に、顔が見られるだけで、僕には過ぎた幸福だ。
そもそも僕は、自分が恋をする日が訪れるとは考えてもいなかった。だから――こうして、『恋』という感情を知る事が出来ただけでも幸せなのだと思う。僕は、恋愛をする自由が無いと信じていたが、それは間違いだったのだ。片想いは、自由だったのだ。
過呼吸は一度起こしたっきりで、その後、僕の体に異常は無い。僕は、畦浦先生に確かに抱きしめられたあの日以後、三者面談以外で畦浦先生と長く会話を交わす事は無かったし、他に名前を呼ばれるのは、出欠確認とテストの成績発表の時だけであるが、それでも十分だった。毎日、畦浦先生と同じ空間にいる時間があるだけで、幸せなのだ。
僕は、現代社会の授業を始め、廊下で見かける時すらも、気づけば畦浦先生を目で追いかけるようになってしまった。それくらいは許されるだろう。畦浦先生は僕を見ないから、気づかれていないと思うのだが、同時に目が合えば良いのにともどこかで思っていた。
勉強が好きだからという理由以外に、最近の僕は、畦浦先生に褒められたくて、名前を呼ばれたくて、勉強を頑張ってもいる。今も自宅で、シャープペンをくるりと回して音楽を聞きながら、明日の予習をしている。アルファの伴侶としての在り方の授業について等ではなく、現代社会や数学の予習だ。一般的な、普通科でも行う内容の予習だ。
最近、僕は思うのだ。
僕は、確かに、恋をしているのかもしれないが、それとは別のベクトルで、畦浦先生の言葉に慰められ、助けられた。僕のように、イジメ等で苦しんでいるオメガは沢山いる。そして稲崎学院は、それに対処しない。もし、僕にもっと力があったのならば――いいや、力がなくて何もできなかったとしても、畦浦先生のように、話を聞いて、誰かを慰められたのならば、誰かの力になり、誰かを救えたのならば……それは素敵な事だと感じる。
「教師、か……」
僕は、参考書を見ながら呟いた。僕が用いているのは、アルファが用いる参考書だ。大学進学用のものだ。兄が実家に置いていった品である。僕個人が、父や彰さんから買い与えられる事は無い。杉井家においても、オメガは勉強をしないという価値観が存在するからだ。だから僕は、嘗ての兄の部屋があった場所の本棚から、参考書をひっそりと借りている。
『静樹も勉強に熱心だったんだ』
父はそう言って、僕が勉強をする事自体には、比較的好意的だ。ただ彰さんは、それよりも自分磨きに励むべきだと、僕に進言する事が多い。それこそが、オメガのなすべき事だと述べて、僕をメンズエステを始め、様々な場所に連れ出す。僕は嘗てはそれが好きではなかったが、今は率先して、そちらにも通っている。理由は簡単だ。少しでも、先生によく思われたいからだ。
浅香は言った。浅香は可愛いと言われたのだと。僕の心の中に、その声が残っている。僕も少しで良いから、先生にそう思われたかった。
だが、先生はベータだ。そして僕は、アルファと結婚する将来以外存在しないオメガなのだ。この恋心が叶うとは思わない。先生だって、迷惑だろう。それでも、それでも僕は、先生が好きなのだ。
「僕も、畦浦先生みたいに、教師になって、誰かを助けられたら良いのにな」
僕は、『大学受験用』と書かれている参考書を見た。僕が学院では習わない、数多くの教科の記述がある。僕は暇な時、それらを眺め、そちらの勉強も昔からしてきた。しかし大学進学など、家族が許さないだろうと感じる。いくら僕に甘い父であっても、僕が卒業後に結婚する事ばかりは疑っていない様子だ。寧ろ、今年から高等部に入学した湊の大学進学について、家族は今から心配している。特に彰さんは教育熱心だ。当の湊自身は、部活の方が楽しいようで、そちらで全国大会に出場している。湊は陸上競技をしているのだ。
その後僕は、本日はピアノの習い事をした。家庭教師の先生の前で、ブラームスの曲を披露した。本当は僕は、もっと子供向けのジブリのようなアニメ映画の曲を演奏するのが好きなのだが、課題がピアノソナタだったのだ。
「よろしいですね」
「有難うございます」
この日の課題を終え、その後僕は、食卓についた。夕食も、最近は彰さんと二人だ。湊は部活が遅く、父も遅くまで帰宅しない。最近父は、本格的に兄に経営を譲るとして、その手続きに追われている――とは言うが、彰さんと距離を置いている様子だ。彰さんの好意を鬱陶しそうにしているのを見る。
逆に僕と彰さんは、僕がエステに熱心になってから、話をする機会が増えた。
「涼介さんは、どのようなアルファがタイプですか?」
「え?」
「その……やはり婚姻するにあたっては、性格の一致・不一致もありますから。僕としても、なんというか……涼介さんには、幸せな家庭を築いて欲しいのです。なるべく希望が叶う形の婚姻となれば良いのですが」
嘗てだったら、絶対に言わなかったような事を、最近の彰さんは口にする。僕は西京焼きを食べながら、沈黙した。僕は、アルファ――ではなく、ベータであるが、先生の事が好きなのだ。しかしそれを伝えたら、彰さんは僕に失望し、大反対するのは理解している。だから、僕は苦笑した。
「有難うございます。その言葉だけで、救われます」
「涼介さん……」
「彰さん。僕は――彰さんが、好きです」
「え……ほ、本当に?」
「はい。いつも、僕に優しくしてくれて、有難うございます」
これは、僕の本心だ。僕が頬を持ち上げると、彰さんが目を瞠った。そして、それから涙ぐんで、唇を片手で覆った。
「僕は、そんな出来た人間じゃない。でも、でも、優しいと、優しくしていると、本当に好きだと思ってくれますか?」
「はい」
「……」
そのまま彰さんは泣き出してしまった。僕が見守っていると、涙を拭ってから、彰さんが顔を上げて微笑した。
「僕もまた、涼介さんの父なのだから、優しいのは当然でしょう? 僕も……涼介さんが大切です」
僕の家族関係は破綻しているのだろうが、僕は、最近家に置いても、少しだけ呼吸がしやすくなった気がしている。
翌日も、学校が始まった。僕はSHRの時間、先生の顔をぼんやりと見つめていた。どうして畦浦先生は、こんなにも格好良いのだろう。そして、優しい人なんだろう。僕が直接その優しさに触れたのは、過呼吸を起こした時の一度きりなのだが、見ているだけでも温かい人なのだと理解出来る。
最近――放課後になると、浅香とその取り巻きの一部が、社会科準備室に入り浸りだというのは、僕も知っていた。『今日も行っていいですか?』と、何度も放課後に、浅香が先生に声をかけるのを聞いていたからだ。浅香は、最近、テストの順位表に名前が載るようになった。現代社会の成績だけは、僕と同じく満点である事も多い。だがそれは、先生に教わっているからではないようだ。放課後浅香達は、溜まり場として雑談に興じているらしいと、雰囲気から伝わって来る。
僕はそれが羨ましい。僕もそこに加わりたいという意味合いでは無い。単純に、僕も先生に質問をしてみたいという意味だ。先生と同じ空間に行きたいという意味合いだ。だが、現在までの所、僕には、現代社会で分からない部分は無い。僕もまた、先生に褒められたくて勉強をしている部分が有るから、特に念入りに現代社会は予習・復習を行っている。それなのに分からない部分がある方が不思議だろう。そもそも畦浦先生の指導は、非常に分かりやすい。だから質問に行ってみたいけれど、行く余地が無いのだ。
放課後、社会科準備室に行く前の現在も、畦浦先生を囲んでいる浅香達を僕は見た。僕はイヤホンの位置を直したが、何も曲はかけていない。先生の声を、聞いていたかったからだ。そのまま、教室で復習をしているふりをして、参考書を開く。シャープペンをくるりと回しつつも、僕の意識は教卓側に囚われていた。最近の僕は、放課後に、教室で参考書を開く事が多い。畦浦先生がいる間は、教室という同じ空間にいたくなってしまうからだ。兎に角僕は、畦浦先生の顔を見ていたいし、常に会いたくてたまらないのだ。
今日は、畦浦先生が教室に残っている時間が長い。もうすぐ、部活動をしている生徒達の帰宅時間になりそうだ。僕は最近では、その鐘が鳴るまでは、予習・復習や、読書をして時間を潰す事が多いのだが、先生が残っているのは珍しい。今日は、社会科準備室へはいかないのだろうか? 僕は、明日の予習が終わってしまったため、鞄から書籍を取り出した。要達には最近、家庭教師の先生の時間に合わせているから帰宅が遅いのだと嘘をついている。家で待つのではなく、学院で予習・復習をすると述べた点は嘘では無い。
しかし本日は僕のすべき事は終わってしまったから、僕は本を見た。最近の僕は、児童書にはまりこんでいる。本日は、星の王子様を取り出した。名前だけは知っていたサンテグジュペリの本であるが、実際に目を通すのは初めての事である。
「先生……そろそろ、僕帰らないと。今日は、書道の家庭教師の先生が来るから」
その時、浅香の声が聞こえた。僕は表紙をめくって、サンテグジュペリの略歴を見ながら、それを聞いていた。すると口々に、浅香の取り巻き達も帰ると言い始めた。
「そうか、じゃあ、また明日な」
畦浦先生の見送る声が聞こえた。僕は畦浦先生が教室を出るまでここにいるつもりなので、聞いていないフリをする。イヤホンも健在だ。
浅香達が出ていく。僕は、書籍の頁を捲った。本当は先生の顔を見たかったが、それはしない。
「杉井」
その時、先生が僕の名前を呼んだ。それに気づいて、心拍数が跳ね上がる。だが、僕は音楽を同時に聞いているフリをしているのだから、聞こえていると分かったら不自然だろうと、活字を目で追う。しかしさっぱり頭に入っては来ない。
「杉井」
先生が繰り返した。だが僕は顔を上げる事が出来ない。すると先生が、僕へと歩み寄ってくるのが分かった。僕の体が強張る。それが最高潮に達したのは、先生が僕の机の上に肘をつき、僕の耳からイヤホンを取った時の事だった。距離が近い。僕は驚いて顔を上げた。真正面に、先生の端正な顔がある。
「まだ帰らないのか?」
「……帰ります」
僕は小声で答えた。すると先生が柔和に目を細め、優しい顔をした。そして、僕の手に触れた。その温度に、ビクリとしてしまう。
「星の王子様、か」
「……」
子供っぽいと思われただろうか。高等部の三年生にもなって、児童書なんて。そう思ったが、僕は何も言えない。
「俺も好きなんだ」
「え?」
しかし続いて響いた言葉に、僕は目を丸くした。安堵から、体が楽になる。
「特に、狐の話が好きなんだ。『絆』――考えさせられる」
「狐の話……」
「これから読むんだろうが、良い話だ。星の王子様は、俺の中では名作だ。俺の好きな話だ。杉井も好きになってくれたら嬉しい」
笑顔で先生が言う。僕の手に指先を置いたままだ。僕は、真っ赤になった自信がある。
「読んでみます……」
「そうしてくれ」
その後、僕は帰宅した。僕は、どのようにして家まで帰ったのか、よく思い出せないくらい、先生の笑顔の事ばかり考えていた。指先の温もりばかりを思い出していた。
僕の中で、その日から、星の王子様は特別になった。星の王子様という本が、僕の中で大切になりすぎて、大変だった。僕は何度も何度も読み返し、特に狐の絆の部分をくり返し読んだ。他にも僕にとっては好きな場面は沢山あったが、狐の話が特に、僕にとっては宝物に変わった。先生と同じものが好きになれて、心底嬉しかった。
あるいは退屈な話だったとしても、先生が好きな本だったら読み進めただろう。しかし、星の王子様は、僕にとって、本当に面白かった。だから、先生と同じ、『好き』だと思う。
以後――たまに、浅香達が早く帰る場合、そして先生が教室に残っていた場合、僕は先生と話が出来るようになった。先生が話しかけてくれるようになったからだ。僕が教室に残っているからだというのは理解していたし、先生は気を遣ってくれているのだろうとも考えていたが、無性に嬉しくてならない。
その内に、先生と出会った夏が訪れた。僕はこの日は、予習をしながら、時折窓の外を見ていた。最近の僕は、イヤホンは身につけないようにしている。先生に声をかけられた時に、すぐに気付く事が不自然ではないようにという心がけだ。
この日も、浅香は習い事だと言って早く帰っていった。社会科準備室にも行かなかったから、先生と僕は、教室で二人になった。
「暑いな」
先生が僕に声をかけてくれた。僕は緩慢に視線を向けてから、小さく頷いた。
「杉井は、本当に勉強熱心だな」
「……もうすぐ、テストが近いので」
「模範生だな。もうすぐ進路相談の時期だが、お前ならば、十分大学進学も狙える」
その言葉に、僕は嬉しさと同時に、胸がズキリと痛んだ。先生は、僕をオメガ扱いしない。それは嬉しいが、僕の周囲はそうではないからだ。
「杉井は、将来は何になりたいんだ?」
先生に、夢を聞かれた。人生で、アルファの伴侶以外の夢を聞かれたのは、初めての事だった。僕の未来は、決まっていると思っていたからだ。だが、仮にそうではなかったら? 僕はいつか考えた、『教師』について、瞬時に思い馳せた。
「僕も……オメガじゃなかったら、畦浦先生のような、先生になりたいです」
これが、正答では無い事を僕は知っていた。しかし、言葉が溢れてきた。止められなかった。すると畦浦先生が短く息を呑んだ。それから――破顔した。
「俺の本職は、研究者なんだ。その傍らで、教員をしている。だから、細部まで心を配る事が出来ていないのではないかと、いつも不安を覚えていたんだ。そうか、俺のような、か。嬉しいな。杉井から見ると、俺は、どんな教師なんだ?」
「研究者……? そ、その……先生は、みんなの心を助けてくれていると思います」
研究者というのは疑問だったが、これは僕の本心だった。実際、畦浦先生と親しくなってから、浅香のイジメはいつの間にか無くなっていった。今では、クラスは、浅香の派閥が目立つ以外にも、嘗てはぶかれていた生徒もまた輪に加われるようになっている。浅香が軟化したのだ。それは、畦浦先生に好かれたいからだと僕は感じている。浅香もまた、僕と同じように、ただ僕よりは軽傷かもしれないが、畦浦先生に惹かれているんじゃないかと僕は感じているのだ。
「杉井の心も、救えているか?」
「……はい。僕は、その……助けてもらいました」
僕が正直に気持ちを述べると、先生が歩み寄ってきた。そして僕の頭の上にポンと手を置いた。その感触が、酷く優しく思えた。
「杉井にそう言われて、嬉しいぞ。俺は、今日が誕生日なんだが、最高のプレゼントをもらった気分だ」
「誕生日?」
今日は、七月二十五日だ。僕は目を丸くする。すると先生が笑顔のままで頷いた。
「杉井の誕生日は、いつだ?」
「六月六日です」
「――残念だな、過ぎているのか。言ってくれたら、祝ったんだが」
先生にお祝いされる光景を瞬時に空想したら、僕は赤面してしまった。この言葉だけでも嬉しかった。
「先生……誕生日、おめでとうございます」
「有難う。杉井に祝われると、特別に嬉しいな」
「え?」
「杉井は、俺の中で、特別な生徒だ」
特別――その言葉が嬉しすぎたが、『生徒』という声が、胸に突き刺さった。生徒は大勢いる。その中で特別であるだけでも、そう、嘘だとしても言ってもらえるだけでも嬉しいのだが……今の僕は、先生に、生徒としてではなく、一人の人間として見てもらいたいという思いが強い。
その時、下校を促すチャイムが鳴った。
「また、明日」
先生はそう言うと、最後にまた、僕の髪を撫でた。僕はそれを嬉しいと感じながら、頷いた。
僕は、先生が好きすぎる。真っ赤なままで、僕は校門に向かった。すると要が首を傾げた。
「涼介様? どうかなさいましたか?」
「……ねぇ、要」
「なんでしょうか?」
「要は、人を好きになった事がある? 誰かを、好きだと思った事がある?」
僕は、衝動的に尋ねていた。すると、要が驚いた顔をした。それから顔を背けた。要のそんな仕草を見るのは、初めての事だった。
「あります。叶わない恋ですが」
「そうなんだ……実は、さ。僕も、叶わない恋をしているんだ」
この時の僕は、先生との会話で胸中が盛り上がりすぎていて、誰かに気持ちを打ち明けずにはいられなかったのだ。すると、要が今度は眉を顰めた。
「同級生ですか? オメガ同士という事ですか?」
「……違うんだ。秘密だけど……僕は……先生の事が好きなんだ。ベータだよ」
僕の言葉に、要が驚愕したように目を見開いた。それから、苦しそうな顔をした。
「……私も、好きな相手がオメガの方で……それだけではなく、手の届かない存在の上……社会的にも許されない恋をしておりますよ」
「え?」
「誓って、涼介様の秘密はお守りします。だから、私目の秘密もお守り下さいね」
「う、うん。え? 要の好きな人は、僕の知っている人?」
「――彰様です」
「えっ」
僕は驚きすぎて、目を見開き、口を半開きにしてしまった。すると要が苦笑した。
「叶わぬ事は理解しております。片想いで満足しております。想うだけで、お伝えする気もありません。それで――涼介様は、どの先生が好きなのですか?」
「僕は……担任の、畦浦雪野先生が好きなんだ」
「そうですか」
そんなやりとりをしていると、佐々木さんが運転する車が到着した。そこで、僕と要の会話は途切れた。車内では、沈黙しながら帰宅した。
帰宅してから、この日は習い事が無かったため、僕は一人自室で考えていた。
ただ想うだけで良いと要は言った。僕もこれまで、そう考えてきた。
だが――……要にも吐露してしまったわけであり、僕は、自分の気持ちを抑えられそうにない。いつか、叶わなかったとしても、伝えたい、先生に。僕の気持ちを。
参考書を見る。同時に、教師になりたいという思いも強くなってきた。そのためには、大学へと進学しなければならない。もし、もしも、僕がこれを伝えたら、家族は、どんな顔をするだろうか? 進路相談の三者面談は、三日後だ。
僕は、夕食よりも少し早い時間に、階下へと降りた。すると、リビングにいた彰さんが顔を上げた。僕は意を決した。
「彰さん、お話があるんです。お父様にも」
「何かあったのですか、涼介さん。そんなに必死な顔をして」
「お願いがあって。どうしても聞いて欲しいんです、二人に」
「鴻一郎様の帰りは遅いですよ。僕で良ければ、いくらでも――」
「いえ。二人に同時に聞いて欲しくて」
僕が必死にそう言うと、彰さんが頷いてくれた。
その後僕は、夕食までの間を緊張しながら待った。今日は、彰さんと僕も、父と一緒に食事をすると決まった。その時に、僕は伝える事にしたのだ、進路について。
「涼介、どうしたんだ? 話があるんだって?」
帰ってきた父は、僕を見ると、きょとんとして、首を傾げた。父の隣には、彰さんが座っている。僕は二人の正面に座して、俯いた。それから顔を上げる。
「僕……稲崎学院高等部を卒業したら、すぐに結婚するのではなく、大学に進学したいんです」
僕は必死でそう述べた。すると彰さんが目を見開き、父は眉を顰めた。父が言う。
「涼介が、勉学が好きな事は、理解している。しかしな、一般的な大学には、アルファもいる。ベータが多いが。そして少数のオメガもいるが、それは下等なオメガだ。一流である良家のオメガたる、杉井家出自のお前に、その道は酷だ。いつどこの、素性も知れぬアルファに襲われるとも限らず、ベータには蔑まれ、辛い日々を送る事になるかもしれない」
父の言葉が正論だと、僕は理解していた。だが、僕は食い下がった。
「それでも構いません。僕は、どうしても、教師になりたいんです。だから、だから、大学に行かせて下さい。学費は奨学金を貰ったり、バイトをしたりします」
「涼介さん、自分が何を言っているのか、分かっているのですか? 杉井家のオメガがそのような下賎な行いをするなど、到底許される事ではありません。良家のオメガに勉学は不要なのですよ?」
「分かっています。悩みぬいての結論です。僕は、どうしても、どうしても、教師になりたいんです」
僕は本心を述べた。涙が浮かんでくる。二人の反応が怖い。僕の言葉に、父も彰さんも押し黙った。その時の事である。ダイニングの壁際に控えていた要が言った。
「――もし、ご進学なさるのでしたら、私めも同じ学部学科に進み、必ずや、構内でもSPとしてお守りいたします」
僕はそれを聞いて目を丸くした。思わず振り返ると、要が微苦笑していた。
「涼介さん。どうしても――それほどまでに、教師になりたいのですか? 一体、どうして?」
「僕は……過呼吸になった時に、先生に助けられて……僕のようなオメガの生徒の力になりたいと思ったんです」
これは嘘ではない。他にも先生のそばに行きたいだとか、色々な理由があるが、一番はこれだ。僕の言葉に彰さんが押し黙った。それから父を見た。すると父は、要を見ていた。
「静樹も勉強が好きだったからな。言い出す事に不思議は無い。そうか……要が付き添ってくれるのか」
静樹――という名に、彰さんの表情が強ばったのが分かる。
「だが、素性の知れないアルファに囲まれ、万が一があってはならない。私は、涼介が大切なんだ。涼介、考え直してくれ」
父が明確に反対した。僕は俯いた。彰さんが反対なのも明らかだ。やはり、オメガには、自由な進路など存在しないのだ。僕はその事実に気づかされた、と、そう思った。その時だった。
「鴻一郎様。これまで――これまでに、涼介さんが、このように、あなたに頼みごとをした事が一度でもおありですか?」
「彰……?」
「立派な志ではありませんか。自分の道を持つことは、杉井家の誇り高さを感じさせます。私は、このように強い、涼介さんの決意を見るのは初めてです。あなたは、おありなのですか?」
「……それは」
「要も付き添ってくれるのでしょう? オメガにもネックガードといった自己防衛策は存在します。鴻一郎様、ご一考を。涼介さんは、確かにオメガです。けれど、オメガというだけではなく、誇り高き杉井家の血を引く、人間なのです」
彰さんが、僕の擁護をしてくれた。僕は想定していなかったその事態に、思わず涙ぐんだ。嬉しかった。そうだ、僕もまた、人間なのだ。
「涼介。お前は、それほどまでに、教師になりたいのか? オメガであるから、大学を出ても、就職先は限られているぞ?」
「なりたいです。お願いします」
僕が再度告げると、父が唸った。それから、呆れた様子で苦笑した。
「本当にやりたい事がある時、芯を曲げない所まで、静樹にそっくりだとは、な。そうか。彰も許すのか。ならば――私も認めよう。涼介に嫌われたくはないからだが、な。それが私は一番怖い。同時に、涼介の夢は応援したい。ああ、確かに涼介がこのように我儘を言った事は、過去に一度も無かったな。彰の言葉で気づかされたよ」
こうしてこの日、僕は大学進学に許可が出た。気が抜けてしまい、僕は椅子に深々と背を預ける。すると彰さんが泣きそうな笑顔で言った。
「ですが、試験に落ちたら、きちんと結婚するのですよ? 大学在学中もお見合いをするのですよ? 杉井家のオメガとして、当然の事です。他の家事手伝いをする良家のオメガ同様、習い事にも手を抜かないようにしなければ」
「頑張ります。彰さん――……彰父さん、有難う」
僕は初めて、彰さんを父と呼んだ。すると彰さんが泣き始めてしまった。父がそれを見ると、彰さんの肩を抱き寄せた。そんな光景を見るのは、初めての事だった。
――翌日。
僕は、学校へ行く途中の車内で、要の肩を叩いた。
「昨日は、有難う」
「いいえ。良いのです。私目は、いつまでも涼介様にお仕えするのが使命ですから」
「だけど、要まで、教育学部に――」
「人生何があるか分かりませんから、資格の取得も良いかもしれません」
クスクスと要が笑った。僕は、それに救われた。
その後、三者面談の日は、彰さんが来てくれた。畦浦先生と僕と彰さんで話し合い、僕は正式に大学進学を夢とすると決まった。
そこからは、勉強漬けの日々だった。稲崎学院では、他の高校のような普通科の授業は少ないから、僕は家庭教師の先生を付けてもらった。一度決めたら、父も彰さんも、僕の応援をしてくれた。学費の事も気にする必要は無いとし、今はただ勉強に打ち込むようにと励ましてくれた。僕は、その期待に応えたい。
先生方も、僕に放課後、特別に講義をしてくれるようになった。その中には、畦浦先生もいた。寧ろ、畦浦先生が一番熱心に僕に指導してくれた。僕は、放課後、社会科準備室に行く事も増えた。それは、畦浦先生に会いたいからだけではない。受験のためだ。
浅香達は、最近社会科準備室には行かないようだった。それは、卒業後の結婚にそなえて、高等部三年時の現在から、お見合いをするのに忙しいからであるらしい。
そのままあっという間に秋を迎え、冬が来た。僕は震えながら、志望校である大学へと向かい、試験に臨んだ。模擬テストの偏差値は、何とか足りていた。面接練習もくり返し行った。これは、校長先生が行ってくれた。校長先生は話していた。
『もしも教員になったら、この学院に来ると良い。歓迎するよ。教育実習にも来てくれ。私はオメガにも可能性や将来性があると常々、生徒を見て思っているんだ。だから、杉井くんのような生徒は誇りだよ』
僕は泣きそうになったものである。
試験は――……緊張こそしたが、思いのほか、簡単に思えた。僕は安堵しながら帰路につき、後日結果を見た。結果は、無事に合格だった。晴れて僕は、四月から、教育学部に通う事となった。
「よくやったな」
結果発表の日、合否を見てから学院に行くと、畦浦先生が僕の肩を叩いた。僕は思う。全ては、畦浦先生がいてくれたからだ、と。将来の夢などなく、漠然とアルファとの結婚だけが未来だと信じ、全てが色褪せていた生活から救い出し、恋を教えてくれたのは、先生だ。僕は、やっぱり畦浦先生が大好きだ。最初から惹きつけられてはいたが、今は何より、その人柄が好きでならない。
だから。
だから、やっぱり、この気持ちを、僕は伝えたい。
もう、自分の恋情を抑えきれない。
僕は、そんな中で、卒業式当日――三月一日を迎えた。その朝、本来であればゆっくりと家族とともに登校して良かったのだが、僕は無理を言って、先に家を出た。朝、五時。教頭先生が鍵を開ける時刻を少し過ぎた頃、僕は、生徒玄関の扉を開けた。誰もいない。
その後、上履きに履き替えてから、僕は、職員玄関へと向かった。そして、畦浦雪野という表記が出ている下駄箱を見た。僕は昨日、手紙をしたためた。学院から最も近い公園に、午後六時半に来て欲しいと。卒業式は午前中で終わり、その後は一般生徒も下校だ。先生方も本来であれば、五時には帰宅する。それを僕は知っていたが、同時に、遅くまで先生達は残っている場合が多いというのも知っていた。だから、六時半では、早いかも知れないとも思う。だが、良いのだ。なにせ、僕の片想いなのだから。先生は、きっと来ない。そう思っていたから、僕は呼び出しのために書いた手紙には、名前を書かない事にした。ただ一言、『先生に話しがあります。六時半に、中央公園の第二入口前のベンチに来て下さい』とだけ記したのである。
その後僕は、教室で、卒業式の時刻を待っていた。卒業式の間は、ほぼずっと、教職員席の方を見ていた。ついに、僕は、稲崎学院から外へと出る。そして大学という新天地へと向かうのだ。だから、だからこそ、この気持ちに一区切りをつけたい。
卒業式はあっという間に終わり、下校時刻となった。僕は、父と彰さんと共に、校舎を背後に、桜の木の下で写真を撮った。二人には、本当に感謝している。僕の大切な両親だ。
そして帰宅してから、約束の時刻を待った。僕が出かけると述べると、両親は首を捻ったが、『友達と約束がある』と嘘をついたら、『もう会えなくなるのだしね』と、送り出してもらえた。僕には結局友達は出来なかったのだが――些細な嘘だと信じたい。
SPの要は、ついてきた。徒歩で公園まであるく道中で、僕は要には、正直に述べる事にした。
「先生を手紙で呼び出したんだ」
「っ、涼介様、それは――」
「来ないと思うし、叶わないのは分かってる。それでもね、僕は、どうしても待ちたいんだ。そして、もし仮に先生が来てくれたら、告白したいんだ。だから……公園には、僕一人で行かせてもらえないかな? お願いだから、公園の入口で待っていて」
僕の言葉に、要は逡巡するような顔をした。それから――苦笑した。
「承知致しました。来てくれると、良いですね」
こうして、僕は、公園のベンチへと向かった。先生は、来るだろうか? 緊張しながら、腕時計と空を交互に見た。制服姿のままで、僕は桜の木も一瞥した。来なくても良いのだ。いいや、きっと、来ないだろう。そう考えながら、約束の時刻を迎えた頃――足音がした。
「杉井」
耳触りの良い声がした。僕が顔を上げると、確かにそこには、畦浦先生の姿があった。先生は、来てくれたのだ。ベンチに座ったまま、僕は最初、その事に衝撃を受けた。
「先生……」
「呼び出しの手紙には、次からは名前をきちんと書いておくようにな。字ですぐに分かったが」
「っ」
「それで? 俺に話があるというのは?」
先生はそう言うと、柔らかな微笑を浮かべた。僕の胸がツキンと疼いた。
「その……」
僕は、頭が真っ白になってしまい、何を言っていいのか、一瞬分からなくなった。色々、言葉を考えていたはずなのに、何も出てこない。気づくと僕は、震える唇で、簡潔に告げていた。
「好きです」
先生は、僕の言葉に押し黙った。それから一度空を仰いだ。そうして僕に向き直ると、どこか悪戯っぽい目をした。
「俺は、ベータだぞ?」
「……関係無いです」
だって、僕は、先生が大好きなのだ。
「それでも僕は、先生の事が好きです」
「杉井」
「はい……」
伝えてしまった。もう後には戻れない。僕は、先生の返事が怖かった。
「――二年経っても、その気持ちが変わらなかったら、もう一度俺に告白してくれ」
「……え?」
すると、予想外の言葉が返ってきた。
「いいや、二年後は卒業式の日取りだから、また今日と同じように忙しいな。そうだな――じゃあ卒業式が行われる三月一日の、次の次の週末、土曜日の夜にでも」
「二年……? どうしてですか?」
「二十歳になるだろう?」
「僕の誕生日は、その……」
「六月六日だったな。覚えてる」
先生は、僕との些細な会話も覚えていてくれたらしい。それが嬉しくて、僕は涙ぐみそうになった。
「俺が話しているのは、その年には、お前が二十歳になるという意味合いだ。成人年齢は十八歳でも、俺は教師であり、お前は未成年だ。今すぐに真摯に答える事は出来ない。分かってくれ」
「先生……」
「それに杉井は、まだ若い。これから距離を置いたら、気持ちが変わる事もあるかもしれない。違うか?」
「違います。僕は先生が好きです」
「普段の物分りが良い杉井はどこへ行ったんだ?」
その言葉に、僕はギュッと目を閉じる。気恥ずかしい。
「だから、な。お前がきちんと二年後もまだ、俺の事が好きだったのならば、もう一度告白をしてくれ。そうしたら、俺はきちんと考えると約束をする」
「本当に……?」
「ああ。約束だ」
――約束。
僕は、その言葉を信じる事に決めた。
「先生、僕、絶対に二年後――待ってます」
「そうか。楽しみにしているぞ。もう暗い。今日は帰ると良い。送るか?」
「……入口に、SPがいるので、大丈夫です」
「なら良い。気をつけてな。それと――大学、頑張れよ」
こうして、僕は無事に気持ちを伝える事が出来たのだった。結果が分かるのは、二年後。だが、十分だ。フラれなかった。失恋しか覚悟していなかった僕が、舞い上がるには十分すぎた。
これが、僕の高等部時代の記憶である。