(二)待ち遠しかった誕生日
あれほど待ち遠しく感じた誕生日は、その日が来てみれば、あっという間だった。
杉井家でも、僕の二十歳の誕生日パーティが催される事になっていたのだが、僕は何度も拒否しようとした。それは半分がお見合いパーティであるからではない。僕には、先生との約束があるからだ。
「涼介、折角の二十歳なんだぞ?」
「そうですよ、涼介さん。特別な日なのですから」
両親にそう言われ、結局開催される事は決まってしまった。この日ばかりは、兄も帰ってくると連絡を寄越した。みんなが祝ってくれる気持ちは、嬉しくないわけではない。ただそれよりも僕は、先生の事がどうしようもなく大切で、先生との約束に囚われているのだ。
こうして、六月六日が訪れた。
朝から客達が、杉井家へと訪れていく。僕は応接間で、父の横でずっと挨拶をしていた。パーティは昼食時だったのだが、朝から家を出たかった僕には辛い……。パーティは夜まで続くようなのだが、何とか抜け出そうと僕は考えている。
兄が帰ってきたのは、丁度十三時を過ぎた頃の事だった。
「大きくなったね、涼介」
「兄さん……有難う」
久しぶりに見る兄の顔には、肩から少し力が抜けた。兄の姿に、周囲が少し距離を置いたため、僕は挨拶からも解放された。切れ長の目をした兄は、僕の肩に手を添えると、少し屈んだ。家族同士であるとフェロモンの力が弱まるらしく、父や兄、弟といても、僕は気分が悪くなる事は無い。
「涼介、少しあちらで話そうか」
「うん」
兄の言葉に、僕は頷いて、後ろに従った。兄は僕を横の控え室に連れて行くと、扉を閉めながら微苦笑した。
「疲れているみたいだね」
「――、――その」
「見ていれば分かる。無理はしないように」
その言葉を聞いた時、僕はふと考えた。兄にならば、協力してもらう事は出来ないだろうか?
「兄さん、あの――」
「どうかした?」
「――僕、少し家を出てきたいんだ……」
「今、かい? 今日はお前の誕生日だ。一体どうして?」
兄は幾ばくか首を傾げると、腕を組んだ。僕は時計を一瞥してから、改めて兄を見る。
「どうしても、その……」
「その?」
正直に言うべきか悩んだ。兄には嘘をつきたくないが、先生との事を伝えたら、家から出してもらえないようにも思う。僕が言葉に詰まっていると、兄がスッと目を細めた。
「言えないような理由ならば、俺は許可出来ないよ」
「! そんな事は無いんだよ。その、だから……会いたい人がいて……」
反射的に続けた僕の声は、次第に小さくなった。思わず俯いたのは、兄の顔を見るのが怖かったからだ。暫く下を見ていると、兄が笑った気配がして、僕は頭を撫でるように叩かれた。
「――好きな相手がいるのかい?」
「っ」
「会いたい相手は、その人かな?」
「……うん。そうです」
素直に答えながら、おずおずと僕は顔を上げた。すると兄が苦笑しながら頷いていた。
「実は、絹賀崎製薬の次期社長から、涼介と結婚がしたいと言われているんだけどね」
「え……で、でも、僕は――」
「俺は涼介の味方だ。涼介が選んだ相手が良いと思っている。ただ、外に出るというのならば、要は連れて行くようにね」
「兄さん……有難う」
僕は兄の言葉に嬉しくなった。兄はそれから僕の肩を両手で叩いた。
「行っておいで」
「はい。本当に、有難う」
頷いて僕は、控え室から外に出た。すると壁際に控えていた要が僕を見た。
「要、僕はね、公園に行こうと思ってる。先生に、どうしても会いたいから」
「お供させて下さい」
「……うん」
僕は要と共に歩きながら、裏口を目指した。こっそりとキッチンを抜けて、裏手の出口から外へと出る。そして、温かい風に髪を揺らされながら、公園を目指した。
「要、ここで待っていて」
入り口で僕がそう告げると、要が呆れたような顔で笑った。
「お気をつけ下さいね」
「うん。いつも要には、本当に感謝してる」
「勿体ないお言葉です。いってらっしゃいませ」
僕はその言葉に笑顔を返してから、公園の中へと足を踏み入れた。目指す場所は、以前と同じベンチだ。既に午後の三時を過ぎている。先生は、待っていてくれるのだろうか?
それとも、夜やってくるのだろうか? 本当に来てくれるのだろうか?
きっと、来てくれる。そう信じながらベンチへと向かうと――先生がそこに座っていた。驚いて息を呑んでから、僕は気づくと早足になり、最終的には駆け寄っていた。
「先生!」
「早かったな」
僕の声に顔上げた先生は、それまで見ていたタブレット端末を鞄にしまってから、静かに立ち上がった。そして僕の正面に立つと、柔和な笑顔を浮かべた。
「本当に来てくれたんですね……」
「今日は、それは俺の台詞だ。来てくれて嬉しいぞ」
先生はそう言うと、不意に僕を抱きしめた。その温もりと感触に、僕は息を呑む。体が硬直してしまい、目を見開いたままで、僕は呆然とした。先生の香りが、僕を包んでいる気分になる。
「先生……」
「嫌か?」
「違います。僕、先生が好きです」
もう気持ちが抑えきれない。僕が震える声で改めて告げると、先生が喉で笑った気配がした。僕をより強く抱きしめた先生が、僕の耳元に唇を寄せる。
「本気なんだな?」
「はい!」
「もう逃してやらないぞ」
冗談めかして先生がそう言った。僕は泣きそうなほど嬉しくて、先生の背中におずおずと手を回し返してみる。先生の厚い胸板に額を預けていると、それだけで幸せな気持ちになる。ずっとこうしていられたら、どんなに幸せなんだろう。
「涼介と呼んでも良いか?」
「は、はい……!」
「俺の事も、雪野で良い」
「雪野先生」
僕は、ずっと呼んでみたかったように、先生の名前で呼んでみた。すると先生が吐息に笑みをのせた。
「先生は不要だ」
それから先生は僕を腕から解放すると、まじまじと瞳を合わせてきた。その眼差しに惹きつけられて、僕も見返す。
「俺の家へ行こう」
「え……えっと、SPを待たせているし、僕、パーティを抜け出してきちゃったんです。だから――」
「涼介」
僕が思案していると、先生が強く僕の名前を呼んだ。
「俺以外の全てを捨てても良いと思えるのなら、何も心配しなくて良い。俺と来い」
「先生……」
「雪野で良いと言っただろう?」
「……雪野先生……無理です。いきなりは、呼べません。緊張しちゃって」
「そうか。それで、どうする?」
僕は迷った。送り出してくれた兄や、要の顔が脳裏を過る。だが――僕にとって一番は、やはり先生なのだ。自分勝手なのかもしれないが、もっと先生と一緒にいたい。
「……分かりました」
気づくと僕は、頷いていたのだった。
そのまま僕達は、要がいる入り口とは逆の、駐車場がある側の門から公園を出た。そして僕は先生の車に乗った。
走り出した車の中で、僕はずっと先生の横顔を見ていた。ハンドルに手を掛けている先生は、信号の度に僕を見た。目が合うと、それだけで胸が騒ぐ。
先生の家は二階建てで、外に車庫があった。僕を大きな邸宅の前で下ろしてから、先生が車を車庫に入れる。僕は庭の濃い紫色の花を眺めていた。物珍しくて、周囲をキョロキョロと見回していると、すぐに先生がやってきた。
「入ってくれ」
鍵を開けた先生は、扉を開けてから、僕を促した。先生の家だと思うと、それだけで緊張してしまう。
「この家に人を招くのは、初めてなんだ」
「そうなんですか?」
「ああ。完全に俺の私用の家だからな」
「他にも家があるんですか?」
「実家がある」
「ここは、じゃあ、先生が一人で……?」
「そうだ」
一気に緊張してきて、僕は靴を脱ぎながら、唾液を嚥下した。先生と二人きりの空間が愛おしい。そのままリビングへと促され、僕は白いソファに腰を下ろした。そこから見えるキッチンで、先生が珈琲を二つ用意している。静かに座っていた僕は、あまり生活感が無く、綺麗に掃除されている室内を見て、先生によく似合う気がしていた。
「どうぞ」
カップを差し出し、先生が僕の正面に座った。
「有難うございます」
照れくさくなりながらカップを見た僕は、そこでふと思い出した。そろそろ夕方の五時になる。発情期抑制剤を飲む時間だ。予防のために僕は常用しているのだが、いつも以上に現在は、本来であれば発情期が訪れている頃なので、しっかりと飲まなければならない。
僕はポケットからピルケースを取り出した。珈琲で飲んでも構わないだろうかと考える。
「それは、抑制剤か?」
「はい」
「飲む必要は無い」
「……? だけど飲まないとアルファと交わるまで――」
「そうだな」
「え?」
僕は先生の言葉に驚いた。目を丸くしていると、先生が僕へと歩み寄ってきて、そっと僕の手首を握り、もう一方の手でピルケースを取り上げる。驚いてそれを眺めてから、僕は何気なく先生の顔を見て、そして硬直した。
そこには獣のような瞳をしている先生の顔があった。青闇のような色の瞳が獰猛な色を宿して煌めいている。僕の背筋がゾクリとした。視線が離せなくなり、僕は何か言おうと思って口を開いたのだが、唇はただ震えるだけだった。先生の唇が、触れ合いそうな距離まで近づいてくる。
「涼介」
「……」
「逆にこちらを飲むと良い」
先生はそう言って、ポケットから透明な白のピルケースを取り出した。僕はおずおずと受け取りながら、首を傾げる。漸く少しだけ、体の動かし方を思い出した。
「これは?」
「俺から渡されたものに不安があるのか?」
僕はその言葉に、反論する声を持たなかった。僕は先生が大好きだし、先生の事を信じている。それでも、困惑しない訳では無かった。先生がおかしな薬を僕に飲ませるとは思えないが、内容は気になる。チラリと先生を見上げる。そこにあるのはやはりどこか獰猛な瞳だ。ただその口元だけに、優しい笑みが浮かんでいる。先生の表情を見ていると、やはり言葉が何も出てこなくなる。
「……」
僕は意を決して、先生から渡された錠剤を飲み込んだ。口に放り込んでから、珈琲を飲む。それから瞬きをしつつ、ホッと息を吐いた。
――体が沸騰するように熱くなったのは、その直後の事だった。
「っ、ぁ……え……!? あ」
僕は何が起きたのか分からず、両腕で体を抱いた。しかしすぐに、それが『発情(ヒート)』の熱だと直感的に理解した。オメガだと判明した時から、抑制剤を服用していたから、周期こそ判明していても、僕は過去に、本格的に発情した事は一度も無かった。だがそれでも、本当的に理解させられた。
「あ、嘘……なんで……あ、あ、あ」
全身が震え始める。一気に熱くなった体に、汗が浮かんできて、息が出来なくなる。まともに座っている事が出来なくなり、気づくと僕は先生の腕の中に倒れ込んでいた。先生はそんな僕の首筋に触れると、パチンと音を立てて、僕のネックガードを外した。そして――……
「ひ!」
ペロリと僕のうなじを舐めた。その瞬間、僕の頭は真っ白に染まり、理性が途絶した。