【4】俺の日常




ちなみに俺は、昔は多分、自他共に認めるセレブだったと思う。
金に困った事など一度も無かったし、そもそも生活費を稼ぐという概念すらなかった。
三年前に決定的に敗戦するまでは、扉閉鎖を掲げて戦っていた、アマイモンに連なる血脈はセレブだったのである。だが、その頃、アマイモン一族は虐殺されたため、今ではほとんど姿を見ない。この日本で言うのであれば、アマイモンの日本支部の長が、俺の兄で当主だが、超影が薄い。ちなみに弟は、例のあの時に、死んだ。たぶんも何も俺のせいで。
そんな俺だけど、現在は、六畳一間に住んでいる。
1K。
キッチンは二畳在る。六畳のR+二畳のキッチンだ。
藍洲伊織、二十三歳。
現在俺は、製菓・製パン科(1年制)に通っている専門学校生だ。
要するにパティシエを目指している学生である。
日々、自給1300円で悪の組織でバイトし、学費と生活費を稼ぎながら、甘味に心砕いているのが俺だ。こんなご時世、手に職をと、大学卒業後に専門学校に来る人間も多いため、年齢的に浮く事も特にはない。何せ丁度、大卒後に専門に入る奴らと俺は同じ歳だからな。そりゃ、いきなりモンスターが現れる世界だし……手に職をと考える気持ちも分かる。

「怪我か?」

朝、席に着くと隣席の、八廣三葉にそんな事を言われた。
黒い髪に緑色の瞳をしている、この学院の王子様と呼ばれる同級生だ。
――そしてどう考えても、≪Oz≫のヤヒロだ。
嗚呼、お前の友達に殴られたんだよ★
そんな言葉を飲み込み、俺は笑みを浮かべた。
つぅかなんで最強ヒーローの一人が、ここにいるんだよ……。
「ちょっと、転んじゃってさ」
「伊織はドジだな」
「てへペろ★」
「きも!」
「うるせぇ」
俺は小突いてきた八廣の手を振り払った。一つ断っておくと、俺は別に八廣とのこうしたノリノリな会話は嫌いじゃない。八廣は顔面イケメンのため、何かと気を遣われて友達が少ない。そして俺は雰囲気イケメン(?)かつ、ノリキングであるため、八廣と話していても学校で”制裁”を受けない数少ない人間である。(通称パティシエ科以外にも色々あるこの学園内では、イケメンと話すと制裁をする人種が存在するのである。顔か性格のいずれかが不細工だとそうなる。ちなみに両方不細工な俺が許容されているのは、八廣とは入学式当日からの付き合いという、時間の長さ故だろう。)
「そ、そ、そういえばさ、昨日の、馬場のさ、≪Oz≫の見た?」
八廣の言葉に俺は顔を上げた。
自慢乙。
しかしそれを直球でつっこんだら俺も制裁を受けると思うので、笑顔を浮かべる。
「ああ。ゴーレムが出て、色々あって、少年を助けて格好良かったよな」
「……そうか?」
「おぅ! 特に、≪臆病なライオン≫!!」
お前だろ、と内心思いつつ、俺は笑った。
「っ」
「敵にも情をかけるあの優しさ!」
俺が言うと、八廣が頬を染めた。
「……ユウトもそう思ってくれるかな」
「……」
俺は笑顔のまま沈黙した。
そうなのだそうなのだ、俺は知っている。
≪Oz≫の≪臆病なライオン≫ことヤヒロ――八廣三葉(俺の同級生)は、≪靴はき猫≫の≪鼠(魔王)≫こと若山悠斗の事が好きらしい。正義の味方と悪役だ。
「ま、まあさ。とりあえず世界が平和なら良いだろ!」
俺は必死で話を変える事にした。
恋愛相談なんて冗談じゃない。
もし相談に乗れるほど俺が恋愛玄人ならば、とっくにカノジョがいるだろう!

ああ、今日も疲れたなと思いながら、放課後俺は帰宅した。

「!」

そして思わず足を止めた。
二階へと辿り着いた途端、通路に人が倒れていたからだ。
黒い髪と、血の気のない顔で目を伏せている白い横顔を見て、嗚呼昨日引っ越してきた人だなと確認する。端正な顔に、長い睫の影が落ちていた。
「大丈夫ですか?」
歩み寄ってしゃがみ、俺は声をかけた。
返答はない。
「あの」
しかし真っ青な顔で、倒れている青年は何も言わない。
「救急車か? いや、え、リアル……何、大丈夫なのか?」
慌てて俺は、彼の頬をペチペチとと叩いてから、首筋に触れてみた。
脈はある。って脈があることが分かったからと言って、俺にはそれを確認しても、生死の判別をするくらいのスキルしかない。
「っ、あ」
「あ、意識在ります? 大丈夫ですか?」
「……っ、は」
「ちょ、え? え? 救急車呼びますよ!?」
「やめ……大丈夫だから、ただの欠乏……っ」
欠乏?
何が欠乏しているのかは分からなかったが、顔を上げ眼を細めた端正な顔の彼を見て、俺は、何度か瞬きをした。多分、何が起きたのか本人は分かっているのだろう。
だとすれば、対処法や特効薬も持っているかも知れない。
「とりあえず、床に寝てたら、体に悪いだろ。部屋に運ぶから。俺、多分お前の隣人。良いか、俺の家に運んでも?」
「……ん」
端正な目元に涙をにじませ、虚ろな顔で頷いた青年を、もうこりゃYESでいいだろうと判断して、俺は自分の部屋へと引きずった。別に隣室に運んでも良かったのだが、鍵がなかったし、体をまさぐって鍵を取り出すのは躊躇われたのだ。
引きずるようにして室内へと招き入れ、寝台へと青年を寝かせる。
それからコップに水を汲んで、俺は、寝台の隣へと座った。
「大丈夫ですか?」
「っ」
「やっぱり、救急車呼びますか?」
「……――ん、あ」
「あの?」
コップをサイドテーブルに置き、俺は呻いている美青年をのぞき込んだ。
「!」
その瞬間、後頭部へと手が回り、気がつくと俺は顔を引き寄せられていた。
目を見開いたまま、唇を重ねられる。
「っ」
拒絶しようと藻掻いた瞬間、口腔に舌が入り込んできた。
「ぁ」
「――ん」
「っ、は、ぁ」
息継ぎをする度に鼻を抜ける声が響く。気づくと俺は、のぞき込んでいたはずが、後頭部を手で支えられ、押し倒されるようにして、深々と口を蹂躙されていた。
何がどうなっているのかよく分からないまま目を白黒させていると、体勢を立て直した美青年が、虚ろな目で俺を見て――それから我に返ったように目を見開いた。
「!」
「うあ」
突き飛ばされ、俺は、強制的に召し上げられた寝台の上で、後頭部をぶつけた。
「何するんだよ……」
「……っ、アマイモンの魔術師?」
「は? いきなりなんだよ――って、あ……」
睨め付けるような青年の眼差しと険しい声にかみつこうとした俺は、そこでハッとした。
「もしかしてお前……オロバスの魔術師?」
半信半疑で尋ねると、半眼で、忌々しそうな顔をして、青年が頷いた。
ソロモンの悪魔と呼ばれる各集団の中で、嘗て三強と言われたアマイモンの一族と、現在最強と言われているオロバスの一族は、魔力互換性があるのである。具体的に言えば、魔力を使いすぎて欠乏状態になったオロバスの魔術師は、アマイモンの魔術師と体液を交換する事により、魔力を補完できるのである。
「っ」
その事実を認識し、俺はヤバイと思って逃げようとした。
すると手を引かれ、そのまま、再び無理矢理口づけられた。舌を絡め取られ、深々と口腔を犯される。
「ん、あ」
「……」
「ふ、ァ、ま、待って」
唇が離れた瞬間に胸を押し返しながら、俺は言った。気づけば、目尻から涙がこぼれてくる。
「ふざけんな。行き倒れてたの回復するくらいには、魔力取っただろ」
「……」
「これ以上は、ただの自分の体の欲望だろ、魔力取るの。動けるようになったんなら、自制しろ」
「……」
俺の言葉に、青年が動きを止めた。
端正な猫のような瞳に見据えられ、苦しくなる。哀しそうな顔をしている。
本当、イケメンは滅べ!
何も俺は悪い事してないのに、何か悪い事した気になるだろうが!
「……誰?」
「藍洲。藍洲伊織」
「……ごめん」
「ああ、盛大に謝ってくれ」
「伊織さん――……」
「ん?」
「……何で俺の事助けてくれたの?」
「は? 普通道に人が倒れてたら助けるだろ」
俺が首を傾げると、綺麗な顔に不信を浮かべた後、フッと青年が笑った。
「有難う」
彼はそう言うと立ち上がり、帰って行った。
俺はよく分からなかったが、そんな誰とでもキスできるほどの玄人でもなかったので、一人で照れてのたうち回ったのだったりする。

以来名も知らぬ隣人と俺は、時折扉を開けると会うようになった。
意識してるのは俺だけみたいだったから、馬鹿げていたけどな。

「よぅ」
「……」
大抵コイツは俺をシカト。
「お前さ、それ、今日は第三火曜だから、出しちゃ駄目だぞそのゴミ」
「……」
俺がそう言うと、そいつは立ち止まった。
俺よりも、少しだけ背が高い。
淡々とこちらを見おろしている。
「あ、あのさ……そ、そうだ……スコーン在るんだけど食べる?」
学校の仮題で練習して作った品の事を思い出して、俺は視線を逸らしながら言ってみた。
他に話題が思いつかなかった。
「……」
すると疑うように、青年が眼を細めた。
改めて隣室の表札を確認する。
稲屋蓮二が、彼の名前であるらしい。イネヤさんだろうか?
だが呼びかける勇気はない。かといっていきなり親しげに、蓮二君とか呼んでみるのも気がひける。しかし蓮二って、レンジか。家電か。不思議な名前だ。
「や、べ、別に、嫌なら良いんだけど」
慌てて視線を背け、俺はいつもの通り部屋に入ろうと思った。
「……なんで?」
「へ?」
だがその時、珍しく声が返ってきた。イケメンは声まで綺麗だとか……!
俺は驚いて、我ながら狼狽えた声を上げてしまう。
「何が目的なの?」
「も、目的?」
強いて言うならば、よく会う隣人と親交を深めたいというのと、不可抗力だろうとはいえキスしてしまった記憶を薄めるために別の記憶をかぶせたい、と言うことはあるかも知れない。しかし蓮二君の声は、なんだか冷たかった。
「……本気でさ、僕にスコーン食べて欲しいとか思ってないよね?」
底冷えのする声と、鋭い眼差しに、そんなに迷惑だったのかと俺は項垂れた。
だが、俺のお菓子を食べたことなど無いくせに、何でこんなに嫌そうなのだろう。
「? 悪い、迷惑だったよな」
ただ相手を不快にさせたのだろう事は分かったので、首を傾げつつも俺はわびることにした。別に嫌がらせをしたいわけではないのだ。
「っ、僕に、ただ単純にお菓子を食べて欲しいって思ってるの? お裾分けとかそう言う?」
「あ、ああ。ごめん」
困惑している表情に変わった隣人を見て、素直に俺は謝った。
何で謝る必要があるのかはよく分からないが、そこまで困らせてしまったのだったらと思ったのだ。
「……馬鹿なの?」
「? え、いや、え?」
「……もういいよ」
何故なのか、彼は疲れ切ったような声を上げた。
よく分からないが、隣人には隣人なりのなにがしかの葛藤があったのだろう。
そんなやりとりがあって以来、俺にはよく分からなかったが、俺が学校の仮題の練習用で作るお菓子を食べに来てくれるようになった。