【六】
――天気予報に雨のマークが並んだ次の週。本日、泊まり勤務である槙永は、始発出発後に駅へと到着し、黒い傘を閉じた。一昨日から雨が降り続いている。
深水町は近くに峠があり、その向こうに海がある。結果として、冬の雪と、時に襲い来る豪雨が多い。古来よりそうだったらしく、氾濫する深水川を象徴的に水神や龍として表現した昔話も多い。
「はぁ……っ、歳には勝てないなぁ」
気候も秋に近づき寒くなったこの日、日勤である田辺が腰をさすった。槙永が視線を向けると、駅長の田辺が苦しそうに呻く。
「腰が……ぎっくり腰の気配がするんだよねぇ。痛くて痛くて……」
「もう四時ですし、早めに上がられては?」
「良いかい?」
「ええ。後は俺が」
まだ最寄りの整形外科の個人クリニックが開いている時間帯だった。今から急げば、診てもらう事が叶うだろう。そう判断して槙永が告げると、申し訳なさそうに田辺が手を合わせた。
「有難う、悪いねぇ。残りの終電、それと駅の閉めの作業、お願いするよ」
「はい。お大事になさって下さい」
槙永が頷くと、心なしか安堵した顔をしてから、田辺が退勤した。
そうして五時が過ぎ、終電の発着が行われる頃、この日も青辻が最後に降りてきた。
改札後、槙永は、青辻と雑談したいと思ったが、一人きりなので、その間も無いと判断し、ホームに直行して電車内の清掃を手伝ったり、終電が戻っていくのを見送ったりしていた。その間にも雨脚は強くなっていく。
だがその後、ホームでの最終作業を終えて、続くドアの鍵を閉めてから待合室に戻り驚いた。ベンチに青辻が一人、座っていたからだ。
「今日、駅員室は誰もいないみたいだけど、日勤は田辺さんじゃなかったか?」
「……腰痛だそうで」
「個人情報に答えてくれるようになったな」
「っ、その……田辺さんは、青辻さんを息子のように思っていると仰っていたので」
「はは、そうか。でも、一人じゃ大変だろう?」
「スマホに電話を転送するようにしてあるので、なんとか。何かご用事でしたか?」
「いいや。槙永くんを待っていただけだ――った、んだけどなぁ。これだ」
青辻はそう述べると、チラリと出入口に振り返った。見れば、激しい雨が吹き付けている。
「傘を持ってこなかったが、そういう状況でも無かった」
苦笑した青辻が嘆息した時、槙永のスマートフォンが音を立てた。これは、駅員に支給されている品だ。
「すみません、失礼します」
「ああ、出てくれ。仕事の邪魔をしているのは、俺の方だ」
答えた青辻に一礼してから、槙永は電話に出る。
「はい、眞山鉄道深水線深水駅、槙永です」
『こちらは眞山営業所の――』
かかって来た電話の内容は、豪雨についての注意喚起と、先程発った電車が今宵は深水駅と眞山駅の間の唯一の有人駅で停車するので、始発が遅れるという連絡だった。
電話をしたまま駅員室へと戻り、情報をメモし、起動中だったパソコンではメール連絡を確認したり、眞山鉄道が入れているシステムで明日の時刻表の確認をしたりした。
それらが落ち着くのに二十分ほどかかった。
降雨時の緊急対応を、槙永はこれまで一人でこなした事は無かったが、昨年は田辺と共に行っていたので、問題なく処理は出来た。場合により、明日は運行が休止するそうだ。そうして、それらを明日勤務予定の澤木と、駅長である田辺にも連絡する。
同時に田辺からは腰の具合を聞き、幸いぎっくり腰では無かったと知った。
一人での泊まり勤務であるからと、心配した田辺が、あれこれと槙永に指示や助言を行ってくれたので、それらもメモを取りながら、槙永は冷静に対応したいと考えた。
それらの作業を終えてから、券売機の電源を落としていないと気が付き、同時に青辻はどうしただろうかと考えて、槙永は待合室へと向かった。
「青辻さん……」
「俺が泊まってる所までの道に、木が倒れたらしい……雨だから撤去は明日だそうだ」
車の鍵を片手に、青辻が困ったように笑っている。槙永は頷いた。
「緊急時は、駅に避難が可能です。上に仮眠室と、一般開放用の倉庫があります。この場合は俺達二人ですので――マニュアルだと仮眠室とシャワー室をお貸し出来ます」
淡々と槙永が伝えると、青辻が何度か頷いた。
「悪いな、帰りにぬかるんだ土を踏んで、靴がドロドロなんだ。大至急借りたい」
「分かりました」
青辻を促して、駅員室へと向かう。本来は部外者は立ち入り禁止だが、緊急時は別だ。排水溝の関係で、シャワー室は一階にある。
「どうぞ。タオルは脱衣所のものを。他に、着替えなどは必要ですか?」
「鞄に常に入れてある。これでも山には慣れているぞ」
「確かに深水は山の上ですからね」
このような雑談が出てくるようになっただけ、ここ二週間程度で、だいぶ槙永は青辻に慣れた。微笑して、青辻がシャワー室に入る。見送りながら施錠音を聞いた槙永は、その後、状況確認を行う為、再びパソコンの前に移動した。
明日の運休が本格的に決定し、警報の状況次第で、槙永も帰宅するようにという眞山営業所からの指示を再確認していると、鍵の開く音がした。
「有難う、借りたよ」
時刻は七時を回っていた。頷き、二階の仮眠室へと続く階段を、槙永は見る。
「二階に仮眠室があります、どうぞそちらへ。ご案内します」
椅子から立ち上がり、槙永は階段の扉を押した。素直に青辻がついてくる。倉庫脇の仮眠室は、救護室も兼ねている為、万が一に備えてベッドは簡素だが二つある。その隣の倉庫は、備品や毛布、食料などがある。
「お食事はどうされますか?」
「携帯食を持っている。気を遣わないでくれ。借りられるだけで有難い」
「何かお困りの事がありましたら、お声を」
「槙永くんは、まだ仕事か?」
「もう確認作業は終わったので、緊急時の連絡のほかは、俺も待機です。なので今の内に、シャワーを済ませてしまおうと考えていて。この後何があるか分かりませんから」
「俺の事は気にしなくて良い。有難う、槙永くん」
青辻の言葉に頷き、槙永は階下へと戻った。そして手早くシャワーを浴びた。一日くらい入らなくても平気かとも思ったが、万が一明日の日中になっても避難指示が解除されなければ、救助を待つ立場に変わるので、入れる内に入っておく事に決めた結果だ。
脱衣所には音量を大きくしたスマートフォンを置き、いつもよりずっと早く髪や体を洗う。駅員の制服は予備の品がロッカーにある。仮眠時用のラフなシャツ等もいくつかストックがあった。シャワーを出てから、髪を乾かして、槙永は着脱しやすい服に着替える。そして持参していたおにぎりを見てから、溜息をついた。携帯食があると青辻は語っていたが、本当に大丈夫だろうかと、不安になる。
無理をさせていないだろうか、過ごしにくくは無いだろうか。グルグルとそう考えたのは、恋心からというよりは、槙永が真面目な駅員だからだ。
その後、夜の十一時まで、青辻の心配をしながら、槙永は駅員室に待機していた。しかし追加連絡も無く、今宵は終了となり、仮眠の時刻となった。槙永は冷えたおにぎりを鞄に入れたまま、それを手に二階へと向かった。
そして静かにノックすると、青辻の返答があった。起こしてしまっただろうかと不安に思いながらも中に入ると、そこにあるテレビの電源をつけて見ていた様子の青辻が、槙永に振り返る。
「今夜が一番酷くて、朝にはやむらしいな」
「ええ。眞山営業所からも、田辺さんからも、あまり心配はいらないだろうと言われています。青辻さんもご安心下さい」
努めて冷静に、落ち着かせるような声音を心掛けて、槙永は述べた。自分だったら、そう言われたいという想いもあった。
「ああ。有難う。心配は特に無い。この辺りでは、珍しいと言えるほどの雨量では無いからな。木が倒れたとさえ聞いていなければ、車を走らせた自信がある」
「それは危険だと思います」
「――それと……槙永くんを一人にさせるのが不安だったというのもある」
「俺は頼りになりませんか?」
「いいや? 田辺さんより頼りになるように見えるぞ」
真面目に聞いた槙永に対し、青辻は笑顔で首を振る。
「単純に俺が心配だったと言うだけだよ」
「心配なのは、頼りにならないからでは?」
「頼りになる、ならないは、関係ないな。心配をする事に、理由がいるか? まぁ、座ってくれ。俺が言うのもなんだが」
青辻はそう言って微笑すると、仮眠室のソファを視線で示した。二人掛けのソファで、その位置は青辻の横である。少し戸惑ってから、小さく頷き、槙永は移動した。そして座ってから後悔した。思いのほか、距離が近い。これならば、空いている二つのベッドの片方に座る方がマシだった。ただでさえ他者に対して緊張するのに、至近距離に恋する相手がいたら、なおさらだ。
「きちんと夕食はとったか?」
「……青辻さんこそ」
「俺の鞄は、基本的に着替えと食べ物と撮影に使うものしか入っていない」
その言葉にゴミ箱を見れば、確かに食べ物の空袋が見えた。頷いてから、おずおずと槙永が切り出す。
「宜しければ、ただの塩のおにぎりならあります」
「槙永くんの手作りか?」
「まぁ」
「それは魅力的だが、槙永くんは何を食べたんだ?」
「……ええと」
「食べていないと見た」
「っ……一食くらい、何も食べなくたって、俺は平気です」
「だからそんなに細いんだな。抱き心地が悪そうだ」
「は?」
抱き心地なんていう言葉が飛び出したものだから、不意打ちされた気分になり、槙永は露骨に赤面してしまった。すると青辻が呆れたように笑う。そして視線をテレビへと戻した。
「槙永くん、気をつけろよ。俺は男もイける口だからな」
「えっ」
「バイなんだよ、俺は。好きになると、性別を問わないタイプだ」
驚愕して、槙永は目を見開いた。しかしテレビを見たままの青辻は、それには気づいた様子も無く、つらつらと続ける。
「去年まで付き合ってたのも男だ」
「……」
「槙永くんみたいな男前の美人は、俺にとってドストライクだから、本当に気をつけろよ。ま、無理強いは趣味じゃないが、隙だらけの姿を見ると、押し倒したくなるというのは本音だ。そのTシャツ、ちょっと大きすぎるんじゃないか? いつもきっちりした制服だし、この前の撮影の時だってそこそこ洒落たシャツだったのに、今見える鎖骨は目に毒だ」
なんでもない事のように、青辻が述べた。唖然とした槙永は、それからゆっくりと二度、大きく瞬きをした。
「……本当に、バイなんですか?」
「おう。気持ち悪いか?」
「いえ……」
「そりゃあ良かった。槙永くんに嫌われたら悲しいからな」
「嫌ったりしません。そういうのは、個人の個性で自由で、その……」
「フォローして欲しいわけでもないぞ?」
「本当に違うんです。そうじゃなく……」
己も同じであるからと言いかけて、槙永は口を噤んだ。青辻の言葉が、ただの冗談でない保証は無い。青辻が無駄な嘘をつくような人間には思えなかったが、自分の性癖を公言する事は、槙永にとっては恐怖だった。
その為言葉を探していると、青辻がテレビの画面から槙永へと視線を向けた。そして短く息を呑んだ。
「顔、真っ赤だぞ。ひかれるかもしれないとは思ったが、意識されるとは思わなかった」
「べ、別に俺は――」
「意外と槙永くんは、無表情に見えて顔に出るんだな」
指摘され、より一層槙永は赤面してしまった。上気した頬が熱い。自分自身でもそれが分かるほどで、思わず俯く。青辻がそっと槙永の肩に触れたのは、その時だった。
「そんなに緊張するな。傷つくだろ。別に取って食おうとしているわけじゃ――拒まれ方次第では、無いぞ。俺に触られるのは嫌か?」
「な、何を言って……」
「気持ち悪いか?」
「気持ち悪くないです。嫌じゃないです!」
自分が仮に拒絶されたら、絶対に傷つくからと、そう思って大きな声で槙永は反論してしまった。すると青辻が喉で笑う。
「ふぅん。槙永くんは、男もイけるのか?」
「……っ」
「その沈黙は肯定と取る。今、恋人は?」
「いません」
「それは事実みたいだな。田辺さんと澤木くんにもリサーチ済みだから根拠もある」
「はい?」
「キスしたい。俺にキスされるのは嫌か?」
「何を言って――……ッ」
ソファの端まで逃げた槙永の後頭部に手をまわし、青辻が掠め取るように唇を奪った。驚いて反射的に槙永が目を閉じる。すると一度唇を離してから、青辻が再び啄むようにキスをした。槙永は唇に力を込めて、その感触に怯えていた。
誰かと、このように口づけをしたのは、まだ周囲に同性愛者だと露見する前が最後だ。四年は前の話だった。だから決して経験が無いというわけではなかったが、緊張と怯えの方が強い。
「槙永くん、口、開けて?」
青辻の言葉に、目を閉じたままで、逆にギュッと槙永は唇を引き結んだ。すると、青辻が槙永の下唇を舌でなぞりはじめる。そうされる内に、体がフワフワとしだした。
思わず目と唇を薄っすらと開けると、真正面にあった青辻の顔がより近づいてきて、迷いなく深々と槙永の唇を奪った。逃げようとする槙永の舌を、青辻は追い詰める。
歯列をなぞられ、濃厚なキスで舌をひきずりだされ、甘く噛まれた瞬間、槙永の背筋を甘い快楽が駆け抜けた。
「ん、ンふ」
しかし青辻は腰を引こうとした槙永を許さず、Tシャツの下に手を差し入れて、胸の突起を探り出し、敏感な乳頭を刺激しながら、角度を変えてキスを続ける。
「っ……ッ、ン……は」
漸く唇が離れた時、槙永はTシャツを開けられていた。そして直後、青辻に右胸の乳首を口に含まれた。
「ぁ……ァ……」
少し強めに乳首を吸われ、体が震える。すると左胸の尖りに手で触れながら、青辻が窺うように槙永を見た。
「勃ってる」
「!」
その言葉に、自身の陰茎の反応を認識して、槙永は蒼褪めそうになった。これでは、同性愛に嫌悪が無い事はおろか――体が青辻を欲しているのだと、露見してしまう。
「ち、違うんです、これは……違……」
「何がどう違うんだ? 教えてくれ」
「違うんです、だ、だから……止め、止めてくれ」
「――俺が怖いか?」
「青辻さんは怖くない、でも……みんなが怖い」
快楽と恐怖の狭間で、思わず槙永は本音を口走った。すると、ピクリと青辻の動きが止まった。
「みんな?」
「変に……変に思われる……それが怖くて……だから……」
気づけば槙永は涙ぐんでいた。普段のどこか凛々しくさえある、内心とは乖離した無表情のかんばせが、今は紅潮し、どこか怯えた草食獣のようにさえ見える有り様だ。怯えたように震えるその姿を一瞥した青辻が、手を放して優しく槙永の髪を撫でる。
「変な事なんか無い。が――この世界に、偏見がないとも俺は言わない。ただな、槙永くん。俺は、酷い事はしないよ。大丈夫だから」
「……」
「泣かないでくれ。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ。あー、俺はダメだな。気になる麗人と二人きりで、気を良くしていた」
微苦笑した青辻は、そう述べると槙永を抱き起し、正面から両腕を回す。
「男だから嫌なわけじゃなさそうだな」
「……っ、その……」
「何があった? 聞かせてくれないか?」
耳元で青辻に囁かれ、思わず槙永は目を閉じる。槙永の眦から零れた涙を、青辻が指先で拭う。その優しい温度に絆され、槙永は思わず過去を口にした。