【七】
「――だから、俺は人が怖いんです。話すのも苦手になって……」
静かに耳を傾けていた青辻は、聞き終えるとあやすように槙永の背に触れた。二度叩くようにしてから、槙永の額に口づけ、そうして優しい顔をする。
「辛かったんだな」
「……でも、青辻さんの写真が、俺を救ってくれたんです」
「俺は今、人生で一番、写真を撮っていて良かったと思っているよ。槙永くんを、救う事が出来たんだな、俺は」
それから涙で濡れている槙永の頬に親指で触れてから、青辻は再び触れるだけのキスをした。
「ただ、残念ながら実物の俺は、そんなに出来た人間では無いんだ。純粋に、槙永くんを魅力的だと思って、欲しいと思って、機会があるからと唇を重ねた。逆に、俺に幻滅したんじゃないか?」
「そんな事は無いです。会えば会うほど……俺は……」
「俺の事が好きか?」
「……良いんです。ご迷惑をかけるつもりは無いですし、その……また『変』な事を俺は……」
「だから何も、何一つも、変じゃない。正直に言って良いか? 俺は槙永くんに好かれているのが嬉しいぞ?」
「……」
「次の休暇は、いつ?」
「本当なら、明日――……でも、色々あったので、状況的に来週の月曜日だと思います」
「じゃあ月曜日。良かったらそのお休みを俺にくれないか? もっと、じっくりと話がしたい。プライベートで。槙永くんと」
「青辻さん……」
「弱ったな。俺は槙永くんを美人だとは思っていたんだけどな……思っていたよりも本気になってしまっていたみたいだ」
「な」
「槙永くんと過ごしたいんだ。だから、俺に時間をくれ」
そう言うと、今度は槙永の頬に、青辻がキスをした。その柔らかな感触と温もりが現実のものだと、暫く槙永は信じられなかった。
「少し、眠った方が良い。仮眠の時間だろう?」
槙永は、優しい青辻の笑顔を見てから、ゆっくりと立ち上がった。そして簡素な寝台へと移動し、改めて横になる。
「おやすみなさい」
「ああ。月曜日は、何時が良い?」
「……一日中暇です」
「じゃ、昼食を一緒に食べよう。十時半に、駅に車で迎えに来る。勿論、それ以外も俺は毎日撮影に出るから、会える時は会おうな?」
「……はい」
「約束だぞ? おやすみ」
その後槙永は、泣きつかれた事もあり、すぐに寝入った。
翌日の早朝には、空模様が青く回復し、槙永が身支度を整えて待つ頃には、田辺がやってきた。青辻を見送り、槙永もまた帰宅を促されて、引継ぎ後家へと帰った。
トースターに食パンを入れてから、暫くその場で立ち尽くし、槙永は昨夜の出来事を回想していた。
想い人が、バイだった。同性愛者の槙永から見れば、それはある種の幸運だ。
そして次に会う約束もした。駅員と写真家という職務上の繋がりを超えた、プライベートで――これもまた、嬉しくてならない。
だが青辻に吐露してしまった過去も、そしてたとえば、他の誰かに青辻との会話を聞かれる事も、即ち第三者に知られる事も、いずれも槙永にとっては恐怖でしかない。
赤く色づくトースターの内部、焦げていくチーズを見ながら、槙永は溜息をついた。
今、万が一にでも、この平和な深水での暮らしを失ったならば、今度こそ生きてはいけないという確信がある。
(嘘をつく人だとは思わないけどな……どこまで、本気だったんだろう)
トースターが音を立てるまでの間、槙永はその場に立ち尽くしていた。
次に顔をあわせる時は、どのような顔をしたら良いのだろうかと思案しながら、あまり味のしない朝食を噛む。
そうしつつ眺めた写真サイトには、昨日撮影されたのだろう、曇天の中を通る電車の写真が、新しく掲載されていた。
その後は眠り、翌一日はゆっくりと休日の惰眠を貪ってから、少し変動があったもののほぼ元々のシフトと同じ状態で、槙永は通勤した。その日の朝と夕は、青辻の姿が無かった。駅の窓を拭きながら、槙永はどこかで青辻の姿を探していた。
結局それ以後、日曜日まで青辻と会う機会は無く、半信半疑で月曜日の九時半に、槙永は駅へと向かった。
すると停車していた黒いワゴン車から、青辻が顔を出した。
「良かった、来てくれて。俺の宿泊先が、北欧料理の店なんだ。十一時に予約を入れてあるから、少し早いというか……まだ、一時間も前だぞ?」
「青辻さんだって、いるじゃありませんか」
「俺は七時からここにいた。絶対に逃すつもりは無かったからな」
それを聞いて、珍しく槙永の表情筋が仕事をした。形作っているのは、苦笑だったが。
「逃げたりしません」
「そうか。俺は基本的には、据え膳はきちんと食べる主義なんだ。恋人がいない限りはな。そして、今俺はフリーだ」
「あの、ひと目があるので、そういう事はあんまりその……」
「安心してくれ。槙永くんに迷惑をかけるつもりは毛頭無い。ただ、俺は隠すつもりも無い」
一切安心出来ないなと、槙永は再び苦笑した。
「ま、少し早くても良いだろう。行くか」
「北欧料理のお店って、都会からセミリタイアしてきた方が経営されているっていう、完全予約制のお店ですか?」
「お。よく知ってるな。そこで、あってるはずだ。あいつは、北欧に留学していて、そこで料理を学んだ奴でな。この深水の雪質が近いからと、ここを選んだんだよ」
「そうなんですか」
「ああ。料理の腕は一級品だ。俺が保証する」
青辻が車を発進させた。槙永は、その横顔を見ながら、静かに頷く。
それから二十分ほど走り、車が小さな三階建てのペンションの駐車場に停車した。一階がレストラン、二階と三階が、オーナーの居住スペースと宿泊施設を兼ねているらしい。
冬季にスキー場がオープンすると、予約でいっぱいになるという話だ。夏季は、避暑をするには夏も暑い土地柄でもあるので、青辻のように都会で縁がある者の宿泊を予約で受け付けているのみとのことだった。
「深水に来る時は、俺は必ずここに泊まるんだ」
そう言って青辻がドアを開けると、鐘の音がした。奇抜なデザインの扉とはめ込まれた窓のペイントは、そこだけ切り抜いても御伽噺に出てきそうな代物だった。
青辻に促されて中に入ると、目を惹く絨毯やインテリアがあり、カウンターの奥にいた青年が振り返った。可愛らしいアップリケが施された黒いエプロンをしているオーナーが、カウンター脇から出てくる。
少し年上に見える青年は、柔和に笑うと片手で席を示した。
「泰孝が人を連れてくるのは初めてだね。ようこそ、歓迎します。この店のオーナーの、常盤偲と言います。今日は、ゆっくりなさって下さいね」
細い目を更に細めて、唇で弧を描いている青年オーナーに、緊張しながら槙永は会釈した。本日の予約客は、青辻と槙永の二人のみらしい。促された窓辺の席に座し、目の前にある皿を槙永が見る。
「メニューは、お任せのみなんだ。最高のものを頼んでおいたから心配しないでくれ」
チラリと見たメニューの金額に、槙永はカードを使えるか聞きたくなった。
割り勘であるならば、手持ちでは足りない可能性が高い。北欧料理の店に足を運んだのは人生で初めてだったが、かなり値が張る。
「青辻さん、あの……カードって使えますか?」
小声でひっそりと聞いた時、丁度飲み物をもって常盤が現れた。
「使えるけど、もう泰孝から貰ってますよ?」
「ああ、食事代か? 槙永くんは気にしないでくれ。誘ったのは俺だ。俺が払う」
「で、でも……」
困惑して槙永は反論しようとしたのだが、手持ちが無いので言葉にならない。すると常盤が楽しそうに笑った。
「おごらせておけば良いんですよ。泰孝は、こう見えて、セレブリティって奴ですしね」
「否定はしないが、俺は好きじゃない奴にはおごらないぞ」
「おやおや。では、僕は毎回ご馳走になっているので好かれていると思って良いのですか?」
「おい偲! 槙永くんの前で語弊がある言い方をする必要性があるのか?」
「恋のエッセンスでしょう?」
「はぁ? 邪魔だ邪魔。必要以上に近づくな」
「どうしましょうかねぇ。何度も見に来てしまうかもしれません」
「その度に、料理を持ってくるならば、かろうじて文句は言わない」
実に親しそうな二人のやり取りを見て、槙永は少しだけ胸が痛くなった。何度も宿泊しているなどの理由があるのかもしれないが、そもそも呼ばれ方からして違う。オーナーは苗字ではなく、『偲』と下の名前で呼ばれているが、槙永は苗字だ。そんな事すら気になってしまう。それだけ槙永は、青辻を意識していたし、既に好きになっていた。
「どうかしたか?」
常盤がカウンターの向こうの厨房に下がった時、青辻が首を傾げた。慌てて槙永は姿勢を正して首を振る。
「い、いえ……素敵なお店だと思って」
実際、それは本音でもあった。窓枠にも小物が飾られている。まるでおもちゃ箱の中に入ったような印象を与えるレストランだ。
「嘘だな。これでもな、俺だって相応に、槙永くんの事をここの所見ていた自信がある。その仏頂面の中にも、感情の機微をそれなりに見出せるようになったという自負があるぞ」
「……いえ、本当に素敵なお店だと思ってます」
「その部分は本音にしろ……今、嫉妬してただろ? 俺と偲の仲に」
「な」
「その反応、図星だな。やっぱり、慣れてくると分かりやすいな」
「だ、誰かに聞かれたら……」
「今日は俺達しか客はいないし、偲には『話してる』」
その言葉に驚愕して、槙永は目を見開いた。
「偲は俺の従兄なんだよ。ただの親戚だ」
「!」
「家族にも紹介するくらい、俺は槙永くんに対して本気だ。そう取ってもらっても良いし、心配は不要だと考えてもらっても良い。偲の口は堅いぞ?」
事態への理解が追い付かず、槙永は動揺した。厨房に見える常盤の姿をチラリと観察してから、声を潜めて青辻に問う。
「本当ですか?」
「俺は嘘が嫌いだ」
「……本気って、どういう意味ですか?」
「そこから解説が必要なのか?」
槙永は期待を込めて、それなりに勇気を出して尋ねたのだが、青辻は余裕たっぷりに笑うと、そんな風に述べた。躱されたように感じて、顔を背けて槙永は窓の外を見る。他にも、訊きたい事はあった。
「青辻さんは、いつまで深水にいるんですか?」
「いつも気分で移動しているが……そうだな。次の大きな仕事は九月の下旬に控えているんだ。どうしても俺にと、言ってもらっていてな。俺はその期待に応えたいと思ってる」
思いのほか、すぐに旅立つという知らせを聞き、槙永の胸中がざわついた。
そこへ料理が運ばれてきた。
常盤が並べる皿を見ながら、前回の青辻は、二年半この界隈に来訪しなかったのだったという話を思い出す。住む世界が違う以上、会えなくなるのは仕方がない事だ。ただそれと同じくらいに、親しげな青辻と常盤の様子に胸が苦しくなった。己は、下の名前すら知られてはいないだろう。名前で呼ばれる日が来る事も無いはずだ。そう思えば、胸がジクジクと痛む。
「味はどうだ?」
食べ始めてから、フォークを片手に持った青辻に尋ねられた。胸が痛くて、槙永は笑顔を浮かべる事に必死になる。
「美味しいです」
実際、普段の簡素な食生活に比べれば、料理が美味なのは間違いない。
けれど、青辻が行ってしまうのだと思えば、味わう余裕などどこにも無かった。だから青辻がいつものように世間話を振ってきても、だいぶ慣れたはずなのに、どこかぎこちなくなってしまい、上手く返答出来ない。
今後訪れるだろう別離による寂寞への危惧と些細な嫉妬心が、心を蝕む。
「――槙永くんは、社宅に住んでいるんだろ?」
青辻の言葉で我に返ったのは、常盤が食後のコーヒーを持って訪れた直後の事だった。顔を上げ、槙永は頷く。
「駅員さんがどんな家に住んでいるのか、見てみたい」
「構いませんけど……何もありませんよ?」
「お。それは遊びに行っても良いというお許しだな?」
「ですから、それは構いませんけど……」
「隙だらけはどうかと考える。そう前にも話したと思うけどな。俺は傷つけたくないし、傷つきたくもないから事前に言うが、槙永くんの家に行きたいと話してる」
「え?」
「俺を嫌いなようには見えないが、今日は終始暗い槙永くんに訊きたい。行ったら、俺は何もしない自信は無いぞ?」
その言葉に、意味を理解し、反射的に右手で唇を覆う。それから思わず、チラリと常盤を見た。
「俺なんかより、ずっと美人があそこに立っているんじゃ?」
「嫉妬をしてもらうと気分は良いが、あれはただの従兄だ。しいて言うならオブジェだ」
「聞こえていますからね」
槙永の声は小声だったが、青辻の声音はいつも通りの大きさだったからなのか、きっぱりと常盤から返事があった。槙永が思わず咽る。すると青辻が片目だけを細くした。
「この後、出かけてくる」
「まだ槙永さんは同意していないのでは?」
「今から同意を取り付ける。槙永くん、良いだろ?」
赤面した槙永は、混乱しながらも、無意識に頷いていた。