【十】
フキの手術が無事に成功し、退院したその日は、青辻が次の仕事へと発つ日だった。
引き取りに行ったのは田辺夫妻で、快癒するまで暫くの間は、猫の駅長としての仕事はお休みするという事に決まった。
当日泊まり勤務だった槙永は、車で町を出ていった青辻を見送る事も出来なかった。
朝焼けの見える時間が、以前よりずっと遅くなっている事に気づきながら、券売機の電源を入れる。
そしてまだ一人きりの駅員室へと戻り、私物のスマートフォンを鞄から取り出した。
実を言えば、青辻とは連絡先の交換さえしていない。
フキの怪我の件で、バタバタしていた為、寝台では口走ったが、好きだと明確に伝える機会すら無かった。
青辻に会う事の無い朝も、そして終電の時刻も、とても寂しい。
(まるで、夢を見ていた気分だな……良い夢だったな)
槙永がそんな風に感じるようになった頃、深水の自然は色づき始めた。
山の木々は紅や黄色に輝いていて、紅葉まっさかりの季節となった。深水の秋は一瞬であるから、十月の風景は貴重だ。十一月の半ばには、雪が降る事も多い。
寒さが増してきたある日の朝、本日の日勤である田辺がフキを久しぶりに連れてきた。フキが正式に猫の駅長として復職する事に決まったからだ。
柔らかな猫の頭を撫でながら、槙永は優しい目をする。泊まり勤務だったので、この日は入れ違いに退勤して、一度家へと戻った。
そしてチーズトーストを噛みながら、青辻の写真サイトを見る。青辻は風景写真が専門のようだが、仕事で頼まれて、近代アート等を撮影する事もあるらしい。
当初は深水関連の写真を繰り返し見ているだけだった槙永だが、現在は日々更新される他の掲載写真も閲覧するようになった。
一方的なファンに戻った形だが、それでも写真を見る度に、青辻の存在と気配を思い出せるから、とても幸せだと感じる。
(また、来てくれ日があるかな、深水に。ああ、きっと来てくれるだろうな。そうしたら、今度は勇気を出して連絡先を聞いてみよう)
そう考えながら、味気ないパンを食べ終え、槙永は眠った。
翌日は休暇をはさみ、その次は日勤だった。支度を整えて、早朝の駅へと向かう。駅の外に置いてあったバケツの表面には、氷が張っていた。思わず両腕で体を抱きながら、花壇に降りた霜を見る。既に、十一月に近い。
平穏な生活を祈っていたはずの槙永は、青辻がいない日々の味気無さにも気づきつつあったが、軽くかぶりを振って、そんな思考を追い払った。この土地で、今後も穏やかに、己は生きていきたいと考える。
泊まり勤務だった澤木と合流し、始発の作業を手伝い、それからは駅の清掃をした。遠くの土手にはススキが見える。
(今日の仕事は、後は終電の発着を待つだけだな)
槙永は日勤の最後の仕事として、終電を迎えるべくホームに立った。今日は乗車客は誰もいないので、降りてくるかもしれない誰かを待つだけだ。それも、いないかもしれない。車掌以外が無人というのは、決して珍しい事では無い。それが深水駅の日常だ。
入ってくる電車を見守っていると、気持ちが冷静になる。
停車した電車のドアが開くと、この日は、一人の青年客が降りてきた。
「元気にしていたか?」
降りてきた青辻の姿を見て、虚を突かれた槙永が息を呑む。微笑している青辻の姿は、以前と何も変わらない。
「和泉に会いたくて、おかしくなりそうだったよ」
そう言うと青辻は、切符を槙永に見せた。昨日の掲載写真の事を考えると、現地から電車を乗り継いでやってきたらしい。
目を丸くしてから、それを確認し、改札へと槙永が視線を向ける。青辻が歩き始めたので、慌てて追いかけて、切符を回収した。
「今日は日勤か?」
「はい」
「待ってる」
それを聞いて、己の仕事を思い出し、急いで槙永はホームへと戻った。そして中の清掃を手伝い、再び走り出す電車を見送る。
その後、夢を見ているのではないかと疑いながら待合室へと戻れば、駅員室の小窓の向こうにいる田辺と話している青辻の姿が確かにあった。
「お疲れ様」
声をかけられて、動揺していると、フキが足元にすり寄ってきた。それを一瞥した青辻が、今度は屈んで柔らかな笑顔を浮かべる。
「元気になって良かったな。お前もまだまだ現役で頼むぞ」
喉で笑ってから、フキに向かって青辻がカメラを構えた。
槙永は何とか平静を保とうと努力しながら駅員室へと入る。そして残りの仕事をしながら、胸の動悸に苛まれていた。
再会したら、どのように、何を話そうかと、何度か考えた事があったはずなのに、何も言葉が出てこない。
それから泊まり勤務の田辺に仕事を引き継いで、槙永は駅員室から外に出た。すると専用出入口の扉のすぐ外に、青辻が立っていた。
「前に来なかった二年半よりも、今回の約一ヶ月の方が、長く感じたぞ俺は」
ブラックの缶コーヒーを、青辻が槙永に差し出す。
それを受け取り、ぎこちなく槙永は頷いた。
「今回はどのくらい滞在なさるんですか?」
「偲の店には一週間くらいだな」
ならば再び別れが来る。青辻が不在の日々は、当初とても辛かった為、それを思えば苦しいが、再会出来た喜びの方が強い。
「家が決まり次第、一度戻って車や引越しの手配をして、それからはずっといる」
「――え?」
だが続いて響いた青辻の言葉の意味を上手く咀嚼出来なくて、槙永は首を傾げた。
「俺も、深水町に越してくる事に決めたよ。今後は、この土地の自然を撮る事に専念する」
青辻は己の分の缶コーヒーを傾けると、それを飲みこんでからじっと槙永を見た。
「いつでも、和泉の隣にいられるように。辛い時も。いいや、それだけじゃなく、隣にいて、俺が幸せにする。約束だ」
「青辻さん……」
その言葉が嬉しくて、思わず槙永は口元を綻ばせる。
「歩こう。少し話がしたいんだ」
二人は並んで歩き始めた。雲の輪郭を月が際立たせている。
「和泉。言い忘れた事がある。それもあって急いで来たんだ」
「言い忘れた事?」
「俺の恋人になってほしい。きちんとは、伝えていなかっただろ?」
その言葉に、槙永の胸が締め付けられた。頬が自然と紅潮し、思わず涙ぐむ。
「本当に、俺で良いんですか?」
「和泉が良いんだよ」
青辻が苦笑している。
慌てて何度も何度も槙永が頷くと、その手首に、そっと青辻が触れた。
「後は連絡先を聞くのも忘れた。教えてくれ、今すぐに」
「は、はい!」
スマートフォンを取り出して、その場でトークアプリの連絡先を交換する。槙永は体が強張ってしまい、上手く操作が出来なかった。
だが穏やかな表情で、青辻は待っていてくれた。
そうして再び歩みを再開し、二人はポツリポツリと雑談を重ねる。
槙永は外套の首元を押さえながら歩き、社宅の一軒家へと戻ってから、鍵を取り出した。
隣に青辻が立っていると思うだけで、胸が騒ぐ。嬉しさが込みあげてきて、思わず右手で唇を覆った。頬が熱い。
「和泉」
社宅に入ってすぐ、後ろから青辻が槙永を抱きしめた。震えだしそうになる体を制し、ゆっくりと槙永が振り返る。
すると直後、青辻が槙永の顎を持ち上げて、濃厚な口づけをした。角度を変え、何度も何度も、青辻が槙永の唇を貪る。
「すぐにでも、和泉が欲しい」
そのまま二人は、服を脱がせあいながら、自然とベッドへと移動した。
「ぁ……ァ……」
性急に槙永の服を乱した青辻は、どこか肉食獣じみた獰猛な瞳をしている。下衣を開けられた槙永は、直後青辻に陰茎を咥えられた。筋に沿ってねっとりと舐め上げられ、雁首を口に含まれる。唇に力を込めて口淫を始めた青辻は、窺うように槙永の顔を時折見た。
「ぁあ……ッ、待っ……もう出る」
槙永が射精しそうになった直前で、青辻が口を放した。そしてポケットからローションを取り出すと、指に掬って、槙永の後孔へと一気に人差し指と中指を挿入する。
「んン」
冷たい感触に身震いしたが、痛みは無い。
槙永は、青辻を求めるように、彼の首に腕を回す。
「あ、ああ……ぁ……ァ」
「ここが好きだったよな?」
「んッ、ぁ……」
すぐにぬめるローションの温度と、槙永の体温は同化した。長い指で暫くの間解される内、じっとりと槙永の体が汗ばみ始める。
するとベルトを引き抜いた青辻が、ゴムの袋を取り出して、肉茎に装着した。
「ン――っ、ぁ!」
指を引き抜いた青辻に挿入され、槙永が声を上げる。荒々しく貫かれ、腰が引けそうになったが、青辻がそれを許さない。槙永の華奢な腰を掴むと、より深々と楔を進めた。
「あ、あ、あ……あァ! ア!」
熱く硬い肉茎に穿たれて、槙永が必死で息をする。ギュッと目を閉じ、青辻に抱きつきながら、膝を折った。その太ももを持ち上げて、青辻が激しく抽挿する。
「俺の形を、きちんと覚えておいてくれ。これからは、いっぱい教えてやるからな」
「あ……ああ……ぁ! ああ……! やぁ」
「嫌か?」
「気持ち良、っ……頭が真っ白になる、や、あ、ああ……」
快楽の奔流に飲まれた槙永が理性を飛ばす。それに気を良くしたように青辻が打ち付けると、肌と肌がぶつかる音が室内に響いた。
「あ!」
ぐっと奥深くを貫かれた時、槙永の全身が震えた。中だけで絶頂に導かれ、手足の指先まで射精感に似た快楽が響いて走る。初めてのドライオルガズムの経験に、槙永は大きく嬌声を上げた。しかし青辻は容赦なく責め立て、槙永を余韻に浸らせる事はしない。
「ああああ!」
そのまま青辻も放った時、その腹部に槙永の陰茎が擦れた。結果射精を促されて、槙永の綺麗な陰茎の先端から白液が零れた。
事後、ぐったりとしている槙永から、青辻が雄を引き抜く。
「悪い。止められなかった」
「……平気……です」
掠れた声で槙永が答えると、隣に寝そべった青辻が、優しく髪を撫でた。
「少し眠れ。俺は駅に迎えの車が来たらしいから、名残惜しいが帰るよ」
それを聞いた後、槙永は意識を落とすように眠ってしまった。
そして朝方一度起きた。明らかに情事後の身体状態を見て、夢ではなかったと確認したが、まだ起きるには早いというのに、その後は寝つけなかった。
次に眠って全てが夢だったならばと、そう思うと体が震えそうになったからだ。
翌日は泊まり勤務だったので、始発後に駅へと向かう。引継ぎをしたり、電話番をしたり、フキに餌をあげたり、この日の日勤の澤木におかずを分けてもらったりしながら、ずっと青辻の事が気になっていた。
休憩時間にスマートフォンを見れば、そこには青辻からの連絡があったから、夢ではないのだと確認出来て、それだけでも舞い上がりそうになった。
「なんだか、前よりも槙永さんは、話しやすくなりましたよね」
食後のお茶を飲んでいたら、澤木にそんな事を言われた。驚いて顔を上げると、澤木が楽しそうな顔で笑っていた。
「お客様とも雑談してたりするし。柔らかくなったっていうか」
それは槙永自身は気づいていない変化だった。だが思い返してみれば、最近は町の人の差し入れが少し増えた事もあり、確かに話す機会が増えていた。他者への苦手意識が、少しだけ薄れている。これらは――他人に対する恐怖心の緩和は、青辻のおかげだろうなとすぐに槙永は気がついた。青辻は槙永に、再び人を信じるという気持ちもまた、教えてくれた。
この日は青辻が姿を現す事は無かったが、一人になった駅員室で、泊まり勤務の仕事の休憩中には、トークアプリでやりとりをした。主に、青辻が引っ越してくるという話の詳細を聞いた。空き家ばかりの土地であるから、家探しには困らないらしい。
そして仮眠後、シャワーを浴びてから、制服をきっちりと身に纏い、槙永は券売機の電源を入れた。出入口のシャッターと鍵も開ける。
「おはよう」
すると待ち構えていたように、青辻が顔を出した。
「折角だから、今日は少し撮って来ようと思ってな。貴重な紅葉を」
不在だった間の距離など感じさせない青辻の言葉に、僅かに槙永が頬を持ち上げる。すると青辻がじっと槙永を見た。
「めったに笑わないから、貴重な表情を見た気分だ」
「そ、そうですか……」
「これからはそばにいて、俺が沢山笑わせてやる。約束する」
そう述べると、他にひと気の無い待合室で、青辻が槙永を抱き寄せた。腰に腕を回し、もう一方の手で槙永の頬に触れる。
誰かに目撃されたらと思えば、以前ならば恐慌状態になった自信があったが、この時の槙永は、幸福感の方が強くて、素直に抱きしめられていた。すると槙永の顎を持ち上げて、顔を傾けた青辻が口づける。
「そして毎日、キスがしたい」
「……二人きりの時だけでお願いします」
「了解。それから、その敬語を止めさせたい」
「……努力します」
「そうしてくれ。ただどんな和泉も、俺は好きだ。愛している」
きっぱりと告げた青辻は、最後に槙永の額にキスをしてから、両腕を解いた。
「明日は休みだろう? シフト的に」
「ええ」
「じゃあ明日は俺に、時間をくれ。早速、家を借りたんだ。明日にはいくつか新しく買った家具が届く。和泉に見せたい」
「俺も……見たいです」
いちいち青辻の言葉が嬉しくて、槙永は擽ったくなる。そこへフキが来たので、餌をあげるべく、一度槙永は駅員室へと戻った。
そしてその他の仕事を片づけてから、始発のため、改札に立つ。乗車客は、本日は青辻のみだ。
「お願いします」
「拝見します」
手渡された切符を受け取り、槙永は頷く。
その後電車を待つ為、改札を離れて、槙永と共にホームに立った。
「行ってくる。そして、必ず帰ってくる。明日の約束、忘れないでくれよ? 後で、改めて連絡もするけどな」
ホームに電車が入ってきた。
槙永は車掌と合流し、清掃作業などを手伝う。その後、それらが完了すると、開いたドアから、早速青辻が電車に乗り込んだ。一度ホームに出て、槙永は青辻の前に立つ。
そして青辻を見据え、ゆっくりと槙永は頷いた。働き方を思い出した表情筋が、優しい笑顔を形作っている。
そのまま扉が閉まるまでの間、その場で二人は見つめあっていた。
発車する頃合いになって、青辻が座席へと向かい歩き始める。槙永は電車から少し距離を取り、車内を進む青辻を見ていた。そして座った青辻が窓から手を振ったので、静かに口角を持ち上げる。共にいられる事が、嬉しくてならない。
そうして走り出す電車を見送りながら、槙永は新しい日々に想いを馳せた。
二人にとっての深水駅は、終着駅でもあり、また始発駅でもあった。
―― 完 ――