【八】




 翌日も休日だったので、朝希は眞郷が帰ってからも、ずっと横になって過ごしていた。腰が怠い。だが、満足感が強い。天井を見上げながら、ぼんやりと考える。人生で初めて己の性癖を吐露し、そして受け入れられ、好きな人に想いを伝える事も出来た。その上体を繋げてしまった。いずれも嬉しいのに、まだ本当に現実なのか、悩んでしまう。今も肌には、眞郷の体温や手の感触が生々しく残っている気がしたから、夢でないのは分かっているが。ただそれらは気恥ずかしくもある。でもそれ以上に嬉しくて、思わず喜びを噛みしめてしまう。

 ――また来る、と。

 そう言って眞郷は帰っていった。それが朝希は嬉しかった。

「恋人同士になったんだよな……」

 まだその実感は薄い。けれど喜ばずにはいられなくて、自然と頬が緩んでしまう。それから朝希は、畳の上に置いてあったスマートフォンに手を伸ばした。個人的な連絡先を交換してから、眞郷は帰っていった。見ればメッセージアプリの通知があって、眞郷から連絡がきていた。体を気遣うものだったので、瞬時に赤面しながらギュッと朝希は目を閉じる。それからチラッと瞼を開いて再度文面を確認し、必死にスタンプで返事をした。

 こうして新しい日々が幕を開けた。

 翌日からは、ビニールハウスでの仕事がいつもと同じように始まったが、朝希の心持ちは以前とは違う。規格内のトマトにも、そして規格外のトマトにも、何より規格外だった自分にも、新しい道がある。そう考えながら取り組む仕事は、いつもより充実感があった。

 眞郷は一度本社に戻るそうで、既にこの町にはいないが、定期的に訪れると話していた。だからまた会えるし、なにより毎日メッセージのやりとりをしていて、時には通話もしている。この日も帰宅後、夕食を終えてから、朝希はスマートフォンを見ていた。すると眞郷からの着信を、画面が告げた。慌てて操作し、耳に当てる。

「は、はい!」
『お疲れ様。食事が終わったって話だけど、今日のメニューは?』
「いつも通りで、漬物とか……あとは買った魚とか、サラダとかだな」
『今度手料理を振るまってくれ』
「俺、料理なんて出来ねぇよ」
『じゃあ俺に振るまわせてくれ。一人暮らしが長いから、そこそこ自信があるぞ』
「へぇ。得意料理は?」
『カニクリームコロッケだ』
「あれって自分で作る事も出来るのか?」
『勿論』
「ふぅん。コロッケなんて買った事しかねぇから分からない。な、なぁ、次っていつ来る?」
『明日から出張だから、来月になるな』
「そ、そうか」
『丁度朝希のところは、最初の収穫の時期だろう?』
「お、おう。忙しくなる直前だな」

 自然と今では、名前を呼び捨てで呼ばれるようになった。その変化も、朝希には嬉しい。相変わらず朝希は、『眞郷さん』と呼んでいるが、それはその方が自然な気がするからだ。

 その後は少し仕事の話をし、さらに雑談を続けてから通話を切った。終了後、スマートフォンの画面を見ながら、暫くの間朝希はうっとりとしていた。

 毎日朝希は、眞郷からの通話を待っている。
 まだ自分からかけた事は一度もない。

 朝希の仕事は規則正しいが、眞郷は残業がある場合もあると知っているから、かけるタイミングが分からないというのもある。でも、眞郷がかけてくれるのだから、問題は無いと朝希は思っていた。この日も入浴後、朝希は自室でゆっくりと眠りについた。

 そして翌日も仕事が終わってから、眞郷からの連絡を待っていた。

 最後の連絡は朝にきたメッセージで、『出張に行ってくる』というものだった。帰宅した朝希は、代わり映えのしない夕食を口に運んでから、ずっとローテーブルの上にあるスマートフォンを見ていた。

 八時、九時、十時。

 いつも十時半以降は、眞郷は通話をしてこない。仕事で朝が早い朝希が、十時には寝るようにしていると、既に眞郷も知っているからだ。十時二十分になった時、今日はもう連絡はこないだろうと判断し、朝希はシャワーを浴びる事にした。手早く体を洗いながら、残念に思う。

(出張と言っていたし忙しいのかもな)

 恐らく緋茅町に来ていた時のように、どこか他の農村地帯に出かけているのだろうと、朝希は考えた。入浴後、目覚まし時計を確認してから、薄手の毛布をかける。そしてすぐに眠りに落ちた。明日通話をする時に、何を話そうかと考えながら。

 だが翌日も、その翌日も、さらにその翌日も、眞郷から通話はこなかった。通話はおろか、メッセージすらこない。朝希は二度、『忙しいのか?』『何かあったのか?』と、メッセージを送ってみたが、既読すらつかなかった。ブロックされているわけではないが、見られている様子もない。

 小さく不安が広がり始め、次の休日には膨れ上がっていた。もう一週間も、連絡が取れない。嫌な胸騒ぎがする。じっとスマホを見ながら、朝希は意を決して、自分から眞郷に音声通話で連絡をしてみる事にした。

「……」

 しかし、電子音がするだけで、繋がらない。
 アプリでダメならば、電話はどうかと考えて連絡してみたが、電波が入っていないと機械音声に告げられた。着信拒否されているのだろうかと不安になる。

(なんで? 俺は、何か悪い事をしたのか?)

 必死に最後の通話の事を、朝希は思い出してみる。カニクリームコロッケの話をした記憶しかない。

(料理が出来ないって言ったのが、気を悪くさせたとか?)

 そんな事を考えてみるが、自分でもそれが理由だとは思えない。

(前の恋人には浮気されて冷めたって言ってたけど、俺も何か冷められるような事、したのか?)

 ぐるぐると考えてみるが、結論が出てこない。その後、そばの棚から、眞郷はフードロス関連の契約書類を取り出した。本格的な規格外トマトの提供時期が間近であるから、それを口実に、会社に電話をしても不自然では無いだろうと思案する。理由なんて、ただの挨拶でも構わないと思った。

(無事かどうか、何かあったのかどうかだけでも知りたい。病気とか、怪我とか、事故とか、そう言うんじゃないなら、それが分かるだけでもいい)

 内心でそう考えながら、朝希は壁に掛けてある丸い時計を見た。幸い本日は平日で、現在は会社の営業時間内だ。震える手でスマートフォンのキーボードをタッチし、朝希は眞郷の会社に電話をかけた。するとすぐに、電話が繋がった。

「も、もしもし。あの、俺……葉宮朝希と言います。その……規格外トマトの事でお電話しました」
『あ、葉宮さん! 以前仙鳥市の弊社のレストランでご一緒させて頂いた高原です。お世話になっております』
「あ……どうも。あの……眞郷さんは……」
『眞郷でしたら、出張に出ておりまして。ご用件なら、私が承ります!』
「い、いえ……出荷時期が近いのでご挨拶をと思っただけですので。失礼いたします」

 思わずそう告げ、朝希は電話を切った。ドクンドクンと動悸がする。

「出張……」

 気づくと呟いていた。まだ出張中だったのかと考える。長い、わけではないのかもしれない。緋茅町にも二週間近く滞在していたし、往復も頻繁だった。だが……。

(連絡出来ないほど多忙な出張……?)

 そう考えると、嫌な気持ちになってしまう。決して眞郷を信じないわけではない。逆に信じたい。だが、いつ何があってもいいようにと、手慣れた様子でローションやコンドームを用意していた事を、どうしても想起してしまう。

(新しい出張先で、新しい恋人ができていたら?)

 思い浮かんだその考えに、朝希の胸は、ギュッと締めつけられるように痛くなった。

 この日からは世界が色褪せてしまったように、暗くなってしまった。仕事にも身が入らない。見えてきた道が閉ざされ、可能性なんかどこにもなかったと思わせられるような、そんな気持ちだった。義務的に仕事をし、帰宅してからは、通知も着信もないスマホをぼんやりと見据える毎日だ。涙さえ出てこない。そんな日が、一日、また一日と過ぎていく。

「でもな。でも、そうだな。俺は兎も角、トマトは……ちゃんと有効活用されるもんな。きちんと取り柄がある。大丈夫だ、トマトは。それに――眞郷さんは、俺を裏切るような人じゃねぇよな。連絡がこないのだって、きっと……理由がある。絶対ある」

 願うような気持ちでそう呟いてから、朝希は自室のベッドに入った。やはりこの部屋で体を重ねなくてよかったと思う。毎日、優しかったあの日の温もりを思い出して眠る事には、たえられそうにも無かったからだ。信じたい気持ちと同じくらい、どこかで諦観もあった。

 翌朝、初収穫の日を迎える事になった。いつもより少し早くビニールハウスへと向かい、作業に従事する他の人々と言葉を交わしてから、一つ一つ確認し、朝希は収穫を始めた。大半は規格内のトマトとなったが、やはり一部は規格外品となった。

 しかし今後は廃棄するだけでないのだと念じながら、それぞれ別のカゴに収穫していく。

 それが一段落したのは、日がだいぶ高くなってからの事だった。そろそろ一度休憩して、昼食をとる時間だ。ビニールハウスを出た朝希は、ベンチの脇の水道へ向かおうとして、足を止めた。人の影が伸びてきたから、ゆっくりと顔を上げる。そして目を見開いた。そこには眞郷が立っていた。

「朝希」

 名前を呼ばれ、驚いて唇を震わせた朝希だが、なにも言葉が出てこない。会いたかったと、そう伝えたかったし、何故連絡をくれなかったのかと問いかけたかったが、それすらも言葉にならない。

 だから立ち尽くして、土手の上にいる眞郷を見あげていた。

「さっきメッセージを見て、すぐに返事をしたんだけどな、今度は君の方が仕事中だったみたいだな。どうしても早く会いたくて、つい来てしまった」
「お、おう……」

 その言葉に、平静を装ってから水道へと向かい、手を洗ってから、朝希はポケットにしまってあったスマートフォンを取り出した。仕事中は通知音を消しているから、ロックを解除しチラリとアプリを確認すれば、既読のマークがついていて、新たに『会いたい』『お土産を買ってきた』『今から行く』と、連続でメッセージがきていた。眞郷がベンチに座りなおしたので、朝希もそちらに歩み寄る。そして動揺しながらも、隣に腰を下ろした。

「出張、長かったんだな」
「ああ。まさか二週間以上も帰れないとは思わなかった。最初は三泊四日の予定が、色々と祖父に頼みごとをされてしまってな」
「そうか。忙しかったんだな」
「忙しいと言えば忙しかったが、観光する余裕もあった」

 悪びれた様子もなく、笑顔で眞郷が言う。ズキリと朝希の胸が痛んだ。

「……そうか」

 観光する余裕はあるのに、メッセージを返信する時間も、そもそもアプリを見る機会も無かったのかと、糾弾してしまいそうになる。しかしそれらを口にして、怒らせるのも怖い。嫌われたくない。そんな葛藤が原因で、思わず涙が込み上げてきたものだから、慌てて朝希は俯いた。顔が見えないように気をつける。

「何度行ってもいい場所だ。酒も美味いし、海も綺麗で」
「へぇ」
「難点を挙げるなら、こちらの私用の携帯端末の電波が届かない事だな」
「――え?」
「海外もだいぶ繋がるところは増えた、が、あそこはまだまだ全然だ。何度か衛星電話を使って連絡しようかと思ったけど、時差があるから朝希に悪いと思ってかけなかった。連絡出来なくてごめんな。手紙よりはさすがに早く、俺の方が帰る事が分かっていたしな」

 微苦笑するような眞郷の声を聞いて、俯いたまま朝希は目を見開いた。

「出張って……海外だったのか?」
「ああ。祖父があちらでも事業を展開しているんだけどな、少しトラブルが起きて、臨時の代理として対処をしてきたんだ」
「……っ、そ、そうだったのか」

 朝希の肩から、力が抜けかける。

「朝希?」
「あ、いや」

 声に涙が混じってしまったと気づき、慌てて右手の甲で、朝希は頬をぬぐった。

「どうかしたのか?」
「な、なんでもない」
「いいや、なんでもなくはないだろ? どうした?」
「別に!」
「――もしかして、不安にさせたか?」

 その通りだったから、朝希は息を呑んだ。すると隣からそっと手を伸ばして、眞郷が朝希の頬に触れた。朝希は恐る恐る、眞郷の方を見る。

「……電話をしたら……電波が、入らないって……俺、拒否されてるのかと思って……でも、本当に入らなかったんだな……」
「悪かった。出張先を、きちんと伝えていくべきだったな」
「まったくだ。俺、俺……何かあったんじゃないかと思ったり、嫌われたのかと思ったり、もう頭の中がごちゃごちゃで……っ、よかった。また会えてよかった」

 再び涙が浮かんできそうになったので、朝希は今度は空を見上げた。涙が零れ落ちないように注意する。

「朝希。もっと俺を信じてほしい」
「うん……」
「信用してくれ。俺は理由なく恋人と連絡を断ったりはしない」
「……だったら、信用させてくれ」
「どうしたら信用してくれる?」
「もっと話したい。ちゃ、ちゃんと、だ、だから、出張の話とか、聞きたい」
「これからは必ず話す」
「これからだけじゃなくて、今日ももっと、もっと話したい。眞郷さんと一緒にいたい。仕事が終わったら、話せないか?」

 思わず朝希が不安を滲ませる声音で告げる。すると少しだけ眞郷が困ったような顔になり、大きく吐息した。

「実は空港から真っ直ぐこちらへ来たんだけどな、緋茅の里には団体客が来ているらしくて空きが無かったんだ。仙鳥市のホテルをこれから探そうと思ってたところだ。出張が終わったばかりだから、これから一週間は休暇をもらってる、が、今日は難しい」
「俺の家に泊まればいい」
「いいのか? 朝希は今日から収穫作業で忙しいんじゃないのか?」
「平気だから、だから、頼むから……ちゃんとあんたがいるって、あんたと話して、そう実感してぇんだよ」

 縋るように朝希が言うと、ポンポンとその頭を、撫でるように眞郷が叩いた。

「分かった。じゃあ泊めてもらう」
「うん、うん」
「俺はここにいるから、安心してくれ。それより昼だろ? きちんと食べないと、午後がもたないんじゃないか?」
「ああ」

 頷き、ベンチのそばに置いてあった保冷パックの中から、この日もおにぎりと簡単なおかずを取りだして、朝希は昼食とする事にした。その隣に座している眞郷は、柔和な眼差しで、それから土産話を語り始めた。食後朝希は、家の鍵を眞郷に預けた。

「入っていてくれ」
「いいのか? 悪いな、急に押しかけてここへ来たのに」
「いいんだ。来てくれて、本当によかった。お茶も自由に飲んでいてくれ」

 そう短くやり取りをしてから、朝希はビニールハウスの中へと戻った。そしてこの日の予定分まで収穫を終えてから、規格内のトマトと規格外のトマトをそれぞれざっと確認した。詳細な選別や出荷作業は別の場所で行うが、ある程度の数は分かる。今夜それも一緒に報告しようと考えながら、朝希は帰宅した。その間も、本当に夢ではないのだろうかと、ずっと心臓がドクンドクンと煩かった。