第二話



 亘理依月大尉――二十七歳独身。

 長身でスタイルの良い、ちょっと目を惹く色男。優男というわけではない。筋肉の付き方など一つ取ってみても、軍人らしい体躯だ。筋肉だるまとは違うという意味で、色男と評価できると言える。

 嘗ては大日本帝国、その後は日本国――そう呼ばれた国家の後裔に当たる、この日本連邦の軍人である。

 そんな日本において、機械薬学で有名な、難関大学と大学院を卒業した彼は、在学中から一流の研究者になるだろうと目されていた。

 機械薬学という新しい分野を、さらに発展させる人間。そう考えられていて、彼の在学中から、亘理が発表する理論に目をつけていた研究機関は多かった。

 だが彼は、一体何を思ったのか、就職しなかった。
 国防軍付属上級士官学校へと進学したのだ。

 国防軍の軍人を養成する防衛大学、そのさらに上級に位置する、入学資格が大卒と決まっている上級士官学校へと進んだのである。防衛医大への編入学だったらまだ理解も出来ただろう。そちらならば、機械薬学の専門学科もある。

 ――とはいえ、入学資格を持っている彼を、そして入学試験を突破した彼を、学校側は、上級士官学校に入学させないわけにはいかなかった。さらに、そこで優秀な成績を残した彼を卒業させないわけにもいかなかった。勉学だけではなくて、体力面や戦闘能力でまで上位の成績を残されたのだから、文句なしだ。

 軍の付属研究所は、そもそも彼の入所を期待していたし、最後までそれを願っていたのは周知の事実である。現在もなお、引き抜きをかけているという噂は絶えない。

 しかし成績面から言って、陸・海・空それぞれの軍もまた、彼を欲しがった経緯もある。

 結果的に正面から争うことになった。

 そうした諍いを、最終的におさめたのは、統括軍部である。
 陸・海・空、さらには研究所も含めた各機関の、最上位に位置するのが、統括軍部だ。
 軍全体をまとめ、指示する首脳部である。

 その直属機関に、亘理依月は配属が決まった。
 本来であれば、多数の功績を残し、数多の試験にパスしなければ、『中央』と呼ばれる統括軍部で働くことなど出来ない。そして中央の決定には、誰だって逆らうことが出来ない。

 ――まぁ、亘理大尉の実力ならば、納得だな。

 そう考える人間は多かった。
 無論嫉妬した人間も大勢いる。
 中央に行くことを志願し、もう何年も努力している人間だって多いからだ。

 周囲は亘理の内心を知らないわけだが、その亘理にしてみれば、『配属先などどこでも良い』というのが本心だった。彼自身には、周囲に取り合われているような実感も皆無だった。しかし、誰も亘理のそんな考えを、本当に知らない。

 当然、現在つらつらと、亘理大尉に関する報告書を眺めている、森永昭吾もりながしょうご少佐も、亘理の内心など全くと言っていいほど知らなかった。

 ぺらぺら捲っていた報告書を、執務机の上に投げる。
 そして指を組み、机の上に肘をついた。
 手にあごを乗せ、森永少佐は静かに目を伏せる。

 亘理大尉の事を思い出していた。

 切れ長の黒い瞳をした若い大尉は、いつも無表情だ。
 黒い瞳と言うよりも、暗い瞳という方がしっくりと来る。世に嫌気がさしているような仄暗い眼差しをしている気がするのだ。

 話しかければ言葉が返ってくる。決して陽気ではないが、人見知りとも思えない。
 しかし彼には、調べた限り、近しい友人はいない。同期の同僚達とすら、一歩引いた付き合いをしているし、彼らに向けて表情を変えることもないのだ。

 では軍の外ではどうかと言えば、まず上級士官学校時代には、既にこういう態度だったという証言が絶えない。大学時代まで遡ると、ようやく友人らしきものが見つかる。楽しそうに研究をしていたらしい。しかし研究以外で会うような友人はいなかったらしく、研究で肩を並べていた人間達も、外に彼を誘い出すような社交性は持っていなかったらしい。だから、単純に研究を楽しんでいただけである可能性も考えられる。

 もっとも、亘理大尉の性格自体は、そこまで森永少佐にとって重要な事柄ではなかった。
 ――あくまでも補足情報として欲していただけだ。

 亘理大尉は、非常に有能で、率直に言って仕事が出来る。
 彼は、優秀すぎるほど、優秀な軍人なのだ。
 ――それが、問題なのだ。

 現在亘理大尉は、大貫おおぬき中佐の配下にある。
 大貫中佐の指揮下にある師団の中で隊長を務めている。
 亘理大尉が指揮する小隊の任務は、大貫中佐の補佐だ。

 大貫中佐には勿論正規の副官がいるし、階級的に、大尉が中佐の副官をすると言うことは、軍の規則的にあり得ない。しかし大貫中佐の副官は、別の師団の総括指揮をしているから、常に大貫中佐のそばにいることはない。大貫中佐のそばに常に付き従っているのは、亘理大尉なのだ。

 森永少佐は、率直に言って、大貫中佐が好ましくないのだ。

 これが単なる性格の不一致だったならば、森永少佐とて大人な対応をする。

 けれどそうではない。大貫中佐は、統括軍部である中央の要人であるにもかかわらず、軍にとって害になる行為に手を染めているのである。

 横領や脱税――それだけだったならば、他にも腐った軍人もいるから、そこまで咎める気にはならない。森永少佐自身、裏金作りをしていないわけではないからだ。勿論、大貫少佐のように私利私欲に使ったりはしないし、決して露見しないように工作してもいる。

 大貫中佐の行動で、大問題なのは、情報の漏洩なのだ。

 幸いなのは、その漏洩先が、他国に直接ではないことくらいだ。大貫中佐は、軍の研究所と提携企業が開発している、最先端の兵器の理論や設計図、新薬の情報を、国内の民間企業に漏洩し、見返りに多額の報酬を得ているのだ。この際、多額の報酬も良い。そして、国内の企業のそれぞれには、国防軍の中で森永少佐などの息がかかった監視がいるため、今のところは、国外に流出せずに済んでいる。

 だが――時間の問題かも知れない。

 民間企業の提携先には、国外企業も当然多いのだから。

 中でも大貫中佐が、もっとも贔屓にしている民間企業は、『遇津コーポレーション』である。複合企業で、武器製作から大病院、各種研究所まで何でも取りそろえている、大財閥だ。当然こちらにも諜報員を放ってはいるが、遇津は相手が悪すぎる。

 率直に言ってしまえば、軍部が放ったスパイの存在に彼らは気がついているのだろうが、漏れても問題のない情報に関しては、つつぬけで『教えてくれる』のだ。本当に隠さなければならないような核心には、遇津は絶対に踏み込ませない。その部分で国外と通じているとなれば、最早軍部には打つ手が無くなる。今のところ遇津にそういった気配がないことだけが、不幸中の幸いで、救いだった。

 こんな状況である以上、証拠を固めて大貫中佐を排除してしまうことこそが、軍部のため、この国のためと断言できる。しかし、そうできない現状があり、最大の壁があるのだ。

 それが、亘理大尉なのである。

 大貫中佐が情報漏洩をしているという証拠を、亘理大尉が全て消し去っている。横領の痕跡から、アリバイ工作に至るまで、全てにおいてと言っても良い。特に情報漏洩に関しては、何度か最悪なことに、漏洩するまでの間、情報が外部流出したことすら掴むことが出来なかった。

 大貫中佐にそんな頭脳がないことは――これは個人的に嫌いで馬鹿にしているからかも知れないが――森永少佐にはよく分かっていたし、自分の部下達の意見を聞いても、ほぼ同意見だった。

 ようするに亘理大尉という頭脳がいなければ、大貫中佐を失脚させて、軍から追放することなど、非常に簡単な仕事なのだ。が、現実には、亘理大尉が存在するわけだ。

 そしてこの亘理大尉が何を考えているのかが、さっぱり理解できない。

 これも否定的見解を持っているからかも知れないからではあるが、大貫中佐の人柄は、お世辞にも褒められない。部下は副官であっても見下す。現在実質の副官代わりの亘理大尉にすら、あたりは厳しい。

 大貫中佐の指揮下の師団の人間のほぼ全てが、上司である彼を嫌悪していると言ってもおかしくないほど――人望がない。本当は心優しい、などというようにも思えない。

 経費で暴飲暴食を繰り返している大貫中佐は、でっぷりとふとっていて、あぶらぎった丸い鼻がてかてかと光っている。毛のない頭部も光り輝いている。背は小さく、風呂に入らない日も多いらしくて、悪臭をまき散らしている。生理的嫌悪を覚える人間も、少なくないだろう。

 少なくとも森永少佐は、見た目も性格も頭も悪い人間を好意的には見ることが出来ない。

 さらには、なんと大貫中佐は、仕事面でもからっきしなのだ。
 彼が中佐になれたのは、めざとく上司の弱みを握って揺すったからだ。
 中央に来られたのは、その時はまだ健在だった彼の母親のおかげだ。親の七光りを惜しげもなく使ったのだ。大貫中佐は、何でも彼の母親の前では、非常に性格の良い好青年を演じていたようで、人の良かった彼の母親はそれを疑わなかったらしい。

 大貫中佐の母親は優秀な軍人だったのだが、息子には甘かったのだ。

 しかし亘理大尉に、大貫中佐の母親と面識があるとは思えない。だから彼の母親に恩義を感じているとも考えられない。そして大貫中佐に恩義を感じているなどと言うことは、さらに考えられない。

 だから何故、亘理大尉のように頭の良い人間が、大貫中佐の呆れた行為に付き合っているのかが、全くもって分からないのだ。

 純粋に、上司の命令だから、従っているのだろうか?
 それとも――考えたくはないが、情報漏洩『させている』のが、亘理大尉自身なのか。

 後者ならば、大問題だ。

 大貫中佐が亘理大尉の掌の上で転がされているとすれば、それは軍部にとって最悪の事態である。

 けれどそれは、どうやら違うらしいという判断も出来る。

 そもそも亘理大尉は、漏洩するような情報に、大貫中佐経由でなければ触れることはない。かつ、漏洩先の企業と直接接触を取ることも一切無い。見返りを貰ってもいない。何度か諜報員に確認させた限り、亘理大尉は、大貫中佐と企業の間で、どのような情報がやりとりされているかも知らない様子なのだ。

 だから本当に分からないのだ。

 忠誠を誓えるような相手ではない大貫中佐に、何故そこまで付き従い、そして守るのか。

 亘理大尉のように頭の良い人間が、森永少佐は好きだ。
 しかし、敵に回れば、いかに怖ろしいかも分かっている。
 はっきり言ってしまえば、味方につけたい。

 森永少佐は、深々と溜息をついた。
 何か、打開策はないものか。そんな風に考えていた。
 何か一つで良い、亘理大尉の弱みを握りたかった。