第三話



 綿雪を軍靴で踏みしめて、亘理は車から降りた。
 黒光りしている高級車の、後部の扉を開けながら、中から降りてくる自分の直属の上司を見る。大貫中佐である。

 コートを翻し、帽子を被りなおした上司は、出迎えた遇津総合病院の院長をはじめとした医療関係者が頭を下げる中、堂々と中へと進んでいく。

 受付を待つ一般患者の群れを抜け、エレベーターホールに彼らは立った。

 先導されて中に乗り込んだ大貫中佐は、院長が地下六階のボタンを押すのを眺めているようだった。亘理は何も言わずに、ただ床を見ていた。灰色の絨毯だ。

 この病院に地下施設があることは、公にはされていない。だから先ほどボタンを押す時も、側部のパネルを大貫中佐がカードキーでわざわざ開いた。地下六階に到着するまでの間は、誰も何も喋らなかった。

 到着後窓のない通路に一歩出てから、亘理はエレベーターの扉が背後で閉まる音を聞いた。正面にはしいクリーム色に塗られた鉄の扉がある。

 関係者以外立ち入り禁止だと、はっきりと書いてある。

 けれど院長は自然な仕草でその扉を開けたし、大貫中佐は卑しい笑みを浮かべながら中へと入った。無表情で亘理もそれに従う。

 内部には、赤紫色の光が溢れていた。前面硝子張りの風景がすぐに視界に広がった。

 その奥には、無数の水槽がある。規則正しく棚や升目のように並んでいるのだ。中には、やはり赤紫に見える液体が満ちているのだが、それは光のせいかもしれないから、実際の液体の色を、少なくとも亘理は知らなかった。

 ――水槽の内部にあるのは、『脳』だ。

 時折神経が、液の中で蠢いている。きっと脳だと認識していない誰かが見たならば、奇怪な深海魚か何かだと思うかも知れない。脳には、様々な電極のようなプラグが接続されている。このフロアだけでも、数千の『人間の脳』が、水槽に浮かんでいる。他の階にも、同様の水槽が詰め込まれているはずだ。

 ――ここは、ホスピスだ。

 終末ケアをするターミナル施設である。まだ正式には認可されていない、実験的な施設ではあるのだが――認可されている国も多い。日本では、『まだ』であるというだけだ。

 この国、日本が、日本連邦と名前を変更した頃だろうか――著しく医療技術が進歩したのは。人間の寿命は、現在では平均して二百歳前後になった。

 しかし残念ながら、老化を止める術は、未だ研究段階だ。

 結果として現在の日本では、百歳前後から寿命が来る二百歳前後までは、寝たきりになる人間が多い。様々な疾病への対抗策は進歩したから、余程のことがなければ、病死しない。認知症に関しても、進行をほぼ完璧に止める特効薬が開発されている。けれど何故なのか、老衰にだけは、いくら臓器を取り替えても打ち勝つことが出来ないのだ。

 人体に関しては、まだ人間は全てを解明できていないのである。

 百歳になる前の、体の動きが鈍った段階ならば、補助ロボットの力を借りることで、一定の動作が可能だ。けれどそれを用いる事すら困難になった場合、現状では、人間に残されている選択肢は二つきりなのである。

 一つは、安楽死すること。
 そしてもう一つは、死ぬまで横になっていることだ。

 後者は賛否両論だ。『脳』が生きているというその一点以外を除けば、何も出来なくなってしまうからだ。瞼を開けることも、唇を動かすことも出来なくなって、自発的に外部に何かを伝えることが不可能になる人間が多い。

 そのため、脳波を拾い、なんとか意思疎通を図ろうとする技術の研究が進んでいる。
 けれどその研究も、芳しいとは言えないのが現状だ。

 なぜならば、老衰に伴い脳自体が、『夢』のようなものを見ている時間が圧倒的に長くなるからだとされている。その状態においての意思疎通については、公的には今後の課題とされている。

 中には清明な意識化で、意思疎通を図ることに成功している場合もあるが、ほとんどの場合においては、外部からは、彼らの『夢』をモニタリングする事で手一杯だ。

 現在は、いいしれないほどの高齢化社会だ。
 病床が足りない。
 そして――地球上の食料は限りがある。

 だから、多くの国では、安楽死を望まぬものへの医療措置の一つとして、提案するのだ。
 『脳』だけになる事を。

 脳だけとなり、そこへ与えられる刺激で、視覚聴覚嗅覚味覚触覚を人工的に得る幸福。死ぬまでの間、人工的な刺激が与える夢の中で、五体を自由に動かしていると錯覚する日々を。

 いいや、それは錯覚ではなく、脳だけとなった人々にとっては、現実となるのだろう。その現実を、本来の現実では、仮想現実と呼んでいる。

 死ぬまでの間、幸せな夢を見て過ごす。

 これも一つの、死へ到達するまでのケアといえる。
 だからこそここは、終末医療の最前線であり、ターミナルケアの現場だと言える。

 勿論老人だけではなく、様々な理由で、どうしても根治不可の病を患い激痛に絶えている者や、四肢などを失い拒絶反応などで、現在の医療でも復元困難な体を持つ者、この世に愁いを帯びてしまった者の中にも、仮想現実を望む人間がいる。

 このように人間には、それぞれに個がある。

 だが、目の前の水槽にぷかぷか浮かぶ脳には、何の差違も感じられない。
 精々、大きいだとか小さいだとか、それくらいだ。
 けれど、その一つ一つの中に、電極が繋ぐ世界があるのだ。

 外界からその世界に干渉することも可能だ。だから偉大な科学者や政治家の脳に、直接働きかけて、相談をすることも出来なくはない。しかし、ホスピスに収容された脳との直接対話には、いくつも規則があるし、通常は認可国でも許されない。

「これが、人間、か」

 その時ポツリと大貫中佐が呟いた。

「こんなものが人間とは、到底認める気にはなれないな」

 失笑しながら、大貫中佐は続ける。

「ばかばかしい。脳みそだけになるんなら、死ぬ方がマシだ。こんな状態で生かしておくなんて、家族の気がしれない。そんなのはただのエゴだろうに。滑稽なことだ」

 大貫中佐はそれだけ言うと踵を返した。
 彼の言うことは、一つの真理なのかも知れない――そんな風に思いながら、亘理は付き従う。

 病院の外には、相変わらず雪が降っていた。