第四話
――今日は麦酒を買ってくるのを忘れてしまった。
だから亘理は、棚の奥にしまっておいた、未開封のウォッカを見る。残念なことに割れるような炭酸水などはないが、幸いロックアイスは冷凍庫の奥で眠っていた。
今日は早めに帰宅できたから、先にシャワーを浴びた。
髪を拭き着替えてから、亘理はいつもの通りソファに座った。
妹と話をするためだ。
折角早めに帰宅できたから、時間が余ったら両親にも連絡をしようか迷っている。
酒を飲むのは、その後だ。
深呼吸をしながら、眉間の皺を人差し指でほぐす。
家族に言われたことはないが、周囲には度々怖い顔をしていると指摘される。
妹には、決してそんな顔を見せたくなかった。
モニターに手を伸ばして、電源を入れる。
「おかえりなさい、お兄様」
今日は肩の所で髪を結んでいる沙月は、待機していた様子で満面の笑みを浮かべていた。
薄いピンク色のドレスを身に纏っている。
「どうかしら? 似合う?」
昨日の話を思い出し、亘理は吹き出すように笑った。
実際桃色のそのドレスは、妹によく似合っていた。
「ああ、似合ってる」
「直接お見せできたらいいのになぁ」
可愛らしく頬をふくらませた妹に対し、亘理は苦笑した。
会いたいという気持ちは、自分だって同じだったからだ。
出来ることならば、今すぐ抱きしめて、その髪を撫でたい。
「いつこっちに来てくれるんですか?」
「まだ戦況が落ち着かないから、約束は出来ないんだ」
日本連邦では、今各地で内戦が起きている。中枢部にいる亘理が、前線で制圧する機会は滅多にないが、代わりにやる仕事は腐るほどある。
「軍人なんて辞めてしまえばいいのに。お兄様が酷い怪我をしたりしないか、毎日心配でしょうがないわ」
嘆くような顔で、白磁の頬に沙月が華奢な手を添えた。
その声に、亘理の脳裏に、沙月が戦闘に巻き込まれる光景が過ぎった。
現在では決してそんなことはあり得ないと分かっているが、妹が酷い怪我をする場面が脳裏を埋め尽くしていったのだ。心臓が嫌なほどに騒ぎ立てる。戦禍なんて届かない安全な画面の向こうに妹はしっかりといるのだから、全てはただのイメージだとよく分かっているのだが――全身が冷たくなった。
「お兄様? どうかしたの? 顔色が悪いけれど」
「少し風邪気味なんだ」
「まぁ……早く寝なければ駄目よ。お薬はちゃんと飲んだの?」
「飲んだ」
笑顔を取り繕い、嘘を吐く。風邪なんてひいてはいない。単純に、おかしな程に動揺してしまった自分を隠したかっただけだった。
それから数十分笑顔でやりとりをかわし、亘理は通話を打ち切った。
両親に連絡する気力は失せてしまった。
普段通りの無表情へと戻り、戸棚に向かう。
何も考えたくはなくなって、ウォッカをロックで飲むことにした。ソファに深々と背を預け、甘い酒を舌で舐める。それから煙草を箱から抜き取り、火をつけた。天井へと上っていく紫煙を眺めてから、長々と瞬きをする。
すると双眸の裏側には、ぷかぷかと水槽に浮かぶ、無数の脳が過ぎった。
己の上司に言わせれば、『人間ではない』らしいアレら。
確かに、無数の脳など、見ていて気分が良いものではない。
あの水槽を見た後、亘理は、自分のこめかみに銃口をつきつけたい衝動に度々駆られる。
理性では理解している。
あれらの脳が、『人間』の一つの姿であることを。
彼が大学時代に専攻していた機械薬学の応用で、あの水槽の中の薬液も、脳に刺激を与える電極も形作られている以上、アレが人間ではないなどと言うことを彼は認める術がない。
それでも――それでも、あのような『脳』だけの姿になった存在を見ると、怖気が走るのだ。生きていてくれたならば、ただそれだけで良いのだと、確かにそう考える部分もある。しかしこの手で脳だけになった人間を作り出す手伝いをしたことに、亘理は後悔していた。
多くの脳の持ち主は、自身の体がすでにないことを知らない。
仮想現実の中で得た手足こそが本物だと認識しているのだ。
亘理が学生時代に生み出したこの研究は、ようするに数多の人々に嘘をつくことになったという現実でもある。こんな風に大嘘つきな自分のことを知ったら、果たして妹はどんな風に思うのだろう。亘理は、それが非常に怖ろしい。
早く日本が平和になることを祈りながら、決して戦禍が届かぬ場所にいる――……そんな妹の事を考えると、涙がこみ上げそうになる。吐き気がしてきた。けれどその嘔吐感が、飲み過ぎだからではないと、亘理は自覚していた。自分自身に対する嫌悪を、叶うことなら全て吐き出してしまいたいと願った夜だった。