第十七話
「――大尉、亘理大尉」
「っ」
声をかけられて、亘理はうっすらと目を開けた。白い朝の陽の光を先に感じ、続いて正面にある森永の顔を見た。そして一気に覚醒した。
「う」
起き上がろうとしたら、腰が鈍く痛み、思わず呻く。そんな亘理の様子に、森永が苦笑しながら珈琲の入ったカップを差し出した。ゆっくりと起き上がってから、亘理はそれを受け取る。
「あ……ありがとうございます」
「どういたしまして」
上品なカップを静かに傾けながら、亘理は大きく瞬きをした。対面するソファに、森永が座り、彼もまた自分の分の珈琲を飲んでいる。湯気が二つのカップから上がっている。亘理は何を言えば良いのか分からず、沈黙の理由を作るように、珈琲を飲み込んだ。味などしない。無性に煙草が吸いたいと思った時、森永が見計らっていたかのように黒く丸い灰皿をテーブルの上で滑らせた。
「どうぞ。僕は吸わないんだけど、この部屋に来る客人は喫煙者が多いんだ。僕は気にしてない」
「……ありがとうございます」
「お礼を言われるのは、悪くないな。何度言われてもね」
喉で笑った森永を一瞥してから、亘理は床にたたんであったコートを見た。軍服もシャツも几帳面にたたまれている。かけられていた厚手の毛布が床へと落ちた時、昨夜の情事をおぼろげに思い出して、亘理は硬直した。煙草を取ろうと伸ばした手が、震えそうになる。表情を変えないように努力をしながら、煙草の箱とオイルライターを取り出した。星が印字されたボックスを無意味に見つめながら、白いフィルターを銜えて、火をつけた。
それから動揺を押し殺すように、深々と煙草を吸い込み、肺を満たす。
そんな亘理の姿を、カップを傾けながら森永は見ていた。
どうすれば良いのか、そもそも何かをどうにかする必要があるのかと、悩みながら亘理は森永を見た。森永もまた亘理を見ていたから、正面から視線が合う。
「亘理大尉がどんな反応をするか、楽しみにしていたんだけどね。いつも通りか」
「……」
亘理は何も言わなかった。ただ内心で、決していつも通りなどでは無いと考えていた。
夢ではない。それは、体の重さが証拠だ。煙を吐き出しながら、亘理は言葉を探す。しかし何も見つからない。
「綺麗だったよ」
揶揄するように森永が言った。瞬間――亘理は赤面した。無性に恥ずかしくなり、俯いて眉間に皺を寄せる。その反応に、森永が目を丸くした。そうしながら、唇の両端を持ち上げる。
「意外と可愛い顔をするんだね」
「……」
「大貫中佐の気持ちが分からなくもない」
「……? それは、どういう意味ですか?」
純粋に分からず亘理が尋ねると、森永が苦笑した。
「――昨日僕がしたような事を、大貫中佐は君にしたかったんだと思うよ」
分かっていなかった様子の亘理に、率直に森永は告げた。
それを聞いた亘理の顔が、今度は青ざめた。眉を顰め、険しい顔で煙草を吸っている。
「今後は気をつけた方が良い。まぁ、僕が言えた事ではないけどね」
「……肝に銘じます」
答えながら亘理は時計を見た。腕時計が、六時半を指している。軍への出勤は、八時半までと決まっていた。
「帰ります」
「僕の車で一緒にどう?」
「いえ、一度家に戻ります」
「送るよ。先に、シャワーを浴びてきな」
促され、確かに体を流したいと思い、亘理はシャワーを借りる事にした。
自宅とは違う温度に、髪を濡らしながら嘆息する。
――森永から香ったものと同じ匂いがするボディソープで体を洗う。
そうして浴室から外へと出ると、洗濯機の上に、真新しい軍規定のシャツと、新しい下着が置いてあった。軍服等は自分のものだったから、迷った末、新しい下着とシャツの封を破り、亘理は身につけた。
「はい、水」
リビングへと戻り本日三度目となるお礼を亘理が告げると、笑顔の森永が頷いてからミネラルウォーターのペットボトルを手渡した。いくつも常備してあるのだと言って笑っている。冷えた水は、美味しかった。
その後、亘理は森永に家まで送ってもらった。
帰宅して、後ろ手に扉を閉めた直後、玄関で亘理は座り込んだ。手袋をはめた右手で、口を覆う。緊張が解けた気がした。今更ながらに動悸がする。ドクンドクンと心臓が騒ぎ立てるのだ。ここまで平静を保ってきたが、限界だった。頬が熱い。瞬きをする度に、昨夜の自分の痴態と森永の顔が過る。
「っ」
今後、どのような顔をして会えば良いか分からない。
そう思い悩む程度に、亘理は身持ちが硬かった。
亘理を送り届けた森永は、車を発信させず、そのままマンションの前に停まっていた。バックミラーを見れば、遇津の人間らしき監視が何人か通行人に紛れて見える。森永は昨夜車で追っ手を巻いた。よって彼らは、亘理の家の前で待機するに至ったのだろう。昨日の時点で自分の存在は、遇津および大貫中佐に露見しているだろうが、昨日の状況――薬と朝帰りでは、言い逃れは難しい。逃れる気も逃がす気も無かったが。
「単純に食事をしていただけでは、情報漏洩の証左にはならない」
腕を組み、座席に深く背を預けて、森永は考えた。質の良い駱駝色のコートは、触り心地が良い。手袋と帽子は、後部座席に置いてある。中に軍服を着ているのは、最初から、このまま軍本部に向かうつもりだったからだ。亘理を待って、彼を連れて。
「悔しがる大貫を見ても、気晴らしにもならないしなぁ」
細く息を吐きながら、今後の方策を思案する。昨日ホテルの前にいた理由、朝帰りが不自然ではない言い訳――これは、すぐに答えが出た。
「恋人を心配して、迎えに出かけていた。一夜を過ごして、朝、帰宅した」
一人頷く。誰も反論できないだろう。
玄関の鍵をかけ、気を取り直して外へと出てきた亘理は、停まったままの森永の車を見て、小さく息を飲んだ。窓硝子が開き、笑顔の森永に手招きをされる。硬直しそうになる体を必死で制して、慌てて助手席の扉を開けた。
そこで――発進する前に、遇津からの監視がいる事と、恋人……の、フリをするという森永の計画を聞いた。
「……森永少佐」
「僕が恋人役では、不満?」
「俺も少佐も、男ですが……」
「この際それは問題じゃない。今のご時世珍しいわけでもないしね、特に軍では」
「……」
「それに利点もある。恋人同士ならば、家に行き来してもおかしくはないだろう? 堂々と僕達は、密談できるようになる」
それは一理あると、亘理も思った。そうでなければ、普段は、特別顔を合わせる用事は無いのだ。
「もっと身近なことであれば、君は、昨日どこに行っていたのか、誰といたのか、そう問われた時に、恋人の家だと回答可能になるよ。詳細を聞かれたら、プライベートな事柄につき黙秘するとして通せば良いしね」
森永が言いくるめる。俯いた亘理は、それが正しい事なのか否か、必死で考えた。だが、昨夜の情事が頭に浮かび、冷静に判断できる自信が無い。しかしたった一夜の事を、ここまで意識していると気取られたくはなくて、努めて冷静な表情を保とうとした。
「どうかな?」
「――わかりました」
「それは良かった。ああ、それと――ある意味今後、僕達は共通の敵に戦う同士であるわけだから、軍の関係者の前でなければ、敬語じゃなくて構わないよ」
「そういうわけには――」
「昨日の夜は、敬語じゃなかったけど」
「っ」
「さて、行こうか」
冗談めかして笑った森永に、亘理は何も言えなかった。