第十八話
「昨夜は、どこに帰ったんだね?」
いつもと同じ朝の風景だったが、大貫中佐の口から放たれた言葉は、いつもとは違った。亘理は、静かに上官を見る。この言葉では、帰宅しなかった事を知っているのがまる分かりだ。監視していたのを、自ら露見している。遇津との繋がりも匂わせている。
大貫中佐には、そのような自覚は全く無い。当然の事として聞いたに過ぎない。
不機嫌そうに左目だけ細めて、机の上で両手を組んでいる。
「――恋人が迎えに来てくれたため、その車で恋人の家に行きました。そこで過ごしました」
淡々と亘理は答えた。打ち合わせ通りの言葉である。
それを聞くと、大貫中佐が目を見開いた。
「なんだって?」
「――恋人の家におりました」
「こ、恋人……? 亘理大尉、まさか……森永少佐と付き合っているのかね?」
「プライベートな事柄ですので、お答えするつもりはございません」
考えていた言葉を口にし、亘理は目を細めた。
すると大貫中佐が呆気にとられたような顔をした後、腕を組んで、左手の親指で唇をなでた。唖然とした様子で、何度も亘理と机の上の観葉植物を交互に見る。その後、大貫中佐は何も言わなかったので、一礼して亘理は退出した。
本当に、これで良かったのだろうか。
扉を閉め、亘理は俯く。ただ、肩の力は抜けた。確かに事前に森永と打ち合わせをしていなかったならば、回答に窮した自信がある。踵を返して歩きながら、亘理はゆっくりと瞬きをした。
その日の夜が更けてから、雪の中、亘理は外に出た。少し歩きながら、傘をさそうか悩み、空を見上げる。雪の合間に、月が輪郭を描き出した雲が見える。星は見えない。ゆっくりと走ってきた車が、横で停車したのはその時だった。昨日と今朝で、見慣れた森永の車だった。
「乗るかい?」
「……何か御用ですか?」
「恋人には優しくする主義でね」
「……」
「――誰が見ているか分からないから、それらしい演出をしておいた方が良いかと考えたんだけど。どう思う? 今後に備えても、ね」
「……」
俯いたまま小さく頷き、亘理は助手席の扉を開けた。その表情は硬い。
亘理の横顔を一瞥してから、森永が車を出した。
少しの間、沈黙が横たわる。先に口を開いたのは、森永だった。
「夕食はどうする予定?」
「……酒とつまみを」
「つまみは何だい?」
夜はあまり食べないで、通話にばかり気を取られていたから、咄嗟に冷蔵庫の中身を亘理は思い出す事が出来なかった。言葉に詰まった彼を見て、森永が微笑する。
「オリーブの瓶とキッシュを、君を待っている間に買ったんだ。亘理大尉の分も。良かったら一緒にどうかな?」
「……」
「君の家の監視カメラを撤去するついでに」
その言葉に、亘理は断る理由を思い付けなかった。こうして二人で、亘理の家へと向かった。外には相変わらず遇津の監視が立っていた。
「彼らは自分達が目立たないと誤解しているみたいだね」
滑稽だという風に笑いながら、森永が中に入る。扉を開けていた亘理は、何も答えずに閉めてから、施錠した。軍靴の紐を緩めて、中へと入り、亘理は森永を見た。森永が、キッシュなどの入った紙袋を差し出したからだ。ワインの瓶が見える。
「本当に頂いてよろしいんですか?」
「敬語じゃなくて良いと言わなかったかな?」
「……」
「勿論良いよ。僕も食べるし飲むけれどね」
「――お車ですよね?」
「明日の朝には、酔いも醒めるさ」
「朝……?」
「僕達は、何のためにここに来たんだったかな?」
「……」
「勿論、恋人同士らしき既成事実を――」
「……」
「――作るためではなくて、密談をするためだ」
「っ」
我に返って亘理が硬直した。不真面目そうに口にしていた森永が、急に真面目な顔をしたものだから、自分の勘違いに羞恥を覚える。誘われているのかと誤解したのだ。亘理は受け取った紙袋を抱きしめるようにして、リビングダイニングの扉を開けた。テーブルの上に袋を置きながら、あからさまに視線を逸らす。
森永は手際良く監視カメラのそばへと歩み寄り、自然な動作で装置を外した。取り付ける時の苦労は並大抵のものでは無かっただろうと考えつつも、あっさりと手に取る。そして手袋をはめたままの手で、それを破壊した。その後は、以前も座った通りに、横長のソファの端に陣取った。
そこへ、亘理が簡素なロックグラスを二つと、ワイン、そしてつまみを持ってやってきた。狭いテーブルの空きスペースにそれらを置く。ワインには不似合いのグラスだが、この家には、他にはまともなグラスが無かった。この二つは、軍のイベントの景品である。
時計が夜の十一時半を指した。
「それで、どのようなお話ですか?」
「何がだい?」
「……」
密談の内容を真面目に問おうとした亘理の隣で、キッシュを食べながら森永が笑顔で首を傾げる。その様子に、ワインを飲みながら、亘理が眉を顰めた。
「話があるんじゃ……?」
「まぁ色々とね。例えば君の妹さんの映像と通話を直に見てみたいというのもあれば、大貫中佐を潰す方法を君の観点から聞いてみたいというのもあるし――遇津のVRに関しても、君の口から詳細な状況を聞きたいと思っているよ」
「……」
「ただね、僕達の間には、まだ信頼関係が無い。個人的に話すのが、これで三度目に等しい僕に、妹さんを見せろとは言いにくいし、仮にも上司の潰し方を聞くというのもね……遇津に関しても、君が現段階でどこまで話してくれるのか、まだ僕の側でも君を信用しきっているわけではないから何とも言えない」
「……では、どうすれば?」
「まずは親交を深めようかと考えてね。それには、一緒に食事をするというのは、悪くないと思うんだ」
穏やかに笑った森永を見て、亘理は目を細めた。つまみには手をつけず、ワインを煽る。それから断って煙草を銜えた。ふと思う――食事をして親交が深まるならば、自分と大貫中佐など今頃非常に親しいはずであると。しかしながら、そんな現実は無い。
そもそも信頼関係が何なのか、亘理には分からない。
亘理は誰の事も、信頼などしてはいないのだ。
――にこにこ笑って対応しろという意味だろうか? そんな事を考えた。
「亘理大尉。僕は、君のことをもっと知りたいんだ」
「例えば、何をですか?」
「好きなもの、嫌いなもの、そうだな、食べ物、動物、植物、風景、音楽、絵画、なんでも構わない」
森永の言葉に、亘理は戸惑った。何も思いつかない。
記憶にある限り、もう何年も、聞かれた事は無かった。
亘理には、趣味も何もない。そもそも何かを楽しもうと思った覚えも、ここの所は無い。
「話すことが何もないという顔をしているね」
「ええ」
「では、一つ一つ作ろうか」
「どういう意味です?」
「食事、動物園と自然公園の観光、旅行、コンサートと美術館のチケット。用意しておくよ、これから好きになれば良い。僕と一緒に出かけよう。その方が親交も深まるだろうしね」
悪戯っぽく笑った森永を見て、亘理は何も言えなかった。