第二十五話




 亘理がタクシーから降りて歩み寄ると、遇津が首を傾げた。

「大貫中佐は、どうなさったんですか?」
「――具合が悪いそうです。風邪を俺が移してしまったのかもしれません」

 平静を装い、亘理が平坦な声で答える。

「そうですか。日を改めますか?」
「いいえ、先に見てくるようにというご指示でした」
「なるほど、では参りましょうか」

 疑った様子もなく、遇津は、出会った時と変わらない笑みを浮かべた。亘理は、彼のこの表情を見ると、いつも吐き気がする。二人でエレベーターに乗り込み、扉が閉まった時、遇津がカードキーを壁の溝に滑らせた。護衛や秘書の姿は無い。考えてみると、完全に二人きりになるのは、家族が脳だけになった姿を見に行ったあの日以来だった。

「動機は、森永少佐ですか?」

 エレベーターの中で、遇津が静かに聞いた。意味が分からず、首を傾げそうになりなったのだが、亘理は体を制した。すると遇津が、階数表示のパネルを見たまま続けた。

「仮想現実の共有システムを今になって手がけるだなんて――二者間であっても共有可能になれば、生者もまたVRに外部接続すれば、実際に触れ合う事も可能になりますからね。仮想現実において、生前と同じように抱き合い、口づけを交わし、体を重ねる事も可能になる」
「……」
「いつか亘理大尉が仰っていた、他者からの刺激を、感じる事が出来るようになるわけです。生者と、今度こそ、何も変わらなくなる」

 遇津の声に、亘理は目を閉じた。森永ともう一度会いたいかと聞かれたら、勿論答えは決まっている。だがあくまでもそれは、現実においてであると、亘理は一人頷いた。

 エレベーターが地下十三階に到着した。今まで亘理が知っていたのは、地下十階までであったから、ここが最下層なのかと思案する。鉄で組み立てられた足場を通り、巨大なプールじみた薬液の濾過施設へと到着した。その合間をさらに進むと、正面にある巨大なタンクが目に入った。梯子がついていて、それを登れば、タンク内部が直に見られると、亘理は知っていた。大学にも同じ設備があったからだ。

「中を見せてもらう」

 亘理はそう口にして、梯子を登った。遇津は頷き、それを見守っている。一番上まで上がった亘理は、上層部の蓋を開け、遇津を一度ちらりと見た。目が合うと、微笑された。露見した様子は無い。見えないよう角度には気を遣いながら、内ポケットからアンプルを一本取り出す。その蓋を音もなく開けて、亘理は中の液体をタンクに垂らした。

 ――これで終わりだ。

 空になったアンプルを、今度はわざと見えるように動かし、内部の薬液を掬っているフリをする。そしてアンプルをポケットに戻し、タンクの蓋を閉めた。そうして梯子を降りた。拍子抜けするほどに、簡単な事柄だった。

 床に立った時、本当にこれで成功したのだろうかと、胸騒ぎがした。したはずだ。そう考えるものの、効果を見るまでは、まだ安心できない。病院の脳全体が感染するまでの予想時間は二十七分だ。亘理は腕時計を一瞥してから、改めて遇津を見た。

「ご協力、感謝致します」
「どういたしまして。この後は、どうされますか? 食事の席を設けておりますが」
「――軍の研究施設に戻って、解析して参りますので」
「そうですか。あ、ご家族と森永少佐には、会っていかれますか?」
「……」

 亘理は迷った。愛に行けば、この目で彼らの死に立ち会える。
 効果が出たかも把握できる。だが――……苦しくなって、下ろしたままの手の拳を握った。

「大貫中佐殿への報告もあるので、帰ります」

 ここで捕まってしまったならば、失敗した時に次の手が打てない。
 内心でそう考えながら、亘理はそれが言い訳に過ぎないと自覚していた。
 今になって、どうしようもない後悔と罪悪感が襲ってくる。
 昨夜、何故妹や森永に、最後の別れを告げなかったのだろうかと、記憶の中で笑う彼らを思い出して、辛くなった。もう、会えなくなるのだ。だが、最後に会いたいのは、脳になった彼らではなかった。

「そうですか。送りましょう」

 こうして、二人でエレベーターに向かった。
 全ては終わったのだと、一人亘理は、自分に言い聞かせる。
 そのまま何事も無かったかのように、エントランスを潜った。そこで遇津とは別れた。

 タクシーに乗り込んだ時、亘理は俯いた。初夏だというのに、全身が冷たい。
 びっしりと冷や汗をかいていた。

 帰宅して、亘理は真っ先にテレビをつけた。滅多に見ないため、ニュース番組のチャンネルすら覚えていなかった。冷蔵庫から取ってきた缶麦酒を片手に、適当に操作する。すぐに見つかり、七時の全国ニュースが始まった。

 ――しかし、予想していたような、遇津に関する報道は何もなかった。

 病院の不祥事をもみ消したのだろうかと考えながら、念のためテレビを消して、VR接続を試みる事に決める。もう既に病原体が回っている頃であるから、通話は不可能になっているはずだ。脳死した者は、仮想現実を作り出す事が出来ない。

 まずは、妹に通話をかけた。コール音は響くが、画面が明るくなる事は無い。
 少しして、errorと表示された。全身から力が抜け、ソファに深く背を預けながら、亘理は缶のプルタブを捻った。勢いよく酒で喉を潤しながら、一度モニターを消す。そうしながら、両親に繋いでも、errorである事を確認した。涙腺が緩みそうになった。しかし堪えて、飲み干した缶を置いてから、最後に森永へと接続した。

「……」

 無事にerrorと表示された。安堵の息を吐いてから、亘理は煙草を銜えた。
 ――サイレンが響いたのは、その時の事である。
 チャンネルを報道番組に戻すと、字幕が出ていた。

『遇津総合病院で火災が発生しました』


 翌日の新聞に、遇津総合病院が全焼し、多くの患者が亡くなったという記事が載った。焼けてしまった以上、地下施設の脳も跡形もないだろう。亘理には、遇津の他の意図も分かった。証拠の隠滅だけではなく、病原体の根絶も意図していたのだと考えられる。亘理が行ったとまでは考えていないかもしれないが、何かが脳を変異させた事に、その場にいた科学者達が気づかないとは思えないからだ。

 次の日軍に行くと、大貫中佐は、まだそのまま執務机の下にいた。怯えるように見上げられたため、無表情で亘理は解放した。溜息を吐きながら、亘理は告げた。

「今から強姦未遂罪で、軍の警邏の人間に引渡しをさせて頂きます」
「!」

 狼狽えたような顔を大貫中佐がした時には、既に警邏の人間達が入ってきていた。
 大貫中佐から被害にあったという報告は多数入っていたらしく、彼らは亘理に感謝を述べて、大貫中佐を連行していった。このようにして朝が過ぎて行き――事態が発覚したのは、十一時半をまわった頃の事だった。

 ――軍の首脳部と連絡が付かない。
 ――昨日までは、映像通話が可能だったのだが、応答がない。
 ――所在地に確認を取っても、そのような人物はいないと言われる。

 亘理はぞっとした。そして――これを知ってしまったから、森永少佐は脳だけにされたのだろうと悟った。首脳部の軍人達は、昨夜遇津総合病院で焼死したに違いない。脳のみだった体が、焼け落ちたのだろう。

 その後、軍は混迷を極めた。
 収集を図ったのは、大貫の本当の副官である箱ア中佐など、外に出ていた軍人や、協力を申し出てくれた、御倉などの近隣大学等の民間人だった。亘理にとっては事後処理――他の者にとっては、失踪した上層部の捜査と、不在における軍の立て直しの中で、亘理は御倉と話す機会があった。

「恋人は、無事に天国に行けたの?」
「――ああ。恐らくな」
「恐らく? 亘理らしくも無い。恋人だけは、自分の手にかけてあげれば良かったのに。後悔は無いの?」
「……良いんだ。俺ができる範囲の中では、これが最善だったと思う事にしている」

 亘理はそう言って苦笑した。御倉は頷くだけだった。
 その内に、大貫中佐が知っている事を吐露し、亘理も軍法廷に呼ばれた。
 そこで――迷わず亘理は、持っていた資料を公表した。

 ありえないとの声が広がったが、VRについては、解析していた高瀬大尉の証言もあり、皆、認めるしかないという結果に至った。その後――脳だけであったと考えられる人々の身元が特定され、そういった者達の家族を軍の関係者は調査した。多くの者が、火災を誘発したと報道されている病院内部の食堂に対して呪詛を吐く。そんな中で、それとなくVR接続の話を聞き出せば、大半が泣き崩れた。幸せな時間を返してくれと号泣していた。

 首脳部が全て脳であったなどというのは、軍の不祥事である。
 新しく立て直された軍の統括本部において、この件は、抹消される事に決まった。
 亘理にも処罰はなく――どころか、彼は昇進した。人手不足が著しいため、准佐を一足飛びに越えて、彼は亘理少佐となった。優秀な人間を、軍は欲している。その采配をした箱ア少佐は、中佐となった。こうして亘理は、箱ア中佐の副官として、新しい日々を過ごす事になる。


 後世の歴史において、日本連邦では、国防軍の根強い反対があり、仮想現実による終末医療が発展しなかったという論説が展開される。この国において、VRシステムを用いず、最後に自然死した人間の名前は――亘理依月だった。




(終)