第二十四話
「やぁ、風邪だったそうだね。いきなりの欠勤で、私は非常に困ってしまったよ。恋人の死で疲れが溜まっていたのかね? まぁ、無理は禁物だ」
出勤して、亘理が大貫中佐の前に立った時、上司は観葉植物に水を与えながらそう告げた。実際この執務室へとたどり着くまでの間、亘理の不在で混迷を極めていた部下達が、矢継ぎ早に指示を仰いだものである。
「ご迷惑をお掛け致しました」
「全くだ」
「――大貫中佐殿、実は、その間にひとつ思いついた理論が」
「理論?」
「仮想現実の共有理論が固まりました」
亘理は声を潜めて、大貫の耳元で囁いた。その言葉に、未だ誰もが成し得ていない夢の技術であると知っている大貫は、小さく息を飲んだ。亘理は第一人者だったのだから、それを実現する理論を思いついても不思議はない。冷静にそう考えつつも、それよりも耳に当たった亘理の吐息の方が、大貫中佐をゾクリとさせた。
「大貫中佐殿の指揮で、実験さえ行えば、あとは完成となります。大貫中佐殿のご采配は、軍上層部の――国民の知るところとなるでしょう」
大貫の欲望には気づかず、亘理は肥大した自尊心にばかり着目していた。顔を上げた大貫の瞳が光ったのは、てっきり名誉欲に駆られたからであると考えていた。
「実験、か。確かに私であれば、いかようにでも用意が可能だろう」
「では――」
「見返りは何だね?」
しかし響いた声に、亘理は硬直した。名誉を自分の手柄にする事は、大貫中佐にとっては見返りには当たらないのだろうかと、今更ながらに焦燥感を覚える。静かに目を細め、大貫中佐は卑しく笑った。亘理はそれを見ながら、同じ見返りという言葉であっても、っ先日御倉が口にしたニュアンスとは違う事だけを感じ取った。
「亘理大尉」
大貫中佐が、亘理の肩に手を置いた。その手を首筋に這わせ、そして頬に触れる。怖気が走った亘理は、無意識に一歩後退した。すると大貫が詰め寄る。
「君の不在で、ここの所は、夜の運動が出来なくてね。私の体は熱いんだ」
「……っ、大貫中佐殿……?」
「君の口が、森永少佐――死亡特進して、少将殿に、どのように仕込まれたのか、興味があるねぇ」
「な」
「――それで? どのような実験設備が欲しいのだね?」
「……」
「先に聞いてあげようではないか。私は、優しい上司だからね」
亘理は震えを押し殺した。大貫の瞳に宿っている欲情を見て取る。舌なめずりした上官の、荒い鼻息が首筋にかかった。嫌な匂いがするのは、元々の事である。だが今はそれ以上の嫌悪で、亘理は呼吸をするのが嫌になった。大貫はといえば、自分の体臭や醜悪な脂肪に嫌がりながらも快楽には抗えない者達を見るのが好きだった。嫌がるからこそ支配欲が満たされるのである。
「……実験設備というか……遇津総合病院のVRシステムを維持している大元の薬液タンクの状態を確認し……サンプルに少しその薬液を……ただし、これは……内密に行いたいので、遇津側には、ただの視察であるとして……っ」
「なるほど、見学に行けばいいのだね? 亘理大尉を伴って」
「はい……大貫中佐殿、あの」
追い詰められた壁に背を当てながら、亘理は視線を落とした。大貫の手が、亘理のベルトにかかっている。その状態で、既に硬くなっていた己の陰茎を、大貫が亘理の腹部に押し付けた。下衣越しでも、はっきりと分かり、亘理の背筋には怖気が走った。
「今ここで私の欲望を満たしてくれるというのであれば、夜には希望を叶えよう」
「っ」
「君の選択次第だよ、亘理大尉」
亘理は言葉を失った。ニヤニヤと大貫は笑っている。緩やかに服の上から、亘理の陰茎を撫で、脂肪が揺れる両頬を持ち上げた。太い指先で亘理の耳の後ろをなぞりながら、さらに詰め寄る。唇と唇が触れ合いそうな距離で、さらに続けた。
「どうするかね?」
「……」
「亘理大尉、どうしたら良いかは、既に分かっているはずだ」
「……よろしくお願いいたします」
「それで良い。遇津に約束を取り付ける電話をしてやるから、見ていると良い」
こうして大貫中佐が体を離した時、亘理は壁に背を預けたまま、へたりこんだ。寒気がして、体から力が抜ける。目の前で、大貫が遇津雪野に電話をするのを、青褪めながら亘理は見ていた。電話が終わると、大貫が鍵をかけてから、楽しそうに笑った。そして亘理を見る。
「これで邪魔者は誰も来ない。夜には君の希望も叶う。さて、私の希望は今叶えてもらうとしようか。舐めろ」
大貫中佐はそう言うと、躊躇うこともなく、自身のベルトを外し、下腹部を露出させた。脂肪がへそを見えなくしている。迫ってくる大貫に吐き気を覚えながら、亘理は必死で立ち上がった。左手に光る、森永の遺品の指輪を見る。脳裏に森永の姿が過ぎった。まだ生きているが、亘理の中では死んでしまった――恋人だ。
必死に考える。大貫中佐がいなければ、今夜の約束を遇津側は疑うかもしれない。
けれど――亘理大尉は、手で後ろのポケットに触れた。中には、小型のスタンガンが入っている。恋人を裏切るわけには行かない。
室内にスタンガンの音が響き、大貫中佐が仰向けに倒れたのは、そのすぐ後の事だった。
その後亘理は、大貫を拘束し、執務机の下に押し込んだ。
しばらくは眠っているだろうと考えたが、念を入れて身動きを封じる。
それから、何食わぬ顔をして仕事へと戻った。大貫中佐の不在を気にする者はおろか、不在に気づいた者すら出てこない。いつも通り、執務室にこもっているのだと、誰もが考えていた。皆は、亘理がいれば、それで良いのだ。全てを指示しているのは、亘理なのだから。ただただ亘理本人だけが、時が経つのを緩慢に感じた。
その日は、珍しく定時に、亘理が帰ると言い出した。仕事は溜まっていたが、風邪をぶり返されてもかなわないからと、部下達が見送る。亘理の行き先は、遇津総合病院だった。しかし勿論、受診するためではない。
病院に到着すると、総合玄関に、遇津雪野が立っていた。
タクシーの窓越しに、亘理と遇津の目が合う。
既に季節は、初夏だった。