第二十三話
午後五時丁度に、嘗ては日参していた研究室の扉を亘理は開けた。すると、白衣を纏っている御倉が顔を上げた。室内には、他に人気は無い。静かに入り、それとなく亘理は施錠した。御倉はそれを見ていたが、何も言わなかった。
珈琲をプラスティックのカップに注いで、御倉がソファの前に置く。
慣れた仕草で座った亘理は、室内に視線を這わせた。
――目的は、奥の第一種指定管理薬液庫である。国内でも、この研究室にしか存在しない、貴重な機械薬液が、いくつもそこにある事を、院生時代に亘理は知った。中には亘理自身が作り出したものも多数ある。
「それで?」
亘理の正面に座り、御倉が膝を組んだ。その上に手を置いている。
じっと亘理は、御倉を見た。薬液庫の管理者は、研究室の責任者と規定されている。生体認証で、扉は開く。つまり御倉に協力してもらわなければ、薬液を手に入れる事はできない。
「即効性があるプリオン蛋白を用いた変異研究を思いついてな」
「――プリオン病を人工的に誘発するという事?」
「そうだ。脳を海面上脳症に類似した状態にする」
「クロイツフェルトヤコブ病のような?」
「その通りだ」
「どうやって感染させるの? 即効性のプリオン蛋白は確かに発見特定されているものもあるけれど、その速度を十分に発揮させるためには、直接的に脳に触れさせなければならない。狂牛病のように経口摂取していたのでは、遅効性の一般プリオン病と大した差は無いから、僕らの寿命よりは効果を観察するのが少し早いかなといった程度になるだろう」
「脳を満たしている機械薬液に直接、液状投下をする」
「非常に効果的だとは思うけど――随分と物騒な話だ。それは、殺傷行為となる。脳だけの実験動物の処理には、薬液を水槽から抜けば十分だ」
御倉は声音も表情も変えず、淡々とそう口にした。それから眼鏡を外して、テーブルの上に置く。考えるようにこめかみに手で触れてから、彼は片目を細めた。
「軍研究所ではなくて、僕に直接連絡をしてきたのだから、ごく個人的な研究なんだろう? よって、ここにしかない薬液――以前に、設備自体も一般薬液も手元には無い。違う?」
「その通りだ」
「亘理、僕は友人が犯罪者になる姿は見たくない。共犯者になりたいとも思わない」
「……」
「けれどその研究は非常に魅力的だ。どの程度の期間で、完成する試算なの?」
「一週間あれば良い」
それを聞くと、御倉が腕を組んだ。
「亘理――昨日君は、人は変わらないと口にしていたけれど、君は変わったよ。優しい君には、昔ならばこういった計画は立てられなかっただろう。例えば、僕を気絶させて、無理に薬液庫の扉を開けて、中の瓶を持ち出すような計画は。ああ、そうだね――僕は、死にたくはないから、拳銃で脅された事にでもしようか。その用途を僕は知らず、その後気絶させられた。恐怖を覚えてその事実は黙秘していた。いいや、衝撃で短期的な記憶障害でも患った事にしようかな。僕の実験施設が、たまたまこの街の郊外の雑居ビルの下にあるんだけれど、いつそこの鍵を落としたのかも、忘れてしまおう」
白衣のポケットから、御倉がカードキーを取り出し、机の上で滑らせた。
「ここにある薬液類は、既にそちらに持ち出したものばかりだ。そっくり同じものが地下にある。出入りにだけは、気をつけてね」
「感謝する」
そう言いながらも、まさかここまで協力してもらえるとは思わず、亘理は驚いて目を瞠った。しかし言葉を撤回されても困るから、何も言わない。すると御倉が初めて笑みを浮かべた。
「研究成果物と結果は、そちらの研究室に残しておいて欲しい」
「ああ」
「それと、見返りだけど」
覚悟していた御倉の声に、亘理が身構える。
「たまには――そうだね、月に一度くらいは、食事にでも誘ってよ。連絡をして」
「……ああ。分かった」
結果、拍子抜けするような御倉の言葉を聞いて、亘理は細く吐息した。
こうしてその日の夜から、亘理は研究を始めた。
久しぶりに白衣の袖に腕を通し、半透明の薄い手袋をはめる。試験管を装置にかけて、何度も慎重に調合した。一週間も経たない内に――その病原体は完成した。残りの時間は実験に費やす。研究室の場所が露見しないようにと、風邪を患った事にして軍には一度も顔を出していないし、自宅にも戻らなかった。これは元々は大学の研究室に泊まり込む予定だったから、着替え類を持参していた事と、こちらにシャワーや仮眠室が併設されていたから可能になったと言える。
御倉が顔を出したのは、丁度一週間後の事だった。
「完成した?」
「ああ」
「治験――いいや、治らないのだから、屠殺実験は、順調?」
「……ああ」
亘理は、奥の一角に並んでいる水槽を見た。それらは、最初からそこに存在していたものだ。大小様々な、動物の脳が浮かんでいる。全て変異し、脳の中はスカスカだ。判定するならば、脳死として良い。病原体に侵されたため、赤紫色に見えていた薬液が、今は青灰色に濁って見える。亘理の視線を追いかけて、御倉はそれを確認した。
続いて机の上のデータに顔を向ける。相変わらず完璧な構成式に、亘理の腕と頭脳を改めて御倉は内心で賞賛した。軍人になどならなければ、今頃どれほどの成果を残していたことか――全く惜しい話であると、純粋に学術の徒として考える。
「何を殺すのか聞いても良い?」
御倉が淡々とした声で言うと、亘理が薄く笑った。その瞳は、暗い色をしている。
「――恋人だ」
その日、完成品が入ったアンプルを何本もアタッシュケースに詰めて、帰っていく亘理を、何も言わずに御倉は見送った。