第二十二話




 ――このままでは、行けない。犠牲者が増えるだけだ。

 涙を手の甲で拭いながら、亘理は拳銃を拾い上げた。やるべき事は、泣く事ではない。そうは考えつつ、俯いて微苦笑した。頬を濡らす温水の感触に、涙脆くなったなと自覚し、それも全ては、僅かな時間であったけれど、そばに森永がいてくれたからだと理解する。

 森永のおかげで、楽しいという気持ちも――悲しいという気持ちも思い出す事が出来た。それを、無駄には出来ない。感傷に浸る前に、何よりも強く抱いている怒りを動機に、自分は今からでも行動を起こすべきだ。

 そう考えて、亘理は立ち上がり、ソファに座り直した。首元のネクタイを緩めてボタンを外す。玄関の扉が蹴破られる音がしたのは、その時の事だった。狼狽えて、銃を握り直す。土足で入り込んできたらしき侵入者の靴の音を耳にした時には、リビングの扉が乱暴に開け放たれた。

「亘理大尉、一体何が――……あ」
「高瀬大尉?」

 入ってきた高瀬大尉を見て、亘理は眉間に皺を寄せた。銃には手をかけたままだ。

「じゅ、銃声がしたから、何があったのかと……」

 言い訳をするように、高瀬が答えた。

「何故ここに?」
「え、ええと……た、たまたま通りかかって」

 苦しい言い訳だった。それは互いによく分かっていた。
 実際には、森永の死で思い余って亘理が自殺を図ろうとしたのだと、高瀬は誤解していた。森永の最後の言葉が、遇津が亘理に執着していることを匂わせるものだったから、上司の葬儀以降、高瀬はあくまでも善意で、亘理の周囲を警備しているつもりだった。

 一方の亘理は、室内の監視カメラには気を配っていたが、外に自分を着けている人間がいることには、あまり注意を払っていなかった。それは気づいていないからではなく、それこそ学生であった頃からの常だから、いちいち気にしてはいらなれなかったというのが正確である。だが、高瀬大尉の姿は、意外だった。

「とにかく、無事で良かった」
「……」
「じゃ、邪魔をしたな。俺は帰るよ」

 高瀬は空笑いをしながらそう口にして――そして、気がついた。
 亘理の目が赤い。よく見れば、涙の跡が見えた。

「――お前、泣いていたのか?」
「……監視の仕事の最中なんだろう? 監視対象に接触してどうするつもりなんだ? 俺は無事だ。帰ってくれ」
「監視なんかしてない。護衛だ。亘理大尉に何かあったら、森永少佐に顔向け出来ないからな」

 ごく自然に放たれた森永の名前に、亘理は息を飲んだ。涙が浮かびかけたから、きつく目を閉じ俯いでこらえる。人前でなど、泣きたくは無かった。

 だが――高瀬大尉には、既に亘理が泣いているように見えた。
 震えている肩を一瞥し、失言だっただろうかと冷や汗をかく。

「な、泣きたい時は、ほ、ほら! あれだ! 泣け。存分に泣くと良い」
「……」

 その言葉を耳にした時、亘理の瞳が暗くなった。何も知らないくせにと、八つ当たりじみた憎悪が浮かび、そう思った自分自身には自己嫌悪をした。けれど涙が溢れたのは――あんまりにも、高瀬大尉の声と言葉が優しかったからだ。

「お前が泣いてたら、天国の森永少佐も悲しむぞ」

 何も知らない高瀬大尉の声。亘理は、天国にいてくれたならば、どれだけ良かっただろうかと考える。実際には、水槽で出来た柩の中で、森永少佐は生きているのだ。

 高瀬は、俯いて震えている亘理を見て、必死で笑顔を浮かべながらも、内心で動揺していた。森永を心の中で怒鳴ってみる。自分は、森永少佐のように機転が利く性格では無いから、人を慰めるなんて、得意ではないのだ。どうして恋人をおいて、よりにもよって交通事故になんて合うのか。それも即死……今時、交通事故で即死する人間のほうが、珍しい。だが、高瀬も遺体を見た。巨大なタイヤに轢かれたらしく、頭部はぐちゃぐちゃだった。砕けた頭蓋骨の奥には、潰れてしまったらしく、飛び散ってしまったらしい脳は形もなかった。あの惨状は、とても恋人には見せられたものでは無かったから、あるいは亘理大尉は出張中で良かったのかもしれない。自分ならば、恋人のあのような姿など見たくはない。

 こんな時、森永少佐ならばどうやって慰めたのだろうかと、高瀬大尉は考えた。

「……帰ってくれ……」
「お、おう……じゃあ、またな」

 しかし思いつかない内に、明らかに涙をこらえている亘理の声がしたから、高瀬は踵を返した。自分の無力感を嫌でも覚えさせられた夜である。

 一人に戻った室内で、俯いたまま、亘理は目を長々と伏せた。そうして涙が乾くのを待つ。何度か大きく吐息をしてから、煙草を右手で一本取った。銜えて、火を点け、うっすらと目を開く。体が鉛のように重く思えたが、無理に立ち上がり、戸棚に向かう。中からウイスキーのボトルを取り出して、グラスにロックアイスを入れた。このグラスは、森永が持ち込んだものだ。氷を砕くアイスピックもそうだ。いちいち思い出に苦しくなる。

 蜂蜜の香りがする酒を手にソファに戻り、亘理は煙草を消した。すぐに新しい煙草に火をつける。長い瞬きをしながら考える。家族よりもなお最悪な事に、森永の脳は、位置すらまだ特定できない。遇津総合病院地下である事までは探知できたが、遇津側のセキュリティシステムに変更があったらしく、そこまでしか探る事は出来なかった。これでは家族の脳にしろ、移動させられていたならば、位置が分からない。

 ――もう、直接脳を銃で撃つ事にこだわる時期は過ぎたのかもしれない。
 家族の脳、森永の脳、それらだけを見つけ出して、破壊するよりも、ずっと楽な方策がひとつある。全ての脳を殺してしまう方法だ。これまでにも何度かそれは考えた。だが、実行しなかったのは……用意や手法が困難だからではない。VRに繋がれた愛しい相手との会話に救われている自分以外の人間の事が、脳裏に過ぎったからだ。自分には、その幸せを奪う権利はないと、亘理は思っていた。けれど――もう、良いではないか。

 自分の信念は、脳の破壊なのだ。

 信念などという曖昧な概念を、亘理は好きにはなれなかった。だが、口実には相応しい。
 亘理は、通信用の携帯電話を取り出して、久方ぶりに大学院の頃の友人の情報を呼び出した。連絡先が変わっていない事を祈りながら、壁に掛けてあるカレンダーを見る。明日は、休日だ。

『――はい、御倉です』
「久しぶりだな」
『そうだね。友達甲斐に欠如していた君からの連絡は、卒業してから今日に至るまで一度もなかったから、今後もないと確信していた程だ』

 淡々としている御倉の声は、亘理が知る学生時代のものと全く変化が無かった。
 連絡がなかったとは言うが、逆に言えば御倉から連絡が着た事も無い。

『用件は?』
「――明日、お前の機械薬学研究室に顔を出しても良いか?」
『構わないけれど、質問に答えず、己の質問を口にする癖、まだ治らないの?』
「人はそう変わるものじゃない。何時が良い?」
『四時半に最後の大学での講義が終わるから、五時頃かな』
「では、五時に」

 そう告げて、亘理は通話を打ち切った。御倉遥斗みくらはるとは、現在母校の大学と大学院で助教授をしている。国内最年少の助教授だと聞いた事があった。

 亘理と御倉は、機械薬学研究室で、大学と院時代、常に一緒だった。
 もっとも遊びに出かけた事などは一度もない。常にお互い研究の話題資格地にはしなかった。だが――一応の数少ない友人だと、亘理は考えている。それは、彼よりも深く話した人間が一人もいないという意味に過ぎなかったが。