第二十一話



「っ……」

 目を覚ました森永は、天井を見上げて、二度瞬きをした。
 白い板に丸い模様――軍病院のどこでも変わらぬ風景だ。その事実に死ぬ程安堵しながら、ゆっくりと半身を起こす。頭部に巻かれている包帯に触れた。全身から力が抜けていく。

「優秀な部下を持って、本当に僕は助かったよ……」

 森永は記憶を辿った。先程まで見舞いに来ていた高瀬大尉に聞いたことを思い出す。森永が殴られた直後、屋上で待機していた高瀬大尉をはじめとした部下が乗り込み、救出してくれたのだという。会議を見に行く事は、万が一に備えて部下には伝えていなかったのだが、『森永少佐なら行くと思ってました』と、高瀬大尉に言われて、森永は苦笑するしかなかった。そのおかげで、命が救われたのである。

 殴ってきた相手は、大貫中佐の部下の一人だったらしい。それを理由に、大貫中佐の進退を今、軍の内部で問題提起している。こちらも上手く行きそうだ。森永はそう考えながら、正面にある大きなテレビのモニターを見た。映像通話も可能である。病院の特別室には、ほかには冷蔵庫なども備え付けられている。

 あとは首脳部が、文字通り脳であった証拠を固めて、遇津に迫れば、ひと仕事が終わりである。一人、森永は頷いた。そうなったら、亘理も少しは解放された気持ちになってくれるのだろうか? まだ出張中であるから、直接は顔を合わせていない。だが、毎夜、映像通話は行っている。だから森永は、夜が待ち遠しかった。点滴を見上げながら、せめて亘理に直接会いたいと考える。

 亘理からの通話があったのは、夜の十二時をまわった時の事だった。
 いつもとほぼ同じ時間である。こんなにも働いていては、体を壊してしまいそうで心配だ。モニターが点いた瞬間、森永は満面の笑みを浮かべた。

「お疲れ様」
「――お疲れ様です。体調はどうだ?」
「もういつでも退院できるんだけどね、みんな心配性だから」
「……」

 森永の声に、亘理が小さく頷いた。笑顔が浮かんでいたから、前よりも心を開いてもらえた気がして、森永は嬉しくなった。通話を重ねる度に、亘理の笑顔は深くなる。

「早く君に会いたいよ」
「俺も、会いたい」
「出張はいつまでだっけ?」
「――もう少し、かかりそうなんだ」

 亘理の瞳が、少しだけ暗くなったように思えた。口元の笑みは変わらないが、森永は確かに違和感を覚えた。考えてみると、亘理の笑みも、どこか作り物めいて見える。それはまるで、妹の前で彼が見せていたような表情に近い。

 そう考えて――森永は小さく息を飲んだ。嫌な予感が全身を支配した。

 考えてみる。入院してから、もう何十回も、亘理と通話をしている。即ち、それだけの数、夜は巡ったのだ。その間――点滴の薬液を取替に医者が訪れた記憶が一度も無かった。食事をした記憶も無かった。面会者の記憶――『先程』高瀬大尉が来たというこの記憶――だがこれは、果たして、いつだ? 今日は、寝て起きて目が覚めて夜を待って、今に至る。昨日もそうだ。そもそも――一ヶ月以上包帯を巻きっぱなしで痛みもない頭部が、まだ完治していない……? 森永は、己の手を持ち上げた。握ってみる。確かに手の感覚がそこにはある。だが――仮想現実とは、そういうものだと聞いていた。

「まさか」

 森永は唇を動かした。凍りついた自分の顔が、血肉を伴っているのか、自信が無い。
 亘理の背後の風景を見る。
 ――亘理の部屋だ。もう見慣れてしまった、彼の部屋の壁だ。出張中なのに?

「亘理くん、いつ帰ってくるんだい?」
「……もうすぐだ」
「いつ、会いに来てくれるんだい?」
「……近いうちに」
「今、君はどこにいるの?」
「……」
「僕には君が今、君の自宅にいるように思えるんだけど」
「っ」

 森永の言葉に、驚愕したかのように亘理が目を見開いた。その反応に、森永は半ば確信しながら続けた。

「僕は……見てはいけない首脳部の会議を見に行って、そのまま拉致され脳だけにされたという事でいい?」
「それは――……ッ」

 モニターの向こうで亘理が立ち上がった。拳銃を手にしている。亘理が引き金に手をかけたのが見えた。

「亘理大尉、それはダメだ」

 自殺する気だと、そう判断して森永は思わず叫んだ。ベッドを降りて、モニターの前へと走る。しかし、いくら手を伸ばしても、届くはずはない。その無力感に苛まれそうになった時、亘理が銃口をモニター越しに森永へと向けた。

 ――銃声が響いた。





 自室でモニターを撃った直後、亘理は座り込んだ。拳銃を絨毯の上に取り落とした時、ボロボロと涙が零れ落ちた。もう、笑顔を取り繕っている事など、不可能だった。壊れたモニターの中で何かを言っている森永の姿――見ている事が辛すぎて、亘理は電源を落とした。それから両手で顔を覆う。

 森永が作り出した記憶――架空のそれとは異なり、あの日、森永を助けに行った部下などいない。元々森永は、悟らせずに単独行動をする事に長けていた。その後軍では、『急な交通事故により死亡した』として、森永少佐の葬儀が行われた。亘理は出張から帰宅した日に、それを聞いた。涙ぐんでいる高瀬大尉から、遺品だとして、小さな指輪が入った箱を受け取ったのもその日である。

 遇津から連絡があったのは、森永の墓参りに出かけた日の事だった。

「まだ、生きておられますよ」

 そう言って笑った遇津雪野は、小型のモニターで、白い病室にいる――仮想現実の中で入院していると信じている森永の姿を、亘理に見せた。既に、脳だけになっている事は、明らかだった。

 この日から、亘理の絶望は暗さを増したのである。