【序】山入りの儀式


 その昔、姫神が入る山として、姫御山と呼ばれたその場所は、今では畏怖の対象だ。
 秘(ひめ)魅(み)山(やま)と呼ばれるようになったのは、何時のことか。
 一度立ち入れば、何人たりともその呪から逃れることが出来ない。

 ――さぁ、命を落としても良い者は、足を踏み入れよ。
 ――姫神の祟りが、汝を襲おう。

 それは、東雲(しののめ)水軍(すいぐん)の手が迫り、逃げまどう【濡卑(ヌイ)】にも等しく襲いかかる。

 時は、冬。
 一度夏が訪れれば、この界隈は、青い若草に覆われる。
 穏やかな山間だ。
 姫神伝説など、幼い者に聞かせる伝承だ――とは、残念ながら云われてはいない。
 年に一度の神無月を除き、姫神は常に山にいる。そして迷い込んだ者の命を奪うと、専らの噂だった。
 ――実際に目撃したという証言者は存在しない。
 少なくともそう天領覚書においては公表されてはいるが、未だに山の頂上の社で、女を見たという噂は絶えない。
 近隣にある村――マタギの集落の人間は、今でも注意深く囁き合っている。
 嫉妬深いのが、山の姫神と海の姫神である、と。
 それも手伝い、春になれば年若い男子を連れて山に入り、その子種を木々に蒔く儀式が、古くから連綿と行われている。姫神は嫉妬深いとの噂だから、決して女子が狩りに参加する事も無い。
「ん、ぁ……親方様ッ」
 今年の贄に選ばれた十五歳の少年が、快楽で熱くなった吐息を零す。
 彼を連れてきた一群は、輪になり、その様を見ている。
 ただ一人、頭領だけが――開けさせた少年の衣の下の、まだ淡い色合いの楔を片手で扱いていた。少年のまだ熟しきらない陰茎が、初めての熱に浮かされている姿は、儀式といえど、どこか淫靡である。
「っ、ぅ、ぁ、あ」
「大丈夫だ、順(かず)威(い)」
「や、やだぁッ、うあ」
 少年の男根からは、ダラダラと先走りの蜜が漏れている。
 その白液を――大木の幹にかければ、儀式は終了だ。
 これは、順威が住む度会(わたらい)村(むら)のマタギに限った儀式ではない。
 隣の下郷(しもごう)や、雛(ひな)原(はら)、近隣の海を治める東雲水軍なども、類似の儀式を行っている。
「ああっ!」
 その時、順威が頭領の手で果てた。
 少年は、ぐったりとその体を頭領に預けて、肩で息をしている。
「よく頑張った」
「……はい」
 心底疲れきっていた順威は、何度か虚ろな顔で瞬く。長い睫毛にも、眦にも涙が滲んでいた。それは、使命を達成したという安堵感からでもあったし――初めて知る熱の解放ゆえの、快楽からの脱出が理由でもある。
「これで今年も狩りは安泰だな」
 ――誰かがそう言うと、賛同する声が、各所で上がった。
 子種を蒔くことは、狩りの成功への祈りでもある。
「――けどよ、東雲水軍が、雛原村を襲ったって言うよなぁ」
 その時思い出すように、中堅のマタギが呟いた。
「雛原は、しかたねぇ。なんせ、寺と村長が、【濡卑(ヌイ)】の一座を庇ったらしいからな」
 濡卑(ヌイ)とは、業病を患った人々の集団を指す――差別用語である。
 前世で罪を犯した人々が、罹患する『呪い』だとされていた。
 呪いを『発症』すると、皮膚が焼け爛れたように、腐り果てていくと言われている。
 それは、この界隈に限った事柄ではなく、この和の大陸全土に広がる知識だ。
 天領を直轄する主上が、全国にお触れを出している以上、これは確固たる事実として、民衆に受け入れられている。裏を返せば、その情報は、このように辺鄙な土地の小さな集落、村々にも周知されていた。
 よってこの界隈――桧森(えもり)郡(ぐん)においても、濡卑は、忌諱の対象である。
 濡卑の一座は、基本的に忍者のような黒装束を身につけていて、顔には御崎狐の面をつけている。それは、業病により腐敗した肌を隠すために他ならない。手袋も足袋も黒だ。
 基本的に、各一座に一人だけいる『神子』だけが、白装束で、面を外すことを許されている。その者は、濡卑の呪いが許されるよう、八百万の神々や御仏に祈りを捧げる存在だ。
 ――ハンセン病。
 仮に『現代』を知る者が見れば、そう呼んだだろう疾患にほかならない。
 この大陸を治める主上の御布令で、濡卑は、各村に三日間のみ滞在が許される。
 それが、濡卑の一座である。
 しかしながら――近隣にあった雛原村はその掟を破り、定住を許そうとしたのだという話は、噂ではなく事実として、既にこの度会の村にも伝わっていた。
「秘魅山か……」
 呟きながら、順威は遠くに見える山脈を眺める。
 今、少年がいる場所もまた雪の残り香が漂ってはいるが、嫉妬深い姫神がいるとされる正面の山には、現在順威がいる位置からでもはっきりと、白い雪が見て取れる。
「無事に儀式は、完了だ。姫神様もさぞ喜んで下さる事だろう」
 頭領がそう言って、順威の柔らかな髪を撫でる。
 ――それは、実にありきたりな、ある冬の終わりの出来事だった。