【1】日本人救済プログラム
――今となって思えば、笑い話だ。
遊びほうけた大学時代。
それらが過ぎ去り、社会の歯車の一つに、望んで就職した過去から見た将来。
望んでも、歯車の一つにすらなれない人間の、なんと多い事か。
少なくとも、藤堂(とうどう)御鶴(みつる)は、そう考えていた。
――大学で上京し、都下の街をホームグラウンドにしていた御鶴。
都心にはほど遠かったし、憧れていたような東京の顔をしている街では無かったけれど、御鶴はその街で、大学生活を謳歌し、そして卒業した。
ごくごくありきたりな大学生となり、平々凡々な日々を過ごし、卒業したのである。
彼のような人間は、ありふれている。
御鶴自身、己が特別な人間であると感じた事は、ただの一度しか無い。
――同じサークルの出身者で内輪飲みがあったのは、卒業してすぐの連休のことだった。世間は、ゴールデンウィークに浮かれていた。新社会人になって、最初の、学生時代との仲間の飲み会だった。毎日顔を合わせる貴重な時が終わっても、関係が続いている幸福を、御鶴は嬉しく感じていた。
薄暗い暖色の照明に彩られた居酒屋。
海鮮サラダを取り分けてくれたのは、高須賀(たかすが)義秋(よしあき)という名前の、御鶴よりも一つ年上の『先輩』だった。学年も一つ上である。
御鶴達、新卒業生の代の飲み会に、わざわざ駆けつけてくれた先輩の一人だ。
――御鶴が初恋をした相手であり、そしてその恋が実らなかった相手でもある。
この『恋』だけが、御鶴にとっては、『己が特別である』と意識した、たった一度の出来事だった。平成の日本社会において、同性愛は決して主要な概念では無かった。LGBTという概念をニュースで耳にする事はあれど、身近にそれらが存在するわけでも無い。
「食べないのか?」
薬指に銀色の指輪をはめた『先輩』が、その時御鶴を見た。
「僕、野菜苦手なんですけど――食べちゃおうかな」
「ああ、食え食え」
朗らかに、明るい声で義秋が笑った。
御鶴は彼の、その声が好きだった。少し低めのテノールの声音だ。
――けれど、忘れなければならない感情を抱いている相手である。
受け入れられることが無いのだという事を、御鶴は知っていた。
なにせ義秋には、在学中から付き合っている恋人がいた。相手の彼女もまた同じサークルの先輩だったから、御鶴は嫌と言うほど見せつけられて過ごしてきたものだ。
――先輩が幸せなら、しょうがない。
理性がそう、いつも告げる。
それでも御鶴はどこかで、どす黒い感情に体が支配されそうになるのを実感していた。
先輩にこの気持ちを伝えて、二人でいたい――そんな感情が消えてはくれない。
危うい恋心だった。
紛れもない恋心だった。
……――『今になって思えば、全く笑ってしまう』と、その後、御鶴は考える日常に身を置く事となるのだが、サラダを食べるその瞬間は、ただただ隣にいられる事だけが幸せだと感じていた。
嫌いなレタスを噛んだ時、新鮮さを象徴するように葉が割れる音が響いたのだが、御鶴は音は理解できても、味などろくに感じる事が出来なかったものである。隣で微笑む義秋の表情を見る事に必死で、更には、恋心を、内心を抑える事に注力していたせいで、他の何事も頭には上手く入ってこなかったのだ。
夜風を浴びて私鉄のホームに立ったのは、飲み会の終了後――御鶴は、漸く我に帰った心地で、始発待ちをしていた。
「疲れたんじゃない?」
隣で電車を待っている親友――鴻巣(こうのす)晴臣(はるおみ)に声をかけられて、御鶴は顔を横に向けた。晴臣と御鶴は、入学当初から卒業する間際まで一緒だった。別れたのは、就職活動の時分のみである。
「義秋先輩の前で、よく笑ってたと思うよ」
御鶴の恋心を知っている晴臣の声が、人気の無いホームのベンチで静かに響いた。
他に聞いている者は、誰もいない。
――同性が好きだと話しても、受け入れてくれたからこその、親友なのかもしれない。
時折、御鶴はそう考える。晴臣には、不思議と何でも話してしまう事が出来た。
御鶴は、普段はいつも、微笑を浮かべている。
だが、己の恋心を話したあの時、自分が笑ってはいなかったと記憶してもいた。
それでも、晴臣の態度は、何一つ変わらなかった。
以来、だ。
晴臣の前では、御鶴は、素直に涙を零す事が出来る。
――だから今も、ガラでもなく、涙が浮かんできたが、無理に笑う事はしなかった。
心が痛い。このままじゃ――悲しすぎる。御鶴は、確かにそう考えていた。義秋を思えば思うほど、心が苦しくなっていく。
だけど。
「――良いんだよ」
御鶴は、そう呟いた。
だが多分それは、彼の本心では無かった。
けれど強がりな御鶴は、泣く事こそ覚えたが、それ以外の言葉を誰かに対して口にする事など出来はしなかったのである。いくら親友が相手であっても、それは変わらない。
瞬きをする度に、瞼の裏側に、アッシュに染めた義秋の髪と、黒い瞳が過ぎる。
――猫を彷彿とさせるアーモンド型の瞳をしている先輩、いつも良い匂いがした先輩。
何よりも御鶴は、優しくて頼りになる、義秋の性格が好きだった。
「そうか」
晴臣はそれだけ言うと、静かに頷いた。薄茶の髪が揺れている。彼は、元々色素の薄い茶色い瞳をしている。ただ髪の色に限っては、染めすぎていたため黒くし直しても、もう色が抜けてしまっているため、純粋な色には戻らないらしい。
外見は遊びなれた大学生そのままの晴臣であるが、彼は――気を遣って御鶴に深く追求する事をしない。決して、してはこない。涙を見て取った場合であっても、だ。
だから多分、御鶴は晴臣と、親友と呼べるくらい仲良くなれたのだと、そう考えていた。あるいは単純に家が近かったからだけなのかも知れないと、学生時代のアパートについて思い出す日もある。
共にいた期間は意識しなかったが、社会人になり互いに引越しをしてからは、同じ物件に住んでいた自分達の当時の物理的な距離の近さを実感させられた事もあった。
義秋とは別の角度から、晴臣もまた、御鶴にとっては、『大切な他者』の一人だ。
「有難う、晴臣」
「良いんだよ、御鶴の幸せが俺の幸せだから」
――焼夷弾が降ってきたのは、その時の事である。
轟音に聴覚を侵され、気づいた時御鶴は、立ち竦んでいた。それからすぐに、『何らかの災害が発生したのかもしれない』と、御鶴は考えた。音の正体が分からなかったのだ。
だから、隣に立つはずの親友に声を掛けようとして――隣で、晴臣の体が傾くのを見た。
「晴臣……?」
首を傾げようとした時、それよりも少し早く、御鶴の靴の上に、何かが落ちてきた。
何故なのか倒れようとしている親友を支えなければと考えてはいたが、突然の衝撃に、咄嗟に視線を地面に下ろす。
そして――足下に転がっている、晴臣の首を視界に入れた。
薄茶色の瞳と、目が合う。しかし、そこに生気は無い。
何が起こったのか、始めは理解できなかった。しかしホームに充満し始めていた煙と、崩れ落ちた壁の存在を意識し、何らかの爆発が起きたのだろうと、必死に判断する。
――爆発に巻き込まれ、飛び散った晴臣の血が、御鶴の顔に降りかかったからなのかもしれない。
御鶴の靴を直撃した親友の頭部が、本来鎮座していたはずの首から下が、傾きながら血飛沫を上げていた。
「――、――」
その時御鶴は、恐らくは、何かを叫んだ。
けれど御鶴自身にも、それが意味ある言語の体を成しているとは思えなかった。
――次に気がついた時、御鶴は周囲の視界を、白に埋め尽くされていた。
『これより、≪日本人救済プログラム≫を実行します』
――日本人救済プログラム?
その言葉の意味を理解する前に、御鶴は、辺りに満ちた白い光に飲み込まれた。
これは、瞬きをするほどの、一瞬の出来事だった。
次に気がついた時、御鶴は見知らぬ場所にいた。
背後にある多くの段ボールと共に、古めかしい家屋の中で佇んでいたのである。
それは第三次世界大戦が急遽勃発し、日本人の保護――『種の保存』を目的に、冷凍(コールド)睡眠(スリープ)を、生存者が半ば強制的に強いられた結果だった。
御鶴が、寝て起きるまでの間に――プログラムの全てを指定した科学者は亡くなり、文明水準は大きく後退しているようだった。
後退していたのだ、確かに。
とはいえ、そこは――果てしなく先にあった未来だった。
現実的に思い描く事が可能な、『将来』等とは、一線を画す、悠久の時が流れていた。
――御鶴に、これらを教えたのは、『政所(マンドコロ)』という名の、人工知能である。科学者達が、自分達の死後に備えて、用意していた代物らしい。
兎も角こうして御鶴は――彼の記憶にある以後も続いていたらしい、数多の高水準文明がもたらした恩恵と、沢山の書籍、そして『平々凡々な一人として生きてきた記憶』を手に、新たな場所で再生を迫られた。
江戸、あるいは戦国時代程度まで退化した新たな『日本』において、目を覚ましたのである。日本人の生存者は、たったの三十一名。それを教えてくれたのもまた、政所である。多くは、目覚めることなく、冷凍睡眠用のカプセルの中で亡くなったと知らされた。
このようにして、好きな相手も、親友も、皆死んでしまい、御鶴はただ独りきりとなった。
――こうなるくらいであるならば、ただ生きている姿を見られるだけで幸せだったのに。
御鶴は、度々そう考えては、とある山の奥深くで、生活を送り始める事となったのである。