【2】降りしきる雪の中で




 ――深々と雪が降っている。
 千秋(ちあき)は、背に抱える青年の体を、背負い直した。
 黒装束に御崎狐の面をつけた千秋の肩に、ぐったりと一人の青年が顎を預けている。背負われている、神原(かんばら)朱雀(すざく)は、頭部と肩、腹部に、深い傷を負っている。包帯を巻いてはいるものの、溢れている血が止まる気配は無い。
「……置いていけ」
 雛原村の若き村長であった朱雀が、その時、掠れた声でそう告げた。
「……」
 千秋は何も答えない。
 青年を背負い歩く彼は、ただ大きく吐息しただけだった。真冬だというのに、千秋の体は流行病で熱を孕んだかのように熱く、汗が止めどなく浮かんでくる。大きく呼気して、少しでもその熱を逃そうと試みたが、上手くはいかない。
 無論、体を楽にし、より早く退避するならば――背負う青年を捨てて行くのが、最良の選択だ。それは、十分理解していた。
 ――けれど。
 そんな事が、出来るはずは無かった。
 無かったからこそ、何も答えられなかったのである。
 東雲水軍に狙われていた千秋達を、暫しの間匿ってくれたのは、他でもない朱雀達――雛原村の人々だったからだ。その為、東雲水軍の急襲にあい、村は壊滅した。逃げようにも近くの街道は、桧森郡大名の、毛利(もうり)明(あか)利(とし)の軍勢が封鎖していた。
 挟み撃ちにあうような形だったから、千秋達に残された逃げ道は一つだけだった。
 ――山に、逃げ込む事のみだった。
 投降することは論外だった。
 そうすれば、皆が処刑されるのは目に見えていた。
 そもそも千秋達が狙われていたのは、『この国から呪いを排除せよ』という主上の命令を、東雲水軍が引き受けたからだという話だった。仮にそれがなくとも――濡卑の一座を、規定の三日以上滞在させれば、その村は罰を受けるのが、『決まり』である。
 綿雪を踏みしめながら、千秋は山を登っていく。
 ここは――秘魅山だ。
 一度立ち入れば、姫神の呪いを受けるのだという。
 足を踏み入れ生還した者は誰もいないと、専ら評判の場所だ。
 それは、【濡卑】として周囲に忌み嫌われる千秋達の間にさえ、当然の如く周知されている伝承だった。
「……大丈夫だ」
 滅多に口を開く事の無い寡黙な千秋が、その時、ポツリとそう告げた。
 本当は戦闘での疲労で困憊していたし、希望的観測なんて出来るはずも無かった。
 しかし、少しでも、自分達を保護してくれた朱雀を安心させたいという思いが募る。
「千秋の言う通りです」
 そこへ、雪道を錫杖を付きつつ進みながら、鴻巣(こうのす)昭(しよう)唯(い)が声をかけた。彼は雛原村唯一の寺の住職だ。
 有髪をしているが、別段破戒僧という訳ではない――と、本人は思っている。
 昭唯の信じる御仏は、比較的服装には自由である。
 当然差別などする教義でもない。
 その泰然自若をよしとする様は、密教に次いで、神道よりだとも言えた。
「諦めてはなりません」
 改めて強く、昭唯はそう告げる。
 実際には、濡卑である千秋を庇った事で、昭唯は、既に本山からは、破門を命じられていた。だから、正確にはもう僧侶では無い。けれど心の中で、『御仏に使える限り、自分は僧である』と、昭唯は考えている。
 昭唯は、血の滴る朱雀の体を一瞥しながら、作り笑いを頑張った。
 必死で両頬を持ち上げ、平静を装う。
 ――周囲が気を落としていては、死期が早まると思ったからだ。
 どこからどう見ても……最早、朱雀は助からない。
 それを昭唯は分かっていたし、千秋だって気がついていた。
 彼らがこの秘魅山に足を踏み入れたのは、何も追っ手から逃れるためだけでは無い。
 もし仮に――神が存在するのならば、朱雀を助けて欲しいと皆の者が思っていた。
 二人だけではない。
 彼らの後ろを歩く、多くの村人と、濡卑の一座の者が同じ気持ちだ。
「無理すんなよ、三春」
 千秋達の後ろで、寺の見習いの少年が、隣を進む同じ年頃の友人に声をかけた。
 昭唯の弟子である、嘉唯(かい)が声をかけたのは、濡卑の神子である、三春(みはる)に対してだった。三春は、嘉唯と同じ十一歳の少年である。息切れをこらえるようにして、必死に歩いている白い着物姿の三春の肩に、嘉唯が静かに触れた。今にも倒れそうに見えたからだ。
「大丈夫」
 すると、三春が笑みを浮かべた。
 その気配に、一同は安堵した。
 ――三春だけは、狐面を後頭部に回している。
 三春は、千秋の異母弟だ。この一座の、たった一人の神子である。
 神子は、濡卑の呪いを解くべく、神々に祈りを捧げる貴重で尊い存在だ。
「子供達二人も、このように元気なのですから――先を急がなければなりません」
 昭唯がそう言って笑った時、不意に先頭を歩いていた千秋が足を止めた。
「……」
「どうかしたのですか?」
「……社がある」
 千秋のその言葉に、昭唯が前方へと視線を向けた。そして、息を飲んだ。
「――秘魅山の姫社でしょうか?」
 それには答えず、千秋は、朱雀を背負ったままで走った。
 ざくざくと膝まで、雪に襲われるが気にもとめない。
 早く安全な場所で、『手当』をしなければ――それだけが千秋の頭を占めていた。
 それは無論、朱雀のことでもあったし、他にも、後ろを歩いてくる多くの負傷した雛原村の人々、そして濡卑の面々に対しても抱いていた思いだ。
 このように、村人――一般の民と濡卑の人々が混合して歩くことの方が、本来は珍しい。
 それがこの世界だった。
 それだけ濡卑は、差別されている。
 なのに、雛原村の人々は、分け隔て無く接した。
 ――その恩義にも、何とかして報いたかった。
 社の前に立ち、千秋は足を止めた。入り口は固く閉ざされている。
「どうしましょうか?」
 追いかけてきた昭唯が、首を傾げた。彼もまた走ってきたため、息が上がっている。
 それを一瞥してから、千秋が告げた。
「蹴破ろう」
「――……姫神は祟ると言いますよ」
 昭唯のその声に、面の奥で薄く千秋は笑った。
 あるいはそれは、自嘲的な笑みだったのかもしれない。
「昭唯は手を出すな。俺は呪われる事に、慣れている」
 濡卑は、呪われし業病を患う一族だ。
 つまり、疾うに祟りは受けている。そう、千秋は考えていた。
 それは――千秋のみの理解ではなく、濡卑に生まれた者ならば、誰もが持つ共通認識であるとさえ言える。この世界においては、紛れもなく、それが『真実』だった。当の濡卑も周囲の民衆も、多くがそう信じきっていた。
「――私は呪いなど信じません。それはただの病です。付き合いましょう」
 その時昭唯が、錫杖を近場の雪に突き立てながら、そう告げた。
「っ」
 その言動に驚いて千秋が顔を向ける。
「さぁ、早く――それに御仏に誓って、私は友を一人だけで、呪わせたりはしないのです」
 ――嗚呼。
 千秋は、涙腺が緩みそうになった。
 ――どうしてこんなにも俺は、恵まれているのだろう。
 それからすぐに、二人は揃って、社の扉を蹴り破ったのだった。
 中には腐葉土色の床が見えた。
 ごくありきたりな、木造の社だった。

 ◆◇◆

「ん」
 ソファに寝ころび、いつの間にか御鶴は、眠っていた。
 ピーピーピーと煩い電子音で我に帰る。
 この世界を基準にしたら古典過ぎるであろう、嘗ての――『現代』の雑誌を読んでいる内に眠ってしまった彼は、顔にそれが乗っているのを自覚して、片手で取り払った。
 御鶴に与えられた住処は、一個の山である。
 始めの頃は、【姫御山】と呼ばれていたようだったが、現在では【秘魅山】と呼ばれている――らしい。
 ≪日本人救済プログラム≫によって、不老不死と表現して差し支えが無いだろう状態になった御鶴は、瞬きをする間に変わっていく、この国のこの地方の世情や時流には、もうついて行く事が出来ないでいた。
 時折、人が迷い込んでくる事もある。
 だが御鶴は、そう言う時は、大抵の場合、恐ろしい記憶を植え付けて追い払っている。
 ――だからなのか、年々、迷い込む人間は減っていった。
 そう言う状況であったから、これ程あからさまに『警告音(アラート)』が鳴るのは珍しい。これは、侵入者の存在を告げ、警戒を促す為の音であると、御鶴は既に記憶していた。雑誌をソファの上に投げるように置き、彼は立ち上がる。
 ――壁際には、この界隈を映し出す、いくつものモニターがある。
 御鶴の仕事、生き残った日本人の責務、それは『監視』だった。
 他の地方も、それぞれ割り当てられた日本人が監視しているのだという。
 言ったのは、政所だ。
 上部の警告灯が、赤く点滅しているモニターに触れる。
 するとそれが、全画面表示になった。
 見れば、黒装束に狐面をつけた集団――腕から先と、膝から下は包帯が巻いてある人々と、負傷し血塗れになった民衆が、一群となって山の入り口にある社に、続々と足を運んでいた。
 ――どうやら、怪我人らしい。
 なにか梺であったのだろうかと考えながら、御鶴は久方ぶりに家から出ることにした。
 怪我人は、放っておけないと、善良な意識が訴える。
 あるいはそれは、嘗て目の前で……実に呆気なく親友が息絶えた姿を見てしまったからなのかもしれない。
 ――御鶴の幸せが俺の幸せだから。
 そんな事を口にしていた親友について、御鶴は今尚思い出す。
 ――だったら、その理屈なら、晴臣が死んでしまったら、僕は幸せじゃなくなるんだから、どうしろっていうつもりなのか。
 そのように考えて、苦笑しようとして、いつも失敗して御鶴は泣く。
 もう御鶴は、そういった事象――喪失には、堪えられないような気がしていた。
 永久の時を生きる事になったと聞いても、その思いは変わらない。
「僕はもう何にも、目の前で失いたくないんだ」
 外に出ながらポツリ、そう呟いた御鶴の声は、綿雪に飲み込まれて消えていった。