【3】姫神





 ――皆で社の中に入り、扉を閉めて、寒さを凌いでいる。
 目に付いた藁の敷物の上に、朱雀の体を千秋はまず最初に横たえた。
 もう半時は前の事だ。
 その後は、昭唯と二人で覗き込んでいる。
 何が出来るわけでも無かったが、指示を出さずとも、他の人々は各自動いていたし、この時、千秋は朱雀のそばについていたいと考えていた。
「……此処は?」
 意識が朦朧としている様子の朱雀が、掠れた声で問う。
「秘魅山の社だ」
 簡潔に千秋が答えると、隣で昭唯が微笑した。
 よく見れば非常に固い作り笑いではあったが、昭唯なりに元気付けようとしているのだと、千秋は理解していたから、何も言わない。
「今際の際には、相応しい――神々しい場所ですよ」
 しかし続いた昭唯の声は、洒落にならない部類の冗談だった。
「……ハハ、そうか」
 しかし朱雀が咎める事は無い。
 彼は、包帯がずれ落ちてきて隠れた目元を、柔和に細めているだけだ。
 常日頃と変化の無い、穏やかな笑顔である。
「――なぁ、千秋」
「……なんだ?」
「お前は、呪われて何かいねぇよ。俺が保証する。呪われているとすれば、呪った神様の方がおかしいんだ」
「……」
 朱雀の言葉に、千秋は唇を噛んだ。
 己があの村に、一座の皆を引き連れていかなければ――……そして規定日数よりも多く滞在などしなければ、朱雀がこのような致命傷を負う事は無かった。それは明確な現実だ。
 悔やんでも悔やみきれない。
 ……なのに。
 これほどにまで優しい言葉をかけてくれる朱雀の事を、その彼の体が冷たくなり始めていくのを、何も出来ずにただ見ていることしかできない。
 それが、千秋にとっては、どうしようもなく辛かった。

 ――その時の事である。
 ガラガラと音がして、戸口が開いた。
 一同の視線が、揃って社の扉へと注がれる。
 そこに立っていたのは、長めの前髪をしている一人の青年だった。
 柔和な顔立ちをしていて――非常に中性的だと、見る者に感じさせる外見だ。
 ……仮に現代日本で見るならば、ごく平均的だったのかも知れないが、今のこの世界における価値観の中では、そこに立っていた青年は、性別を見間違うほど美しい体躯の持ち主であり、甘い顔立ちをしていた。
 背丈と骨格から、男性だと言うことは分かる。
 しかし、中性的な少年がそのまま大人になったかのような、不思議な空気を彼は発していた。纏っているのは、見慣れぬ青い衣服だった。
 ――秘魅山の姫神は、青い衣を身につけている。
 誰とも無く、そんな伝承を想起していた。
「あの、皆さん」
 その時青年が放った声で、惚けていた全員が我に返った。
「ちょっと退いてもらえますか?」
 青年の言葉に……意を決して立ち上がり、千秋が一歩前へと出る。
「――怪我人がいる」
 千秋は、覚悟していた。『出て行け』と告げられる事を。
 だから先に、そう口にした。真っ直ぐに相手を見る。とはいえ、仮面越しの事だ。
「俺達――濡卑の者は、すぐにでも出て行く、しかし他の彼らの事は――」
「出て行く必要などありません、千秋。何を言っているのですか、今更」
 しかし、千秋の言葉を、昭唯が制した。
「勝手に入った非礼は詫びます。しかしながら、此処にいると言うことは、貴方は姫神の縁者あるいは、仕える者でしょう? 怪我人をこの雪の中に追い出すような非道を、果たして八百万の神々が見過ごすでしょうか? そんな事はあり得ないと、御仏に仕える身である私にすら分かります」
 よく通る強い声で、昭唯が続けた。千秋は思わず視線を向ける。
 その時、二人の正面で、麗しい青年が困惑するように吐息した。
「え、あの――」
 そして彼は何かを言いかけたのだが、そこに被せるように昭唯が再び口を開く。
「兎に角、追い出さないで下さい。その要求は飲めません、私達は、此処から離れるつもりは、一切ありませんので」
「いえ、あの――」
「退かないと言ったら、退きません」
 きっぱりとそう言った昭唯の顔を、青年が困ったように暫し見ていた。
「……その、別に中にいて頂いても良いんですが、皆さんの足下の板を外さないと、囲炉裏に火が入れられないので、奥の座敷に移動して頂けませんか?」
 すると――青年が、窺うようにそう口にした。
 その言葉を理解し、昭唯と千秋が、思わず顔を見合わせる。
 昭唯もまた、彼は彼なりに、意を決して発言していたのである。内心では、己の意見が身勝手なものだと理解してもいた。だから、あまりにもすんなりと要求が通った事に驚かずにはいられなかったのである。
 そんな二人には構わず、中へと入ってきた青年は、それまで壁にしか見えなかった右手の木の板を、左右に動かした。すると奥に、座敷が現れた。一段高い場所にある、畳が敷かれた部屋である。
「こちらに」
 青年がそう言った時、今度は二人も――そして見守っていた皆も従った。
 怪我をしている者には手を貸し、皆が畳の上へと向かった後、今度は床の木の板を青年が外していく。すぐにそこには、巨大な囲炉裏が現れた。
「後は、少し人手を貸して頂きたいんですが」
「人手?」
 昭唯が問うと、少し怯えるような眼差しで、青年がコクコクと何度も頷いた。
「雪でこの位置からは見えないですが……社の石段を一番下まで降りた所に、荷車を置いてきたんです。布団や衣服、食料を積んであるんですが、一人でこの場所まで持ってくるには骨が折れて……」
 その言葉に、濡卑の一座の面々が、首領である千秋を見た。
 千秋が頷いて返すと、二十人前後居る濡卑の人々が立ち上がった。
「運んでくれば良いんですか?」
「はい」
 立ち上がった一人の声に、青年が頷いた。
 それを確認すると、彼らは雪の中――社から外へと出て行った。
 見送るように暫くそちらを見ていた青年は、その後、囲炉裏に火を入れた。
「ええと……貴方は?」
 その時、我に返った昭唯が尋ねた。仏門を象徴する紺色の着物が、静かに揺れている。金色の袈裟が囲炉裏の火で少しだけ煌めいて見える。
「僕は、藤堂御鶴と言います」
「御鶴殿ですか」
 人好きのする笑みを取り繕って昭唯が頷いた時、外に向かった第一陣が帰ってきた。
 ――彼らが手にしていたのは、切ってある茸や野菜、肉類だった。
 それを一瞥しながら、御鶴が鉄の鍋を囲炉裏の上に吊るす。
 そして御鶴は、持参していた鞄から、ミネラルウォーターのペットボトルを取りだした。水が、鍋を満たしていく。
 ――勿論、そうした横賭け鞄やペットボトルなど、昭唯や千秋は初めて見た。
 二人は、興味深そうにそれらの品を見ている。
 出汁のパックだってそうだった。
 だが御鶴は気にするでもなく、野菜盛り沢山の、うどんのつゆを作り始める。
「私は鴻巣昭唯と言います。御仏に使える者です」
「鴻巣……?」
 御鶴が手を止めたのは、昭唯がそう名乗った時の事である。
 彼は、顔を上げて、まじまじと昭唯を見た。
 ――嘗ての親友と同じ名字だったからだ。
 見ればそこには、面影があった。
 茶色い瞳に、色素の薄い髪……非常に、彼は、御鶴の親友によく似ていた。
 果たして偶然だろうかと、そう考えてから、御鶴は小さく首を振った。
 自分の目の前で、親友の頭部は、胴から離れたのである。生きているわけが無いのだ。
「昭唯とお呼び下さい」
「分かりました」
「砕けた話し方で構いませんよ」
「うん……分かった」
「こちらは、千秋と言います」
 そう告げて、昭唯が千秋へと視線を向けた。
 ごく自然な流れで紹介されたものの、見守っていた千秋は体が強ばった気がした。
 御鶴はといえば、促されるがままに千秋へと視線を向けている。
「――その格好は、ええと流行かなにか?」
 この場にいる約半数が同じ装束を纏っていたため、御鶴は疑問に思って首を傾げる。
 しかし、昭唯と千秋は、凍りつきそうになった。
「……」
「……」
 これは、濡卑の基本装束である。
 どの地方においても、すぐに判別が付くようにと、規定されている装束なのだ。
 勿論流行など無い。
「これは――」
 その事実を千秋が伝えようとした時、錫杖で昭唯がそれを制した。
「彼らは芸能を保存している方々なのです」
「へぇ」
 訝る様子も無く、興味もまた無い様子で、御鶴が頷く。
 ――まさか、濡卑を知らない?
 自身が導出した驚愕的な結果に、千秋は息を飲んだ。
 あり得ない。まず最初に、そう思った。
 しかし……ずっと山で暮らしてきたのならば、あり得ない話ではないのかもしれない。実際目の前で鍋を見ている御鶴の瞳には、多くの人々が濡卑に向ける、忌むような色が無い。
 知らないから……だから慈悲深く、自分達を留め置いてくれているのだろうか?
 千秋は、必死に頭を回転させた。
 だがそれは――露見すれば追い出されるという危機を孕んでいる。
 この装束を知らないのだとしても、濡卑という存在まで全く耳にした事が無いとは考え難い。千秋の背に、冷や汗が浮かんできた。
「うどん、食べられますか?」
 濡卑の人々が運んできた食材を探りながら、御鶴が言った。
 千秋達の動揺に気づいた素振りは、一切ない。
「ええ」
 ここのところ満足に食事をしていなかった昭唯が、笑顔のまま頷いた。
 勿論――警戒心を隠すための作り笑いだ。
 この時の御鶴はといえば、彼らは空腹かも知れないから、胃が驚かない料理を作ろうと思っていただけであるのだが、それが千秋や昭唯に分かるはずもない。
「――ご馳走して頂けるのですか?」
 昭唯の言葉に、静かに御鶴が頷いた。
「うっ」
 その時、奥の一角から呻き声が響いてきた。
「朱雀……!」
 我に返って、昭唯が駆け寄る。位置が床板よりも奥だったからなのか、最初に運んだ位置に、朱雀は横たわったままだった。重症過ぎて、動かすのが危険だったというのもある。
 昭唯よりも一歩早く、朱雀の側に、千秋が膝を突いた。
 何事だろうかと、御鶴もまた視線を向ける。だが、御鶴の位置からでは確認できなかった為、彼は立ち上がって、奥へと一歩進んだ。
「っ」
 そして横たわる人物の傷を見て、息を飲んだ。
「――これは、縫って輸血をしないと命に関わる」
 淡々と呟いた御鶴の言葉の意味を、千秋と昭唯は、二人とも理解が出来ない。
「誰か、火を見ていてくれませんか?」
 焦るように御鶴が声をかけると、すぐそばから、嗄れた声が上がった。
「火の番は得意じゃ」
 黒装束の頭部の布を首まで下ろし――包帯でグルグル巻きにした顔に、御崎狐の面をつけている老人がそう返した。
「長……」
 その姿に、千秋が息を飲む。その老人は、千秋の前の、一座の長だった。
 しかし呪いが進行し、体の腐敗が進んだため、今は一線を退いている。
 それでも千秋にとっては、貴重な相談役である。
「何、気にすることはない、姫神様のたっての願いなんじゃからな」
「……よろしくお願いします」
 それを聞いた御鶴は、『僕は姫神なんかじゃない』と言おうとして、止めた。
 ――そもそもこの山には、姫神など存在しない。
 最初から今まで、ずっとこの山には、御鶴一人しかいなかったのだから。
 それから御鶴は、持参した鞄から、万が一に備えて持ってきた治療用の医療キッドを取り出した。その内部を漁り、輸血パックを取り出す。これは御鶴が生きていた時代には存在しなかった品で、血液型等が不一致であっても、問題なく使用が可能だ。
 御鶴は、静かに怪我人の手を持ち上げる。意識がない様子の青年――朱雀の顔色は、非常に悪い。彼の手に、点滴針をまずは刺した。その後、切り裂かれている腹部を、丁重に縫っていく。
 ――長生きしているおかげで、こういう知識が身について良かった。
 そんな事を御鶴が考えていると、昭唯が腕を組んだ。
「蘭学ですか?」
「まぁ」
 遥に文明が進んでいた過去の技法だとは、御鶴は告げなかった。
 それを文献から学び、目覚めた時に傍にあったアイテムで練習したとも、言えなかった。
 言っても信じてもらえないだろう。そう考えていたのである。
「お頭、着物が沢山ありました!」
 そこへ、濡卑の一人が声をかけた。
「……そうか」
 淡々と千秋が頷く。
「ああ、良かったら着替えて下さい」
 それを聞いていた御鶴が、振り返りながら声をかけた。
 その言葉に千秋は驚いた。
 ――このように、普通の人として、普通の遭難者として扱われたことが、これまでには一度しかなかったからだ。そのたった一度は……今、死にかけている朱雀の手による施しだった。
「それと奥に温泉があるので、皆さん宜しければ。一人で入りたい時は、隣にもう一つ浴槽があるのでそちらに」
 御鶴が続けたそんな言葉に、いよいよ千秋は困惑した。
 ――濡卑の入った風呂には、雛原村の人間ですら入らない。
 膿やふやけた皮膚が、湯を汚すからだ。
「じゃあ俺から先に入る!」
 すると、昭唯の弟子である嘉唯が、先に声を上げた。
 それを聞いてすぐに、多くの村人達が立ち上がる。
 嘉唯の意図を察するように、次々と、濡卑の事には触れないままで、村人達が湯に入ると声を上げたのだ。後で入る分には、腐肉は問題にならないという意味だ。
 そんな気遣いが、千秋にとっては優しくも辛いものだった。
 濡卑の人々は、まだ荷運びをしながら、村人達が温泉へ向かうのを見送っている。
「あがったら、二階の押し入れに布団が入っているから、出して適当に休んで下さい。後は、薬缶には麦茶を作っておきます」
 朱雀の処置を終えた御鶴が、静かにそう告げる。
 千秋は罪悪感に似た何かを胸の内に覚えながらも、何も言わないままでいた。

 ――皆が二階か、温泉に出かけた時。
 三春はただ一人、個人用の浴室にいた。
 本来神子となるものは――濡卑の中でも『障(さわ)り』が軽い者だ。
 基本的には、濡卑の一座に生まれた中で、呪われていない者が神子となる。
 だが――少年の脇腹や、腕の関節部分には、はっきりと兆しがあった。
 ――決してそれは、見られてはいけない。例え、濡卑の人間にであっても。
 神子は呪いから逃れられるという伝承があるからだった。
 幼き日より、神子として、そう言い聞かされて育った三春は、これまでの間、満足に風呂を楽しんだ事が一度も無かった。
 初めてゆっくりと入るお湯は、何よりも気持ちが良い。
 ――涙が出そうになる。しかしそれは、悲しいからではない。
 幸せな気分だった。
 親しい嘉唯にすら言えない自身の体の事を、いつも三春は嘆いていた。
 長々と湯につかり、外へと出る。
 すると――正面に、御鶴がいた。
「ああ、あがった? 着替えの着物を持っていかなかったみたいだったから、持ってきたんだけど」
 その姿に慌てて三春が体を隠した。
 ――見られた?
 そんな内心の動揺と恐怖から、声を失う。
「ごめん、変な意味は本当にないから。別に僕は、少年趣味とかじゃないし」
 そう告げて、御鶴は歩み寄る。
 硬直している少年を何度か見て、そして近距離まで近づき――御鶴は目を瞠った。
 ――ハンセン病だ。
 それは黒装束の人々を見た当初から、御鶴が思っていた事ではあった。
 しかし明確に患部を見たのは、これが初めてだ。
「それ、さ」
「……」
「これを塗ってみなよ」
 御鶴はそう言うとステロイドを鞄から取り出して、静かに手渡した。
「それから、服を着て上にいきな。嘉唯君が待ってたよ」
 たったそれだけを言い――何でもないように御鶴は笑った。
 何度か瞬きをした後、三春はそれに従ったのだった。
 その瞬間も別室では……もしも自分達の事が露見したら、追い出されるのではないのかと、ただただ千秋は思案していたのだった。