【4】思わぬ再会
それから、数日が経過した。
御鶴には、千秋達に『出て行け』と言う気配が無い。
日に一度やってきて、料理を作り、風呂のお湯を変えていくだけだ。
朝夕は、自炊を許されている――それだけでも、人として扱ってもらえる事だけでも、濡卑の者達は嬉しかった。
秘魅山にいる以上追っ手の心配もない。
結果として、皆が安堵して、心を休めてくれているのが分かる。
御鶴が手当をしてくれたおかげなのか、朱雀も次第に起き上がれるようになり、お粥などを食べられるようになった。
それを見守っていた昭唯に、千秋が声をかけたのは、四日目の事だった。
「……やっぱり、俺達は出て行こうかと思うんだ」
基本的に、濡卑の滞在期間は、三日間だ。既に一日、過ぎている。
「不要です」
きっぱりと昭唯が言った。相談があると呼び止められた時から、この件では無いかと、彼は考えていた。
「大体御鶴殿には、それを促す気配は皆無です」
「……だけどな、俺達がいたせいで、雛原村は……もしも俺達が――」
「済んだ話は止めましょう。もしも、は、無いのです」
二人がそんなやり取りをしていた時、不意に三春がやってきた。
「千秋、ちょっと良い?」
「――ああ」
昭唯に頭を下げてから、千秋は三春に振り返った。昭唯も頷いている。
神子からの話は、絶対に聞かなければならないという規則があった。
三春について歩き、千秋はその後――一人用の浴室へと向かった。
すると、三春が、服を脱いだ。
「これを見て」
「!」
それを見て、千秋は目を見開いた。
そこには、確かに『障り』あったはずなのだが――綺麗に『呪い』が、消えていた。
「どうして……」
「御鶴様から貰った薬を……飲んだり、塗ったりしたんだ」
「薬? 神子や幼い者は、それで治るのか?」
「分からないけど、聞いてみた方が良い」
そんなやりとりをしていると、社の扉が開く音がその場にまで響いてきた。
今日も今日とて食材を持って、御鶴がやってきたのが分かる。
風呂場から出て、千秋はその様子を窺った。
いつもと同じように、御鶴は、まな板の上で包丁を振るっている。
その後――御鶴の作業が一段落したのを見計らい、千秋は声をかけようとした。
しかし、逡巡して、動きを止める。
思えば――自分から声をかけるなど初めてのことだ。
無論、三春の言葉の通り、この件について、御鶴に相談しないわけにはいかない。
だが迂闊に相談すれば、自分達――濡卑が、呪いを受けていると露見してしまう。
だから必死に言葉を探してから、意を決して千秋は改めて声をかける事にした。
「御鶴様」
「はい?」
すると、振り返り御鶴が首を傾げた。いつもと何も変わらない。
「この前――御鶴様から頂いた薬で、その、三春が楽になったと」
「ああ。あれなら、まだ在庫があるので、皆さんも使って下さい。急ぐなら、すぐに取りに戻りますけど」
「――お前は、昭唯と一緒で、これは呪いじゃないと思っているのか?」
「はい? ええ。急にどうなさったんですか? 呪い?」
「それは……姫神のご加護か?」
千秋がそう言った時――御鶴が小さく吹き出した。
「元々この山には、僕しかいないんです。だから姫神なんて……女の人はいません。がっかりさせちゃいましたか?」
「いや」
「良かった」
「それよりも、本当に治る薬があるのか?」
「程度にも寄りますけど、皮膚は大体」
その声を聞いて千秋は、久方ぶりに狐面を外した。口元までを覆っていた包帯を解いていく。そして、肩口まで『呪い』に侵食されている皮膚を、千秋は見せた。
「っ」
すると御鶴が息を飲んだ。
――やはり治らない、か。
――もしくは『呪い』だと、そう考えられたのだろう。
御鶴の反応を見てから、千秋は俯いた。
僅かに抱いていた期待が打ち砕かれた気分だった。
しかし、御鶴に罪があるわけではない――そう、千秋が考えた時だった。
「義秋先輩……」
御鶴から、呟くような声が漏れた。
首を傾げながら、千秋は顔を上げる。
そんな千秋を、驚愕したような眼差しで、御鶴がまじまじと見ている。
当然だったのかもしれない。
――嘗て、そう、もう忘れ去ってしまうほどの、過去に、御鶴が恋をした相手。
千秋は、その人物に瓜二つだったのだから。
「すぐに薬を取りに行ってきます」
御鶴はそう口走ると、走り出そうとした。
そしてハッとしたように動きを止め、まな板の上の野菜を一瞥した。
「あ、どうしよう、これ」
「……俺で良ければ、作っておく」
濡卑が作った食べ物など、雛原村の人間以外が口にしている姿など見たことがない。
千秋はそう思ったが、反射的にそう口にしていた。
「本当ですか? じゃあ、よろしくお願いします」
あっさりと千秋の声に頷くと、御鶴が勢いよく扉を開けて、外へと出て行った。
残された千秋は、それを見送りながら、漠然と考える。
――このまま、御鶴様が戻っててこなかったとしても、だ。
こんな風にみんなを助けてくれて……これまで助けてくれた事だけで十分だ。
千秋はそう、心から思っていた。
雪の中、外へと出て行った御鶴の姿が遠ざかるのを、千秋は暫しの間見送っていた。
――千秋の空想に反して、御鶴はすぐに戻ってきた。
「っ、お待たせしました」
肩で息をしている御鶴を見れば、走ってきたのがひと目で分かる。
白い頬が上気していて、髪がこめかみにはり付いていた。
「これを塗って下さい。それと、これを飲んで。そうすれば、子供以外は――子供であっても、大人であっても、相当弱っていなければ、他の人々に感染する事もありません。子供はちょっと気をつけた方が良いですけどね」
そう口にして笑った御鶴を見て、既に装束を整え直し、狐面を身に着けようとしていた千秋は息を飲んだ。慌てて頭部にそれを回して、手を伸ばす。
そして受け取った薬を、まじまじと見た。
三春に聞いた時は、良くある薬師がすり下ろした塗り薬だと思っていたのだが、手渡された品は、千秋がこれまでには見た事の無い容器に入っていた。蓋を開けてみれば、塗り薬には違いなさそうだったが、千秋の知識にはクリームという概念は無い。飲み薬に至っては、粉ではなく丸い錠剤だった。丸薬という概念だけは、耳にした事があったが、それがこの品なのか、千秋には分からない。
――確かに、朱雀の手当をしてくれた時も、見慣れぬ薬を使用してはいた。
結果としてその朱雀は既に、起き上がれるほどに回復している。
更にこの相談の契機でもあるが、三春の手当もしてくれた。
だが――それは、三春の障りが軽かったからなのかもしれない。
差別され、後ろ指を指される事には、千秋は慣れきっていた。
だが、無償で自分達を助けてくれた存在など、本当に雛原村の人々だけだったのだ。
あの村の人々は、誰一人不満を言わなかった。
――けれど本当は思うところがあったのかもしれない。
雛原村の人々に対してさえ、千秋はそう勘ぐる時がある。単に村長と寺の住職という強い権力を持つ二人に、意見出来る者が出来なかっただけなのではないかと。
それでも、それでもだ。
それで良かった。
何か理由があったとしても、雛原村の人々は、温かく自分達に接してくれたのだから。
――けれど、御鶴様は別だ。
先ほど己の障り、右胸の下から首筋までを覆う障りを見せたのだ。寧ろあれは、呪われていると言うことを、自分から露見させてしまったとも言える。
「どうぞ、皆様の分もこちらにあるので。治療をするのは、早ければ早いほど良いです」
そう言って、御鶴が篭を差し出した。
――これが皆を死に至らしめる薬でないと、言えるのだろうか。
濡卑の首領として、千秋は思案した。
「有難う」
それでも、ここまで良くしてくれた御鶴を疑う事が、千秋は嫌だった。
だから、一人静に頭を振る。礼を告げて、篭を受け取った。
そして――その場で薬の飲み方と、塗り薬の塗り方を教わった。
全てを頭に入れてから、まず千秋は、自分が飲んでみる事に決める。
塗り薬も、同時に試す事にした。
千秋が薬を用いるのを、静かに御鶴は見守っていた。
特に指示もなく、薬を使い終えた時、千秋が顔を上げると、どこか遠くを見るような眼差しをしていた御鶴が、我に帰ったように息を飲んだ。
「料理の途中でした……」
千秋が曖昧に頷くと、御鶴が踵を返して逃げるように調理場の方へと向かっていった。
――やはり、毒なのだろうか?
一瞬浮かんできたそんな思考を振り払おうと努力する。
それから千秋は、昭唯の所へと向かう事に決めた。
昭唯は訪れた千秋を見て、先程の話の続きだろうかと、すぐに顔を上げた。
「少し話があるんだ。できれば、長と――濡卑の皆も含めて」
それからすぐに、濡卑の面々は長と千秋を囲むように集まった。
千秋の隣には、昭唯が座っている。彼一人だけが、袈裟を着けた僧侶服で、他は皆、御崎狐の面を着けたままだ。三春は、千秋とは逆側の長の隣に座っている。
「――御鶴様から、この業病を治すという薬を頂いた」
簡潔に切り出した千秋の言葉に、皆が息を呑んだ。
「治るのか?」
「本当に?」
「まさか」
「呪いじゃないのか?」
「俺達が濡卑だと露見したから、毒薬を渡されたんじゃ――」
その場にざわめきが広がっていく。
皆の意見に耳を傾けてから、千秋は静かに一度吐息した。
――そして努めて冷静な声を出す。
「俺はさっき飲んだ。塗りもした。もし俺が治ったら、皆も飲む、治らず死んだら、誰も飲まない――どうだ?」
「首領……」
すると濡卑の面々が、顔を面越しに見合わせて、互いに頷いていた。
「わしも飲もう。若人よりも死にゆく爺には丁度良い」
「いや、俺達も飲みます」
「俺も飲む」
「治療――本当に呪いじゃなくて、病気なら、俺は治りたい」
「どちらにしろ、長も首領もいなくなったら、どうしようもない」
そんな声を聞きながら、狐面の奥で、千秋は苦笑した。
彼らの反応が、心地良かった。
己が慕われているように感じた事がまずは一つだ。
同時に、自分同様、御鶴を彼らが信じていると分かった事が、何故なのか嬉しい。
「――昭唯はどう思う?」
千秋はそれから、その場を見守っていた昭唯を見た。
すると昭唯は、大きく一度頷いた。
「御鶴殿は、恐らく最初から、千秋達が病の罹患者だとご存じで、その上で留め置いてくれたのではないでしょうか? ――感染しないと分かっていたから、あるいは、感染しても治る薬があると知っていたから」
その言葉に頷きながら、改めて千秋は一同を見渡した。
「俺は、仮に知らなかったのだとしても、そして昭唯が言うように知っていたのだとしてもだ。雛原村の皆が良くしてくれたように、俺達に良くしてくれた御鶴様の手にかかるのであれば、良いと思ってる」
すると皆が頷いた。
彼らもまた、呪いが移ると忌み嫌われてきた過去から、慎重になってはいた。
――しかし、これまで良くしてくれたのだ。それだけでも、十分すぎるほどの幸福だ。自分達にはすぎた幸福だ。一時でも、それを与えてもらったのだ。
皆、内心は、千秋と同じようなものだった。
このようにして、皆が、薬を飲む事に、塗る事に同意した。
昭唯は、それを聞いてから、席を外した。
――これが本当に、ただの病気なのだとしたら。
――前世に於ける呪いでも何でもないのだとしたら。
――それは、どんなに幸せな事なのだろう?
仮にそれは、ただの甘い戯言で、御鶴の口からの出任せで、毒薬なのだとしても……僅かの間だけで良いから夢を見て、そして、良くしてくれた人の手で逝くなら満足だと、皆は思っていたのである。