【5】ノブレス・オブリージュ
御鶴は、何でもない顔をするのが――久しぶりすぎて苦しくなった。
帰宅するなり床に座り込み、息苦しくなって、何度も何度も吐息する。
――千秋は、恋焦がれた義秋先輩にそっくりだった。
長い生を歩んできても、御鶴が決して決して忘れられない顔だった。
義秋の優しい顔がそこにはあったのだ。未だに早鐘を打つ鼓動が静まらない。
そもそも、そもそもだ。
昭唯だって――鴻巣なんて、決してありふれた名字ではない。
その上彼にだって、友人の面影があったのだ、確かに。
――こんな偶然はあるのか?
あり得ないと思って瞬きをすれば、先輩の顔や、飛び散ってきた血液、晴臣の顔、それらが、御鶴の脳裏を過ぎっていく。
それから這うようにして御鶴は、【政所】の前まで向かった。
全身が熱いのに、寒気がしていた。
『起動しました――政所です』
「聞きたいことがあるんだけど」
『音声認証完了、網膜認証完了――御鶴様、何なりとご質問下さい』
「僕が生きていた当時の人々の血縁者が残っている可能性はある?」
『現在検索中です、少々お待ち下さい』
【政所】の機械音声を聞きながら、僕は側の冷蔵庫からスポーツ飲料を取り出して、一気に飲み干した。
『結果――関連情報三百二十一件。最も最適な情報を提示します』
そう言うと、”政所”は、ホログラムを映し出しながら答えてくれた。
『≪日本人救済プログラム≫は、当時生存していた無傷で無病の者を対象に行われました。同時に、死亡した日本人の遺伝子は、復活後の日本で再生出来るように保存されていました。御鶴様がいらした界隈には、その界隈で亡くなった人間の遺伝子を元に生み出された人々が多くいます。また、同様に、戦争後に生き残った上、≪日本人救済プログラム≫にも抜擢されなかった人々の子孫もいます』
淡々と事実を【政所】は告げていく。
気づくと御鶴は、爪が食い込むほど強く両手を握っていた。
――再生された者、あるいは子孫。
親友の死この目で確かに見たのだから、再生されたのか、もしくは子孫なのだろうと御鶴は判断した。
――では、先輩は?
――義秋先輩はどうなったんだろう?
「現在生きている人間と、保存後再生された人間の、遺伝子を比較することは出来る?」
『可能です』
「何が必要?」
『この地は御鶴様の土地ですので、その内部にいる人間であれば、こちらで遺伝子情報の採取が可能です。名前以外は何も不要です。この山以外の者でしたら、この土地へと連れてきて頂く必要があります』
「千秋と鴻巣昭唯。千秋の方は、名字が分からないんだけど」
『構いません。照合には数日かかりますが、宜しいでしょうか?』
「うん、お願い。後、【薬箱】と【冷蔵庫】に食物を追加しておいて。完全に無くなった場合は、これまでに指定されてあるものを、地下の野菜や味噌や酒、漬け物や燻製を含めて、全て自動的に補充して。特に医薬品は急いで」
『承知しました』
「以上だよ」
『承りました。それでは、より良い日々をお過ごし下さい。起動を終了します。御鶴様、ノブレス・オブリージュ』
そう告げて機械音声は消えた。
――ノブレス・オブリージュ?
――位高ければ徳高きを要す?
馬鹿げていると、御鶴は思った。
何せ御鶴の内側には、現在黒と、僅かな紅しかない。
感情の黒と記憶上の血の紅だ。それらで胸が埋め尽くされている。
――Noir、黒紅黒紅。
NoirNoirNoirNoirNoirNoirNoir……∞
結果が出るのが、正直御鶴は怖い。
白い雪山でも、緑色の初夏が来ても、御鶴はいつだって己を異質だと感じている。
見に巣食うのは、常に黒色だ。全ての色を塗りつぶす黒だ。白でも緑でもない。
――その上、瞼の裏に映るのは、血の紅ばかり。混じるのは、紅だけだ。
自分に出来る事なんて、本当は何もないのだ。
無力だ――だけど。
あんな風に、恋した相手にそっくりな顔を見たら、心が光で満ち始める。
その色彩は――全ての色と調和する優しい色だ。
御鶴は片手で唇を多い、思考を巡らせる。
――思えば最初から、そう顔を見る前から、数度ほどしか話した事は無かったけれど、千秋の声音が、心地良かった。好きだった声に、よく似ていたからだ。何故今まで、気がつかなかったのだろう。
御鶴はそれでも――……『義秋先輩とは無関係である』と言う結果を望んでいた。
――だってそうじゃなきゃ。
――僕の中ではもう、大切で大切で、大切すぎる相手になってしまうから。
いくら顔が同じであっても、声が同じであっても、それだけならば、愛した相手では無い。それが分かっているからこそ、御鶴は、割り切ってしまいたいと、どこかで望んでいた。別人だと、他人だと、そう確信して距離を置きたい。
――いつかの過去においても、そうしたはずだ。
強い恋情を殺して生きるのは辛い。
どこかで線を引いて、自分を守らなければならないと、御鶴は思う。
ただ、あの頃は親友が、晴臣が側にいてくれたのだと考える。
懐かしい記憶だ。
当時の御鶴は義秋の特別な存在になりたくて、けれど決してそうはなれい事を、常に思いしらされて、生きていたのだ。
そして……今の自分は、きっとただ寂しいだけなのだ。
そう御鶴は理解していたが、義秋と千秋を重ねてしまいそうになるのが怖かった。
酷く怖かった。どうしようもなく、それが怖い。
――明日から、どんな顔をすれば良いのだろう?
「今まで通り、何とも思っていないふりだ」
そう、そうだった。
自分は、懐かしき過去の大学時代に――そうすることに慣れきっていたではないか。
何も問題なんて無い。無いはずだ。
御鶴は祈るように両手の指を組んでから、静かに瞼を伏せたのだった。