【6】今ここにある優しさ




 誰もが心配していたような毒も無く――。
 特に『障り』が軽い者から順に、濡卑の体は回復していった。
 今ならば包帯で患部を隠せば、普通に肌の露出がある着物を身に纏う事が出来るほどになった。
 当然そうでない者もいるから、配慮して千秋は黒装束のままだ。
 ただ、御崎狐の面を後頭部へと回している時間は、圧倒的に増えた。
 同じくらい――考え事をする余裕も生まれている。
 ここの所、千秋は同じ事ばかり意識していた。
 ――何故御鶴が、このように、自分達に良くしてくれるのかが、分からない。
 ――同情、なのだろうか。
 それはそれで、良かった。
 純粋に、この恩を返したいと思う。そう思わずにはいられない。
 だが自分にできることはなんだ――?
 近頃の千秋は、そんな事を考えては、何度も嘆息していた。
「また御鶴様を見ているのですか?」
 その時、隣に昭唯が立った。袈裟の上で、念珠が揺れている。
 実際その通りで、千秋は、豚汁を作っている御鶴を眺めていた。
 御鶴の外見が並々ならず綺麗なのも含めて……こんなにも自分達、濡卑に対して献身的に接しくれる御鶴はそれこそ――姫神のようだった。嫉妬深いなどという強烈な逸話を除いたら、という話だが。
「お二人も座ってください。すぐにお茶を」
 視線に気づいたようで、御鶴が顔を上げて微笑した。
 視線を交わしてから、千秋と昭唯は囲炉裏端に座る。
 すると御鶴が、お茶の用意を始めた。
 千秋が、何を言おうか逡巡している様子だったので、先に昭唯がそのお茶を受け取った。
 昭唯は、不思議な気分で、湯呑の中へと視線を下ろす。
 煎じた緑茶には見えない。
 この界隈ではあまり見られないとはいえ、そもそもこれが、緑茶だとも思えない。不思議な茶だった。入れる作法も飲み方も、薬草茶に見える。しかし飲めば美味しい緑茶の風味が広がるのだ。
 点てるお茶をなど、この界隈では大名である毛利の重鎮でもなければ飲む事も生涯ないだろう。そんなものを飲みたくもないと昭唯は思っていたが、御鶴の手で淹れてもらうお茶は、何とも心が温まる気がする。そう考えて、ひと呼吸ついてから、昭唯は御鶴を見た。
 現在は、御鶴の横――角を挟んで隣に千秋がいて、その側に昭唯が座っている。
「皆さんのお具合はどうですか?」
 己の分のお茶を手にして、御鶴が顔を上げた。
「皆、快癒に向かっています――そうでしょう? 千秋」
「ああ」
「良かったです。まだまだ在庫もありますし、薬を作る事も可能ですから」
 そう言って御鶴が柔和に微笑した。
「有難うございます。無償で提供して頂けるなんて」
 さらりと昭唯が『無償』と口にしたから、千秋は息を呑んだ。
 確かにここから金銭を要求されても困るのだ。
 無論、治ってしまえば夜逃げもできるかもしれないが、御鶴と諍いを起こしたくはない。
 だが千秋の心配に反し、御鶴には気にした素振りが無い。
「良いんです。少しでも、かな……誰かの役に立てたら良いなって思っていたから」
 ――みんなに元気でいて欲しいだなんて、そんなのは、自分のエゴだと御鶴は思っている、分かってはいた。けれど誰かの死を見たくはないという心情は消えない。
 無論そんな心は誰に伝わるわけでもない。
 さて――その時、だった。
 御鶴の表情を見ていて、決意し千秋が拳を握った。
 自分自身に気合を入れるために。
「御鶴様」
「え、あ、はい?」
 唐突に千秋から声をかけられたものだから、御鶴は湯呑みを取り落としそうになった。
 それを見て――いきなり声をかけたから、驚かせてしまったのだと判断し、慌てて千秋が御鶴を支える。
 辛うじてお茶は溢れなかった。
 だが二人は、自分とは異なる体温を感じ――ほぼ同時に体を硬直させる。
 まるで惹かれ合うかのような、心地良さだった。
「……大丈夫か?」
「は、はい」
 どちらともなく距離を取り、それから御鶴が湯呑みを置いた。
 それを見てから、千秋が続ける。本題をまだ切り出していなかったからだ。
「恩が返したい」
「え?」
「何か……俺達に出来る事は無いか?」
 実際に、同様の意見は多数上がっていた。
 だから千秋は――あくまで個人的な意見ではないと伝えた。
 だが、実の所……自分一人でも、何かお返しがしたいと千秋は感じていた。
「恩なんてそんな――」
 ――そんなものを感じてもらう必要は無い。
 それが、御鶴の偽りない本心だった。
 何せ……偽善心と下心が確かに胸の中にあるからだ。
 ただ……それを言ったら、それだけで嫌われそうで、それもまた恐ろしい。ひとつだけ明確なのは、『恩』なんて名前のもので縛り付けてしまうには値しない、身勝手な行動であるという点だ。これまでの行為は、きっと全て自己満足に過ぎない。
 そのように、御鶴は、俯きながら考えていた。
「なんでも良い。簡単な事で良い。出来る事があるなら少しでも――俺達に触られる事が嫌じゃないのなら。嫌なら嫌だと率直に言ってくれ。別のお礼の形を探す」
「嫌だなんてそんなわけがないでしょう? 第一、義秋先ぱ……」
 御鶴が何かを言いかけて、唇を噛んだ姿を千秋は見た。
 気づいた昭唯も首を傾げる。
「千秋さんにだったら、何をしてもらっても嬉しいです。嫌だなんて事はありません」
 それだけ言うと、怒っているようにも照れているようにも見える表情で、御鶴が社から出て行った。
「良かったですね、千秋」
「ああ、初めて名前でよばれた。覚えてもらえていたんだな。それに、手伝っても良いみたいだな……出来る事があればだけど」
「――何をしてもらっても嬉しいそうですよ」
「ああ」
「やはり伝承とは異なり、山の姫神は温厚なのかもしれませんね」
 静かに昭唯が微笑すると、千秋が視線を向けた。そして名を呼ぶ。
「なぁ、昭唯」
「なんです?」
 自然と訪ね返した昭唯に向かい、いつもよりも少し小さな声で千秋が言う。
「これまでの人生、俺は、いかに人に迷惑をかけないか考えて生きてきたんだ。そして今は、恩――どうしたら手伝えるか、だ。基本的に俺が手伝うというのは、人にとっては迷惑をかける事だったんだ、これまでは。でも今度は……自発的に、その手伝って……どうやったら喜んでもらえるのか、それを考える事は許されるんだろうか?」
 そんな千秋の声に、昭唯は優しい顔で笑みを濃くした。
「私は浅薄ながらも、『人を喜ばせたい』あるいは『幸せにしたい』という気持ちを認めない神仏は知りません。鬼子母神は嫉妬深いとは言いますが。しかし、珍しいですね――千秋」
 二人きりになった囲炉裏の前で、昭唯が続ける。
「雛原では、村長の朱雀と、寺の私がついていました。まぁこんな結果になってしまったのは私達の力量不足だとは思うのですが――……その時であっても、私と朱雀は、いつも一線を引かれているように感じていました。何度か朱雀と話した事があります。もっと心を開き、打ち解けて欲しいものだと」
「……」
「ただ、発端が違うとはいえ、今回は――そんな、誰よりも心を押し殺してきた貴方が、御鶴様には心を開こうとしているように見受けられます。それだけ蘭学の薬の効果が絶大だったのかもしれませんが」
 二人が話す社の外では、綿雪が降りしきっていた。御鶴の姿は、既に無い。

 ◆◇◆

 ――恩返しをしたい。
 その言葉が、御鶴の耳の奥で残響していた。
 自分には恩なんて返してもらう資格はない。何度もそう考えながら、御鶴はソファに座りながら、両手で顔を覆った。目を伏せれば、瞼の奥の暗闇に、恋焦がれた先輩や親友の笑顔が過ぎっては消えていく。
 ――分かっていた、分かっているのだ。
 ――社にいる彼らは、先輩でも親友でも無い、と。
 それでもどこかに面影を求めている。それが、御鶴は苦しかった。
 外からは風の嘶きが響いてくる。いつだって冬のこの吐息を、御鶴は一人で感じてきた。そこには多分孤独みたいな名前をした、『何か』が、常につきまとっていた。
 ――けれど今はどうだ?
 もう不要だろうに、毎日毎日会いに行ってしまう。
 そんな自分が浅ましくて嫌になる。
「僕の方こそ……そばにいさせてもらっている恩返しをしなきゃだよね」
 両手を顔から離して、コーヒーカップを手にする。
 褐色の液体に、喉を焼かれるようだった。
 ――義秋先輩はコーヒーが好きだった。
 ――晴臣はコーヒーが飲めなかった。
 今までそんな過去を意識した事は無かったのに、ざわめく胸が遠い記憶を掘り起こす。
 幸せな記憶だ……今となっては。
 何度も何度も、そう何度も、再び巡り会うことが叶うのであれば、きっと今度こそ手放したくないと思って生きてきた。それは幸福な妄想のはずだったのに。
『御鶴様。照合結果が出ました』
 その時、唐突に【政所】の声がした。
 ビクリと肩を震わせてから、御鶴は恐る恐る”政所”の前へと向かった。
「結果は?」
『【鴻巣昭唯】は、再生された鴻巣晴臣の子孫です』
「っ」
『【千秋】は、高須賀義秋本人です』
 響いてきたのは、聞きたくない言葉だった。
 ――だが、『本人』?
「本人ってどういう事?」
『彼もまた≪日本人救済プログラム≫に選ばれました。しかしながら冷凍睡眠に不適応を起こし、”現代”の記憶を失ったようです。不適応者は、私達のプログラムにより排除されます』
「だけどあの集団の中で育ったんでしょう? 弟だっているし」
『記憶の改竄が集団を対象に行われていました』
「そんな――」
『不適応者を排除するのも、御鶴様の役目です』
「排除……?」
『すぐに殺めるべきです』
 ――殺める?
 最初、御鶴は、何を告げられているのか、理解できなかった。
 理解するのを、体が本能的に拒んでいた。
「――そんな事が出来るはずがないじゃないか。だって、本物の義秋先輩なんだよ。無理だ。僕にはできっこない。殺せだって? 不可能だ。そもそも……どうして? 何のために?」
『科学文明社会の事を想起され、不要知識について広められては困るからです。新たな諍いの芽となります』
「僕だって、しっかりと覚えているし、活用しているのに」
『【支配者】は良いという規則になっています』
「……、……殺す以外の選択肢は無いの?」
『ございません』
「僕は殺さない。【政所】これは、僕からの『命令』だよ。排除しないで」
『承知しました。ですが【中央】には報告致します』
「お願いだからやめて」
『規則です。監視し秩序を保つ事もまた【私】の役目であります。規則を変更する場合は、管理者権限で再度ログインして下さい』
 御鶴は、管理者権限など持ってはいない。
 だが、生き残っている日本人を統括する【中央】に、義秋先輩――千秋の事が露見すれば……本当に殺す規則であるならば、誰かが代わりにやってくるはずだ。それは阻止しなければならない。御鶴は、瞬時にそう考えた。
「……分かった。僕がやるよ」
『承知しました』
 きっと口約束だけでも、暫くの間は時間が稼げるはずだと考えていた。
 猶予が出来る事を、御鶴は祈っていた。
 役目を放棄したと露見すれば、その場合は己が処罰を受け、あるいは死ぬ可能性もある。
 だが――千秋を殺すくらいであれば、自分が死ぬ方が良い。
 御鶴は、唇を噛みながら考えた。
 ――自分自身の存在など、誰にも記憶されなくて良い。誰一人に覚えていてもらわなくても良い。忘れられて構わないし、正確に言うならば、忘れられたままで良い。
 ただ、生きていて欲しいのだ……今度こそは。
 再び巡り会えた奇跡を、御鶴は無駄にしたくは無かった。
 この思いが永遠に叶わなくても良い。伝えられなくても問題は無い。
 ――本当に、生きていてくれただけで十分なのだ。
 そこでふと、御鶴は思い出して、何度かゆっくりと大きく瞬きをした。
「優奈さんは?」
 ふと、先輩の恋人の事を、御鶴は思い出したのである。
 義秋が生きていると言うことは、彼女も生きている可能性が高いと考えたのだ。
『この界隈に限定して検索します。フルネームを戴けますか』
「橘(たちばな)優奈(ゆうな)さん」
『結果が出ました。橘優奈様は、見つかりませんでした。再生用の遺伝子は保存されておりません』
「他の地域の事は調べられない?」
『不要だと考えられます。死亡記録が存在しています』
 返ってきた言葉に――……確かに喜んでいる自分自身を、御鶴は自覚した。
 その事実にハッとして、御鶴は息を呑む。
 胸が苦しくなった。ジクジクと痛む。
 ――人の死を僕は、喜んでいる?
 ――多分、今度こそ義秋先輩を……いや、千秋を僕は、僕だけの恋人にしたい……?
 そう気づき、御鶴は、最低最悪な己の思考回路に、吐き気を催した。
 きっとこのような事を考える己は、千秋のそばにいる資格が無い。御鶴は自嘲気味にそう考えて、視線を床へと落とした。
 ――けれど。
 ――もう今は、彼の事しか考えられない。考えられなくなってしまったのだ。
 それは。
 忘れたはずの恋心が、明確に息を吹き返した瞬間だった。