【7】夢
その日から御鶴は、眠れなくなった。
――目を伏せると、右手でナイフを持って、千秋を刺殺する夢を見るからだ。
夢の中で何度も、音を立てて落下する御崎狐の面を見た。黒い装束は、血でより濃い黒に染まっていく。その夢を見て目覚める度に、御鶴は己を責めた。
それでも千秋の顔を一目見たくて、社に通う事は止められない。
降りしきる雪の中で、御鶴は荷車を停めて、社を見上げた。その後、雪で見えなくなってしまっている石段を登っていく。
御鶴が顔を出すと、いつも千秋や昭唯は優しく出迎える。歓迎して御鶴を迎えるのだ。
――優しくされる価値なんて無いのに。
――優奈さんの死を、一瞬でも喜んでしまった僕には、そんな価値は。
「手伝う」
千秋が、包丁を持つ御鶴の隣に立った。
最近の御鶴は、千秋の声を聞くだけで、胸に何かが響いてきて、息苦しくなってしまう。
本心では、『義秋先輩』と、自分は呼びたいのかもしれない。そんな風に、御鶴は考える事がある。だが――今ここにいるのは、己の事を忘れてしまった『千秋』だ。
いつかは縁が切れ、先輩は恋人と結婚して、そうして自分の事なんて忘れるのだろうと、御鶴は過去に何度も覚悟をしていた。そのはずだ。
だが、千秋が忘れた記憶は、そう言った意味合いのものじゃない。
完全なる、一人の人間としての軌跡の忘却だ。
果たしてその状態で――同じ人間だと考える事は許されるのだろうか?
「有難う」
答えた声が僅かに震えてしまった事を、御鶴は自覚していた。
ただ御鶴は、それを、千秋に気づかれたくは無かった。理由は分からない。
包丁を持つ手もまた、震えそうになった。その時だった――「痛っ」
御鶴は、ざくりと指を切った。
そんなに深くはない――だが、傷からは、紅い血が流れていく。
「大丈夫か?」
すると焦ったように、千秋が声をかけた。
そして千秋は――御鶴の指を舌で舐めた。
「!」
驚いて御鶴が身を固くすると、ハッとしたように千秋が口を離す。
そして、顔を上げた。
「わ、悪い……気持ち悪かったよな、移るかもしれないし」
「違う、そうじゃなくて……ただ驚いて」
彼の舌の温度にびくりとしながら、慌てて御鶴は、もう一方の手で唾液と血液で濡れている指を抑えた。心臓が早鐘を打ち、胸が高鳴るのを止められない。それほどまでに優しい温度だった。千秋の体温が好きだと、御鶴は感じずにはいられなかった。
「――本当か?」
「うん。舐めて治そうとしてくれたんだよね? 有難う」
「……平気なら良かった。所で、御鶴様」
「何?」
「最近顔色が悪い。何かあったのか? それともやはり、俺達のせいか? 正直に話してくれて構わない。俺達は、濡卑だから、なにか御鶴様にとって不快な――」
「濡卑? それは何の事?」
「今になって話す事では無いのかもしれない。その……お見せしたように、爛れ腐っていく皮膚を持つ者だ。俺が着ている装束も狐面も、濡卑の品だ」
千秋が顔を背けながら、早口にそう言った。
それを見ながら、御鶴は思案する。
――ハンセン病は、やはり特異な扱いを受けているのだろうか?
【政所】の言葉を思い出す。『殺せ』――……あるいは【中央】が、緩やかな死を苦しみながら迎えるように、不適合者に対して、何らかの操作を加えたのかもしれない。
御鶴は、『病自体』と『特異な扱い』を念頭に、そう考えた。
それは、肉体的な死と社会的な死だ。
ただ、仮にそうだとしても、己には、何も出来ない。
そんな無力感を覚えながら、御鶴は言葉を探した。
「そうだったんだ。僕は気にしないけど」
「――代わりに、野菜は俺が切る」
「ごめん。お願いして良いかな」
――千秋は、優しい。
その事実が、今では御鶴に、苦しい感情を想起させる。
狐面を後頭部へと回し、包丁を代わりに持った千秋の横顔を、御鶴は伺う。
本当に、義秋先輩なのだろうか――?
何度も何度も、御鶴はそればかりを考えている。
――思いが砕けていく。
………………己が好きなのは義秋先輩だ。
…………そのはずだ。
……なのに。
同一人物とはいえ、そして根本的に優しい姿もそのままだというのに――御鶴はまだ実感できないでいた。どこかで、千秋は千秋なのだと思ってしまう。
御鶴は息苦しくなって、思わず口を手で覆った。
「御鶴様?」
「え、あ」
「本当に具合が悪そうだ。無理だけは、しないでほしい」
「平気だよ……ちょっと夢見が悪かっただけなんだ」
「それなら、少し横になった方が良い。横になるだけでも、随分違う」
「ねぇ、それなら――……」
――一緒に眠って欲しい。
そう言いかけて、御鶴は口を噤んだ。
単純に体温を感じながら睡眠をとりたかったのだが、勿論そんな事は口には出来ない。
それでも苦痛を確かに感じた胸中が、どうしようもなく騒ぎ、喚きたてる。
「それなら? 俺に出来る事なら、何でもする」
「……料理、お願いしても良いかな」
「ああ、勿論」
――こうして生きていた先輩の顔を見て声を聞けるだけで、幸せなのだ。
――僕はそれ以上を望むべきではない。
――この世界の優しさと残酷さを、僕はよく知っているのだから。
御鶴は、求めすぎてはならないのだと、心の中で自分を制した。
以来。
御鶴は、義秋先輩への……いいや、より正確に言うならば、千秋への想いを封印するべく努力した。
食物の提供は週に一度にした。その分、大量の材料を運ぶ。
千秋の顔を見ると、辛くなってしまい、自分の気持ちを告白してしまいそうになるからだ。誠に自分勝手な理由だと言う事を、御鶴は、よく理解している。
ただ、会いたいのに会いたくないという両価性に、御鶴は苛まれた。
台車を置き、社を眺めるだけで、涙がこみ上げてきそうになる日々だった。
きっとよく眠れないせいだ――そのように、御鶴は自分自身に言い聞かせている。
「御鶴様」
その時、珍しく千秋が階段を一人で降りてきたから、御鶴は硬直した。普段であれば、彼以外の人々が来る。第一御鶴は、今日はまだ、社の中へと声をかけていない。だからどうして、千秋がここへ先に現れたのかも分からない。
「最近……中に入らないな」
「寝不足なんだよ、夢見が悪くて――……ううん、何でもない。ちょっと忙しくてね。仕事が立て込んでいるんだ」
慌てて御鶴は、そう告げた。声を聞くだけでも、苦しくて辛い。
――好きすぎて辛い。
溢れる自身の好意が、想いが、心を抉る凶器と化している気がした。
「姫神としての仕事か?」
「だから僕は、姫神なんかじゃないんだよ」
「だったら……俺のせいか? いい気になって、調子にのって、そばにいたから」
「違う!」
御鶴は気づくと、強い声でそう叫んでいた。
――千秋のせいなんかじゃない。
あくまでも、御鶴の側の問題だった。
決して誰に話すことも出来ない感情。
それに己が絡め取られただけなのだと、御鶴は確信していた。
「だったら、何か出来る事をさせてくれ」
御鶴は、千秋その言葉に、何も答えられなかった。
応えられなかったのだった。
◆◇◆
「今日も御鶴様は社の中には来なかったのですね」
食料を持って戻ってきた、まだ雪に濡れている千秋を見て、昭唯が嘆息した。
その言葉に沈黙した千秋は、口元を手で覆う。
――何か悪いことをしてしまったのか、それとも自分が『濡卑である』とはっきり伝えた事で、呪いを恐れられたのか。
そう考えれば、千秋の胸が小さく痛んだ。
千秋はここの所、自分はおかしいのではないかと悩んでいる。
――御鶴様を見ていると、胸が騒ぐ。
それは焦燥感にどこか似ていたが、もっとドロドロした感情にも思えた。
「寂しいのですか?」
「……分からない。ただ、会って言葉を交わして、顔が見たいと思うんだ」
――あの笑顔を、自分だけのものにしたい。
そんな馬鹿げた事を考えてしまうのだ。
すると胸が、ズキズキと痛み出す。
「恋い焦がれているのですね」
「……恋?」
「ええ。見ていれば分かります。御鶴様だって、千秋を見る目はとても優しかったですから、素直に気持ちを伝えてはいかがですか?」
「……」
――恋を、しているのだろうか?
恋など、千秋がとうの昔に諦めた事柄の一つだ。
濡卑に心を開いてくれる相手など滅多にいなかった上、この一座には男しかいない。
女の濡卑は、皆遊芸者として三味線を持ったり舞を披露したりして、流れていく。
それでもいつか、どこかの濡卑の女と子を成すのだろうと、漠然と千秋は思っていた。
そこには愛はないかもしれないが、濡卑の世界では一般的だ。
――第一どんなに美しくても、御鶴は男である。
そもそも呪われた一族に産まれたその時から、自分には恋をする資格など無いのだと千秋は諦観していた。
だが――昭唯の言葉で、曇っていた心が晴れた気がした。
間違いなく恋をしているのだろうと、千秋は思う。
それがきっと、胸を焼く焦燥感の正体だ。
けれど、そばにいられるだけで、幸せなのだとも思う。己には過ぎた幸福だ。
落ち着こうと、千秋は努力した。
だから、外に出て空気を吸う事に決める。
屋外では、杉の木が雪化粧をしている――白銀の世界だ。
白は御鶴によく似合うと、千秋は思っている。
――御鶴は、夢見が悪かったと話していた。
実を言えばここの所、千秋もまた夢見が悪い。
直前まで不思議な衣を着て笑っていた御鶴が、火縄銃よりも威力が強いだろう――なんらかの物の爆発に巻き込まれて、砂煙の中で姿が見えなくなる光景を夢に見るのだ。
その場は見た事が無いのに既視感がある、不思議な場所で――そこが駅のホームなのだと、千秋はどこかで理解していた。フェンスという名前の網の向こうで、自分はただ一人走って、そう全力で走って、御鶴を守りたいという衝動に駆られている。だがそれは出来ない。出来なかった。御鶴は煙の中に消えてしまったからだ。
――ああ、頭痛がする。また、頭痛がする。
昔から、千秋は頻繁に頭痛に襲われる。
夢の中での自分は、御鶴への恋心を封印していて、有り体な幸せを求めていた。
指輪という銀細工を贈った相手は、御鶴では無かった。
――千秋が、御鶴の事を好きだと知っていて、『それでも良いから』と恋人になってくれた『誰か』がいた気がする。
そんな夢を、繰り返し、繰り返し見るのだ。ここ数日。
――俺は、夢の中では、御鶴のことを手放す選択をしていた。
そう千秋は、理解している。
だから……『今度』こそ、その手を離したくはないのだ。己にその価値があるのであれば、だが。
強い風が吹いていた。雪が舞い上がる。
冷たい冬の吐息は、千秋の髪を揺らしては、消えていく。
――今頃御鶴は、一体何をして過ごしているのだろうか。
気づけば、本当に浅ましい事に、己はさらなる幸せを求めているようだと、千秋は気づかされた。御鶴の顔が見たい。そばにいたい。全てを知りたい。
こんな感情は初めてだった。時折寂しそうに見える御鶴の事を――この腕で抱きしめたくなってしまうのだ。
――そんな事は、濡卑である己にはできっこないのに。
――障りが消えたとはいえ、またいつ呪われるのかも分からない。
本当に、あれが病だったという確証もまだ無い。
――御鶴ももう、自分の事を気味悪がっているのではないのか?
千秋は、そう考えずにはいられない。だから、産まれたばかりのこの小さい恋心は、決して表に出してはいけないのだと、千秋は強く思う。
「ヒ」
その時声がした。
高い声だった。
振り返るとそこには、怯えたように目を見開いている少年が一人立っていた。
「濡卑……っ」
「お前は? ここで何をしているんだ?」
「道に迷って……僕は、順威と言います。ど、どうして此処に? それにここは何処ですか?」
「秘魅山だ。俺は千秋」
千秋は少年から距離を取り、攻撃されないように身構えた。
いくら相手が少年だとはいえ、追っ手でないとは限らない。
そうでなくとも、濡卑は襲われる事が多い。
――本能的に恐怖を抱かれているかのような、そんな扱いと眼差しが常だ。
「何処から来た?」
「度会村です。山入りの儀式が済んだから、一人で隣山に入って……それで、そうしたら、そこに見た事が無い四角い建物があって、近寄ろうとしたら青い衣を纏った女の人が出てきて――……ああ、やっぱり姫神様だ。僕は呪いを受けてしまうんだ」
泣きそうな顔で、順威が声を上げた。
それを聞き、小さく千秋は首を振る。
「安心しろ。この山に姫神はいない」
「だけど僕、しっかりと見たんです」
恐らくそれは、御鶴の事であると、千秋は思った。
確かに女性と見間違うほど、繊細な美を御鶴は誇っている。同時に『見た事が無い建物』という言葉に、そこが御鶴の住処なのではないかと判断していた。御鶴の持ち物は、いつだって、千秋にとっては、この『現実』において見た事の無い品ばかりだからだ。
「……何処に、あったんだ?」
「左の丘の……あっちの森の中に、ひらけた場所があって、そこに……」
「そうか――そこの獣道を降りれば、雛原村に出る。本当に見たんなら、祟られる前に帰った方が良い」
「はい、っ、有難うございます」
それだけ言うと、逃げるように順威が走り出した。
見送りながら、千秋は腕を組む。
徐々に、御鶴が来る間隔は……長くなっている。
顔を見る事が出来無い時間には、瞼の裏にその笑顔が張り付いて離れない。
――会いたい。
――会いたかった。
――けれど濡卑である自分が、会いたいと思うだなんて、おこがましい。
濡卑は忌避される対象なのだからと、千秋は俯いた。
……ただ、住まいだけでも知りたい。
もしも知る事が叶うのであれば、荷車を運ぶ手伝いが出来る。それは恋心ゆえではなく、濡卑の首領としての判断だった。少なくとも、千秋の意識的には。
気づけば自然と、順威から聞いた丘の方へと、千秋は足を運んでいた。
雪を踏みながら、森を歩く。
一歩一歩進む度に、体が緊張する。
そして……辿り着いた場所には、確かに四角い不思議な建物があった。
その周囲にだけ、雪が積もっていなかった。代わりに長い蛇に似た青い紐のような物から、雪を溶かすように水が出ていたが、その水が凍りついている様子もない。
木々に背を預け、顔だけで、まじまじと建物を見る。
明かり採りだろう四角い穴には、何かがはまっているようだった。
透明な板に見える。
入り口には木製の扉があって、そこにも見た事が無い金色の持ち手がついていた。
――その時、中から御鶴が出てきた。
「誰? また迷子の人?」
その声に、順威が口にしていたのは、やはりこの場所だったのだと確信した。
「――お久しぶりです」
「ッ、千秋……どうして此処に……」
目を瞠った御鶴を見た瞬間、気がつくと足早に千秋は彼に歩み寄っていた。
そして――会いたかったという『感情』のせいで、己が体の統制権を失ったと分かったのは、正面から御鶴を抱きしめてしまった時の事だった。
華奢な体の温もりが、どうしようもなく大切に思えて、千秋は更に腕に力を込める。
「悪い……悪い。すまない――……ああ、もう駄目だ。悪い、ごめんな」
千秋もう気持ちを、抑えられそうにも無かった。
こんな激情に駆られた経験は、初めてだった。
――その時震えるように、御鶴が千秋の背中に腕を回した。
「ッ」
驚いて思わず息をのんだ千秋は、自分の胸に額を当てて、御鶴が泣いている事に気がついた。涙で服が少しずつ湿っていく。
「……泣くほど嫌なんだよな、悪い」
「違う、違うんだ。僕はずっと、抱きしめられる事を望んでいたから。千秋と出会う前から、ずっと昔から」
その言葉の意味が、千秋には分からなかった。
だが――少しだけ頭痛がした。自分は何か、肝心な事を忘れている気がしたのだ。
「僕も、もう駄目だよ、一人でいるなんて、これから悠久の時の中、一人でいるなんて無理だ。千秋がいなきゃ、僕は……」
まるで夢が現実になったような錯覚に、千秋は襲われた。
しかし彼は、己が今確かに目覚めている事を理解していたし――同時に、離してはならないのだと、そればかりを考えていた。ここには、御鶴を奪う忌わしき黒煙は無い。舞い散る雪だけが、自分達の周囲にあるだけだ。
「俺で良ければ、絶対に――ずっと、そばにいるから……そばにいさせてくれ」
「僕の方こそ、本当に良いの? 僕は、千秋が知らないだけで、卑怯な人間なんだ」
「別に構わない。何があったのかは知らないし、聞くつもりもない。ただ、そばにいたい。俺は――……」
千秋は続けようとして、その言葉が喉で凍りつきそうになったのを自覚した。
――だが、もう伝えずにはいられない。鼓動が高鳴るその理由を。
臆病になって、諦める――そんな自分とは決別しようと、千秋は誓った。
「……――御鶴様の事を、愛してる」
「っ」
「愛してるんだ。好きだ」
千秋が告げた甘い声が、風に溶け、雪に紛れて二人の間を満たしていく。
「僕も好きだよ――義秋先輩……じゃなく、千秋の事が」