【8】嫉妬




 千秋が、『御鶴様』ではなく、『御鶴』と呼び捨てるようになって、ひと月が過ぎた。
 次第に冬の気配は収まり、白い雪化粧の合間には、蕗の薹の蕾が見える。
 春が来訪しようとしていた。
 遠くの山々に積もっている雪もまばらになり、地面の雪も土で茶色く汚れ始めた。
 代わりに緑の草や葉が、息吹を始める。
「義秋先ぱ……千秋。何をしてるの?」
 外でぼんやりと風景を見ていたら、御鶴に呼びかけられ、千秋は視線を向けた。
 時折――ではなく頻繁に、御鶴は千秋の事を『義秋先輩』と呼ぶ。
 ――義秋とは、一体誰だ?
 恐らく自分達は、恋仲になったのだと思う。そう、千秋は思いたかった。
 けれど、御鶴の口から出る違う名前の男について、聞く勇気が無い。
 ただただ……胸中に嫉妬の嵐が狂うだけだ。
 千秋はたまに思う。
 ……自分は、その誰かの代わりなのではないのか、と。
 だがそれでも良かった。そばにいられるのであれば。
 ――確かにそう考えているはずなのに……空気が喉に張り付いたようになり、息苦しくなるのは何故なのだろう。
「もう雪解けの季節なんだと思って――此処に来てから、もう三ヶ月は経つ」
 これほどまでに長きに渡って、千秋の一座が一箇所に定住したのは初めての事である。
 帰る家が――社が確かに存在する。その事実が、千秋は幸せだった。
「春になるとドクダミの花が咲き乱れるんだ。もう少しで梅が咲くし、その後には山桜が咲くよ」
「楽しみだな」
 ゆっくりと花見をした事など、千秋は一度も無い。
 濡卑は、それが許される存在ではないのだ。
 いいや――……無かったのだ。既に、過去の話だ。
 今ではもう、雛原の人々も、自分達と同じ湯に入る。
 濡卑であっても、普通の人が纏うような着物を身に付ける事が許されていて、普通に食事をとる事も認められ、誰に嗤われる事も無い――それが、この場所だった。
 そんな、過ぎた幸せは、怖くなる。失う事を思うと、恐怖しかない。
 だから、聞きたいのに聞くことが出来ないのだ。
 ――義秋とは誰なのかを。
 この名が、破滅への道標とならないとは、断言できない。千秋の恋情には、理屈は無かったし、他意も無い。だが、この『空間』が壊れるのが嫌だった。打算的だと考えて、時折千秋は憂鬱になる事もある。
「そうだ、良かったら……その、お花見をしない? 僕、お弁当を作るから」
「ああ、良いな。俺は……夜桜を遠目に見た事しかないから、昼の桜を、満開の桜を見てみたい」
「大学の時はサークルで――……ううん、ごめん、なんでもない」
「……いや」

 御鶴は時々、千秋の理解できない単語を吐く。
 あるいはそれは八百万の神々の言葉なのではないかと、千秋は考えている。
 その領域に己が踏み込むことは決して出来ない。
 なのに、知りたくてたまらなくなる。
 御鶴のことであれば何でも知りたいと思うのだ。
 ――嗚呼、義秋という人物は、知っているのだろうか?
 全てを諦めて生きてきた千秋は、この頃初めて、嫉妬という感情を知ったのかもしれない。

 ――最近では、たまに御鶴の家へと行く。
 何をするわけでもなく、珈琲という飲み物を出されるから、静かにそれを嗜む。
 飲みながら、他愛もない会話をする。
 穏やかなそんなひと時は、千秋にとって、とても優しい。
 御鶴の家は綺麗に清掃されていて、床には柔らかい敷物が敷いてある。
 座る椅子は横に長く、こちらも柔らかかった。やはり見た事の無い代物ばかりなのに、不思議と千秋は、既視感を覚える。
 その部屋の居心地が良いと感じるのが常となった。
 ――御鶴がそこにいる事だけが、理由なのだろうか?
「やっぱり千秋も、砂糖やミルクを入れないんだね」
 ある日ポツリとそう御鶴が呟いた。
 千秋は何も言わなかったが、俯いて珈琲の水面をじっと見据えてしまった。
 ……千秋『も』?
 意味をはかりかねながら、熱い褐色の液体で喉を潤す。
 御鶴の言葉、一言一言には、疑問や違和、苦しさを覚えても、これまで千秋は何も言わないできた。
 自分のような……忌み嫌われる、濡卑という存在に、こんな風に訪れた幸福。
 それを思えば、何も言わず聞き流す事が出来たのだ。
 だがそれらは塵芥のように、千秋の胸の中に積もっていく。
 その温度は熱いのに冷たくて、思わず千秋は、奥歯に力を込めた。
 ――もう、耐えられそうにもなかった。
 いつから自分はこんなにも、感情を顕ににするようになってしまったのだろう?
 千秋は目を細める。僅かな怒りと、悲壮感と、嫉妬が、全身の結果を巡り、体を支配していくようだった。
 ――ああ、もう我慢が出来ない。呼吸をする事すらも、苦しい。
「千秋? どうかしたの?」
「――……誰なんだ」
「え?」
「義秋とは、誰なんだ?」
「ッ」
「俺は……義秋には、なれない。千秋だ」
 気づけば千秋は、そう口走っていた。同時に、御鶴の華奢な手首を掴む。
 ――代わりでも良いとすら思っていたはずなのに。
 ――この関係に終止符を打つくらいであれば、我慢できたはずなのに。
 驚いた顔をした御鶴は、それから凍りついたように体を硬くした。
 そして御鶴は、千秋から視線を逸らし、俯いた。床へと御鶴の視線が落ちる。
 ――義秋とは、こんな風に、御鶴に切ない表情をさせる存在なのか?
「義秋先輩は……義秋先輩だよ。そうだね、千秋は千秋だ」
 無理矢理――絞り出したような御鶴の言葉。
 それを、静かに千秋は聞いた。
 二人の間には長い沈黙が横たわったが、千秋は堪えて御鶴の声を待つ。
 別に悲しませたいわけでは無かった。だが、聞かずにはいられない。
 ――自分の中に芽生えている、矛盾した感情に千秋は困惑した。
「義秋先輩はね……うん。もういないんだ」
「いない?」
「――ねぇ千秋。僕のどこが好き?」
 問われた千秋は、咄嗟には言葉が出てこなかった。
 ――どこが? 全てだった。髪も目も唇も手もしなやかな体、足、声、香り、そして、何よりも優しい性格が好きだった。照れるように笑う姿も、微笑む姿も、何もかもが愛おしい。まるで壊れ物のように思えて、大切にしたいと思う。その資格が自分に、あってほしいと願っていた。
「御鶴の、存在が好きだ。側にいられるだけで、幸せだと思っていたんだ――だけど……俺は……」
 やはり我慢が出来ないのだ。
 気づけばそのまま手首を引いて、体勢を崩した御鶴を抱き留めていた。御鶴の体温を感じると、どうしても離したくないと千秋は思う。
 その時驚いたように顔を上げた御鶴の唇に、千秋は触れるだけの口づけをした。
 吸い寄せられるような感覚だった。
「!」
 すると目を見開いて、御鶴が息を呑んだ。
 当然だろうと、千秋は考える。
 ――呪いが御鶴の身にもまた襲いかかるのかもしれないのだから。
 そもそも千秋自身、こんな行為は知らなかったが、気づけば唇を重ねていた。
「ン」
 我に返った時には、御鶴の後頭部に手を回し、さらに深く唇を貪っていた。
 柔らかな髪の感触を楽しみながら、御鶴の舌を絡め取る。
 軽く吸えば、御鶴の肩がピクンと動いて、鼻を抜けるような声が上がった。
 しかし息継ぎをしてから、今度は角度を変えて、再び深く口づけをする。唇の柔らかな感触、濡れた舌――千秋は、自身の体が熱くなっていく気がした。
 世間には確かに衆道が存在する。
 そのやり方は、濡卑であっても伝わってはいる。濡卑は同族以外とは関係がもてない場合が多いから、男ばかりの集団の中にあっては、広まっていないと言えば嘘だった。しかし……普通の人間と体を交わしたという話は、一度たりとも聞いた事が無い。
 腐肉を見せる事が出来ないからだ。
 今は治ったように見えるとはいえ、千秋とて、一度は腐った己の体を御鶴に見せて、嫌悪される事は避けたかった。
 そう思うのに、唇を離して、再度強く抱きしめた時、そこにあった御鶴の体の温もりに、心臓が早鐘を打った。
 ――御鶴は、受け入れてくれるのだろうか?
「千秋……?」
 気がつけば、ソファという名の椅子に、千秋は御鶴を押し倒していた。
 御鶴の瞳には、困惑と僅かな恐怖の色が覗いている。なのにどこか潤んでいて、頬は上気していた。堪えきれずに、首筋へと口を落とし、強く吸って痕をつける。
「ぁ」
 御鶴が小さく声を上げた。
 白い肌には淡い色の鬱血痕が残り、まるで桜の花のように見える。
「――悪い」
 肌に散る赤に見惚れた後、我に返って千秋は体を引こうとした。
 このままでは、御鶴に酷い事をしてしまいそうだった。
 体を重ねたいという欲求を、解消してしまいそうだった。
 だが――その時、御鶴の両腕が、千秋の首へと回った。
「ッ、煽らないでくれ。自制できなくなるから」
「悪くなんか無い、悪くなんか無いんだよ。僕は千秋の事が――……本当に好きなんだから」
「御鶴……」
「もう一回、キスして」
 キスという言葉を千秋は初めて耳にしたが、直感的にそれが口づけの事だと理解した。何故分かったのかは、不明だが。ただ分からないままでも良かった。気づけば半ば無意識に、再び御鶴の唇を貪っていたからだ。キスこれでなくとも、千秋は唇を重ねたかった。
 今度は絡め取った御鶴の舌を引きずり出して、甘噛みする。
 華奢な御鶴の体がピクリと震えた。
 ああ、もうどうしようもない。高ぶった熱を堪えきれないと、千秋は自覚した。
「御鶴、俺はお前と体を繋ぎたい」
「っ」
「嫌か?」
 嫌だと言われ、拒絶されるのを覚悟していた。
 だが、千秋はそれでも、言わずにはいられなかった。
「嫌じゃない」
 しかし返ってきた御鶴の小さな声は、優しかった。千秋にとって、残酷なほどに。