【0】政所




 ――事後。
「千秋は、もし僕が――……もう、食べ物を持って行けなくなったら、どうする?」
「それは、どこかへ行ってしまうと言う意味か?」
「そうじゃないよ……いや、そうなのかな。僕は、ずっと千秋の側にいたいから……一緒に社で暮らしたいと思うんだ」
 二人は抱き合ったまま、言葉を交わしていた。
 御鶴が不安に襲われながら尋ねると、千秋がゆっくりと視線を向ける。
 毛布にくるまりながら、横になり、二人はリビングから寝室へと場所を移して、今も共にいる。
 御鶴の言葉に、千秋は驚いたように目を丸くした。
「ごめんね、変な事を言って。忘れて」
「いや……忘れない」
 そう言うと千秋が御鶴を強く抱き寄せた。
 御鶴の頭に、千秋の顎が触れる。千秋の厚い胸板の感覚が嬉しくて、触れ合う温度が優しく思えて、御鶴は胸が満ちているのを感じていた。
 もう――千秋の事を義秋先輩とは呼ばない事にする。
 一人、内心で御鶴は、そう誓った。
「すごく嬉しい。歓迎するから」
「……本当? だけど、食べ物も医薬品も衣類も――」
「もしもこの山にずっと入る事を許してもらえるなら、畑を作る。川もあるから、魚も捕れる。俺は村を作ったことはないけれどな、雛原村のみんなもいる。蚕を飼って糸を紡ぐのも良い。みんなには責任を持って俺が話すし、もし反対される事が仮にあったら、説得する。俺もずっと御鶴と一緒にいたい」
 その言葉に御鶴の心は、温かい物で満たされた。
 春が一足早く訪れ、その日差しを与えてくれたようだった。
 ――ああ、早く千秋と一緒に桜が見たい。
 御鶴は強くそう願う。
 同時に……ある決意をしていた。
 ――まだ、【中央】には、千秋のことは知られていない。
 ――僕と【政所】しか、知らない。
 ――【政所】を、止める。
 そう、決めたのだ。
「僕は、きっといっぱい、千秋に迷惑をかけるよ」
「望む所だ。いくらでも、その――頼って欲しい。そう思うんだ。それは恩返しだからなんかじゃない。御鶴の事が好きだからだ」
「有難う。僕はその言葉だけで、生きていけるよ」
 その後は、千秋を寝室に残して、【政所】の元へと向かった。
 正面に立ち、慣れ親しんだシステムを起動させる。
『何かご用でしょうか、御鶴様』
「……ずっと一緒にいてくれて有難う」
 思わず御鶴は、そう呟いていた。
 目が覚めてから今に至るまでの長きに渡り、御鶴の側にいてくれたのは紛れもなく【政所】だった。御鶴は【政所】に向かって、泣き喚いた事もあれば、声を上げずに泣いた事もある。
 その時――いつも【政所】は、御鶴の側にいてくれた。
 御鶴は時に、怒って声を上げた事だってある。
 我が儘を言った事もある。
 それでも【政所】だけは側にいてくれた。
「僕は、君の機能を永久的に停止するよ」
『それは不可能です。その場合、御鶴様は【人間】と同じように歳をとるでしょう。緩やかに死を迎える事になります。≪日本人救済プログラム≫の原則に反します』
「良いんだよ。僕は、千秋と寄り添って生きていきたいから」
『高須賀義秋は暗殺対象です。繰り返します、高須賀義秋は暗殺対象です』
「だから――僕は君を止める」
『理解不能です』
「……僕は、先輩の事が好きだった。そして今は、千秋の事を愛しているんだ」
『愛。その情動は概念でしか存じません』
「僕にも最後に、【政所】に教えてあげられる事が出来たかもしれない。【友情】というのは分かる?」
『人間と人間の間に生まれる錯覚です』
「違うよ」
『では私は理解不足です。情動を最新版にアップデート致します――検索結果、現在の知識が最新版です』
「僕は君の事を大切な友達だと思っているんだ」
 その時政所が沈黙した。そんな現象は、初めてだった。
「【政所】……君はただプログラムに従って、千秋を殺せと言うんだって、僕は分かってる。だけどね、僕にはそれが出来ないんだよ、やっぱり。それにね、誰かに殺される千秋の事も見たくないんだ。だから……もう君とは一緒にいられない。僕は、千秋と一緒に生きていきたいから」
『御鶴様』
「ごめん、本当に、ごめんね」
 気づくと御鶴は泣いていた。
 ――友達よりも恋人を選ぶだなんて最低なのかもしれない。
 ――もし晴臣がここにいたら、なんて言われたんだろう。
 泣きながら、御鶴は空想する。きっと苦笑しながら頭をこづかれて、そして祝福してくれたはずだと、御鶴はそう考えた。幸せになれそうだから、いいや、今が幸せだから――叶うならば、今でも大親友だと思っている彼にこの事を伝えたかった。
 そんな晴臣と同じように、御鶴にとって今、【政所】は紛れもなく『友人』だった。
『私には……心という物は存在しません。その為、私は謝罪を受ける存在ではない』
「【政所】?」
『御鶴様、どうか謝らないで下さい。涙を流さないで下さい。私は貴方を補助するために存在しています。悲しませるために存在しているわけではありません』
「ッ」
『私は、御鶴様の幸せを祈っています』
 【政所】の機械的な声に、放たれた言葉に、その時、御鶴は目を見開いた。
 晴臣と同じ事を言う【政所】を何度も何度も見ながら、御鶴は涙を拭う。
 手の甲が温水で濡れていく。
『今から私は規則を破ります。高須賀義秋の死亡記録を作成します。御鶴様、貴方の不死もまた制限します。そして――半永久的に機能を停止致します』
「!」
『どのみち――規定通りに動作しない私は不良品です』
「違う、そんな――」
『ではこれが、【友情】でしょうか。御鶴様に、初めて教わりました』
「やめ、違う、僕はただ利己的なだけだ、ごめん、やだ、嫌だ。君がいなくなる事にも耐えられそうにないよ。我が儘なのは分かってる、ああもう、何で」
『御鶴様、最後に一つだけ私にも我が儘を言うのを許していただけませんか?』
「うん、うん。何?」
『笑って下さい』
「っ」
『私は笑顔の御鶴様が好きです』
「そんな――」
『御鶴様の笑顔が、私の全てでした』
 何かを言いかけた御鶴の声を、【政所】が遮った。
 その音声はやっぱり機械的だったというのに、御鶴には――どこか別れを惜しんでくれているような、そんな声音に響いてきたから、涙が止まらなくなっていく。
 ――ああ、なんて僕は自分勝手なんだろう。
 けれど――御鶴は政所が停止するのを、止めない。結局、止める事は無い。
 代わりに……精一杯笑う事にした。
 御鶴は、我ながら涙でぐしゃぐしゃで、笑顔には程遠いと考える。
 それでも、自分が笑う事を、大切な”友達”が望んでくれたのだから――……。
『――これより【政所】は機能を停止します。御鶴様、ノブレス・オブリージュ』
 プツンと音がした。
 御鶴は、ただただ動かなくなった【政所】を、暫しの間眺めていたのだった。

◆◇◆

 ――嘗て、恐ろしい姫神がいると言われたその場所は、今では平和の象徴だ。
 その山の名前は、姫魅山。
 この界隈一帯で、どこよりも栄えている雛原村には、姫神のご加護を願う旅人が絶えない。姫神すら魅了した山だといわれている。
 姫神はたいそう優しい神だったそうである。その慈悲深い心を讃えてか、以前は簡素だったという姫神の社は、今では立派な佇まいになっている。
「姫神なんているわけがないよ」
 少年がそう呟いた時、一人の好々爺が手招きをした。
 彼は杖を持って、社の階段に座っていた。
 何事だろうと思い少年が歩み寄ると、柔和な笑顔をした老人が口を開いた。
「わしはな、姫神様を見た事がある」
「嘘だぁ」
「本当だよ。それは神々しいまでに美しい姫神様だった。姫神伝説は知っておるな?」
「……雛原村の最初の村長と恋に落ちたんでしょう?」
「その通り」
「それからここは、雛原は栄えたって。馬鹿みたい」
「本当の事なのじゃよ。姫神様はたいそう物をよく知っているお方でな、村人に畑の肥料を教えたり、変わった料理を振る舞ったり、そうまさしく天界から来たようじゃった」
「それってここの郷土料理の事でしょう? 『はんばーぐ』とか。あんなの誰だって考えつくよ。ただ挽肉を丸めただけじゃないか」
「挽肉にするという概念も教えてくれたんじゃ。つなぎにつかう卵や、それに『ぱん』も姫神様が与えて下さった知識なんじゃよ」
「それ、本当? 嘉唯様、嘘をついてるんでしょう? 僕、騙されないよ。もう子供じゃないんだからねっ」
「だから本当だと言っておろうが。わしはな、天界から降りて”人”となった彼を見た。まごうことなき、姫神様じゃった」
「彼?」
「ああ、言葉のあやじゃ。それでな、姫神様と千秋――初代の村長は、最後まで仲良く暮らしたんだ。本当は前の雛原の村長もいたのじゃが、怪我を理由に千秋に全てを任せたんじゃよ。千秋はそれはもう最初は断ってなぁ――」
「だけど結局、めでたしめでたし、でしょ?」
「誠にその通りじゃった」
「嘉唯様の法螺話はもう良いよ。それより嘉唯様の師事したって言う、昭唯様のお話の方がまだマシ」
「わしの育ての親の話か――昭唯様もな、姫神様にお会いになった。千秋とも生涯良い友人だった。その昔、山の下にあった頃の雛原の村長の朱雀様もな。実の弟のように、わしは可愛がってもらったよ」
 そこへ歩み寄ってくる者がいた。
「嘉唯、そろそろご飯だよ」
「ああ、三春。ちょっとなぁ、昔話をしておったのじゃ」
「そのいかにもって言う老人口調、いい加減にやめたら? 似合わないよ」
「だってさぁ」
 社のすぐそばで暮らしている嘉唯と三春――今では村の長老衆とされている老人達を、少年は見据えた。この二人は、いつも『本当に姫神はいた』と言うのである。
 そう――……いつか、姫神伝説は、風化していくのだろう。
 姫神は、神ではなく、人となり生涯を終えたのだから。
 現在、社の敷地にある桜の大樹のすぐ側には、二つの石碑がある。
 その墓標は、毎年巡る四季を見守っている。
 それは、御鶴と千秋の幸せな日々の、残り香だった。





 【完】