【二】
物心ついた時。
与えられた野兎の肉を、夜野(よるの)は、弟の、狗鷲(いぬわし)である、昼奈(ひるな)に奪われていた。それが、初めて世界を理解した瞬間の記憶である。名前をつけたのは、父である雪狗山の天狗神、夕陽(ゆうひ)だ。卵から孵化し、数十日。それまで己らを抱いていた母は、普通の狗鷲だった。そんな母に合わせて、恋に堕ちた父もまた、常時は狗鷲の姿を象っていた。
巣があるのは、巨大なブナの木の上だった。
もう少し下るとブナ林があるが、この近隣には、ブナの木は二本しか存在しない。
理由は一つで、ブナは毒素を出して、他のブナを駆逐してしまうという習性があるからだ。遺伝子が同一様態の個体のみが毒から逃れる為、二本だけが存在している。
餌を必死で求めて嘴をあけた夜野であるが、昼奈ばかりが餌を食べる。狗鷲は兄弟喧嘩が多いため、片方しか巣立たないというのは、有名な話だ。自然界は厳しい。空腹を覚えるようになったのは本能だったが――この、『物心がつく』という経験をしたのは、夜野のみだった。天狗となる素質を宿して生じたのは、夜野のみだった。
最初にそれに気づいたのは、父だった。大層喜んだ父天狗は、それから楽しげに、二本あるブナの、巣がある側に話しかけた。
「珠樹(たまき)! 我の子が、天狗となる素質を持っているぞ」
「それは、それは。喜ばしい事ですね」
するとブナの木が答えた。響いてきた流麗な声音に、夜野は目を丸くする。見ていると、木の枝の所に座る麗人の姿があった。艶やかな長い髪を、後ろで一つに結んでいる。その存在が人間ではなく、珠樹という名のブナである事に、すぐに夜野は気が付いた。
「すぐに、神宿(かみすく)様に報告してまいる!」
「いってらっしゃい」
この時の夜野は、まだ『言葉』をほとんど理解出来なくて、喋る事は叶わなかった。だが不思議と聞き取る事は出来た。それは毎日、父と珠樹が人間の言語で会話をしていたのを生まれながらに耳にしていた結果なのだろう。
「大丈夫。お父様は、すぐにお戻りになりますよ」
「……」
「神宿様というのは、この山の一番上におられる、この山で一番偉い神様です。動植物の血を引くものには自然界の、そして僕や夕陽様のような神格(しんかく)を持つ存在には、この雪狗山独自の、序列があるのですよ」
「?」
「夜野も、将来的には、夜野もまた、神宿様の元に鍛錬に行く事になります。色々と学ぶと良い。僕も色々教えてあげるから」
柔和に微笑む木の神に、この日夜野は魅了された。
季節は、春。
まだ孵化してすぐの事である。
その後――両親は、獣として、昼奈に重点的に餌を与えるようになった。最初は空腹と寂しさに耐えていた夜野であるが、代わりに父が、人型を象る術を教えてくれてからは、毎日が明るくなった。ブナの木の枝に座ったり、幹から出てくる珠樹が、夜野の相手をしてくれるからだ。勿論飛び方は、弟と共に両親に習ったが、それ以外の時分、夜野は珠樹とばかり遊んでいた。遊んでいるつもりではあったが、珠樹は適切に人の言葉や山での礼儀作法を教えてくれる。夕陽にも教育を頼まれていたらしい。
「ざっと昔、あるところに――」
人間の幼子に語り聞かせるように、珠樹はいくつものお伽話を聞かせてくれた。事実もあればただの伝承もある。
「そのお話はもう聞いたぞ!」
生まれて一ヶ月半、既に大きくなりつつある夜野は、初めて人型になった時はそれこそ五歳児程度の大きさであったのが、今では十代半ばの外見に変化した。狗鷲が巣立ちを迎える梅雨の時期が来れば二次性徴は完全に終えた姿になるだろうし、その後五年もすれば成鳥となり、人間でいう所の十八歳から二十歳程度の姿を象る事が可能になる。天狗の素質があっても、序盤は変わらない。
「随分と言葉が上手くなったね」
「それは珠樹のおかげだ」
「その通り。先生の言う事はよく聞くように」
「う……」
「中身はまだまだ子供だね」
「も、もう立派な大人だぞ! 餌をきちんと自分でとる事も出来るようになったんだ!」
両頬を膨らませて、夜野が唇を尖らせる。それを見ると、珠樹が吹き出した。
木漏れ日の下、穏やかな初夏の昼下がり。
雪狗山の一角には、笑い声が絶えなかった。
その後、梅雨が来た。弟の昼奈は無事に巣立った。無論、まだ両親のテリトリーにおいて、狩りの練習などに励んでいる。両親は、気を利かせてくれて、隣のブナに新しい巣を作るとの事で、珠樹のブナに残された巣は、そのまま夜野が使って良い事になった。
そうして秋が来ると、昼奈は父母のテリトリーからも独り立ちしていったが、この部分は、夜野に父が『天狗教育をする』という名目で、残る事を許された。
夕陽達夫妻は、隣のブナの木――珠樹の双子の弟なのだという、木魂(こだま)の元に新たに構築した巣で幸せそうにしている。木魂もそちらの会話に混じる事があり、あちらはあちらで楽しそうだ。遠目にそれを眺めつつ、夜野は今日も珠樹と視線を合わせる。
「今日の昔話は、中々だったぞ!」
「夜野はこういうお話が好きなの?」
「ああ。姫と結ばれるというのは、ようするに父上と母上のように、番となるって事だろう? 俺も早く、番が欲しい」
「恋に恋するお年頃、かな」
「な! 子供扱いするな!」
夜野が抗議すると、クスクスと珠樹が笑った。するとブナの木が揺れて、葉が擦れる音がした。そして、内心で考えた。もう己は、本当に子供ではないのだと。何せ、きちんと恋という感情を学んでいた。夜野は、珠樹の事がとっくに大好きになっていたのだ。だけど、その気持ちを無理に押し付ける事もしない。その程度には、精神的にも成長していた。
このようにして、新しい冬が来た。
雪狗山の名を冠するくらいには、この一帯は、雪が深い。紅葉の衣から白銀の着物に装いを変えた珠樹の元で、夜野は生まれて初めて雪を見た。それからも、成鳥する五年目までの間、毎年二人で山の雪化粧を見た。幸せなひと時が続いていく。